第70話:上手くやれていますか?
ワクワクした気持ちでアリアは食堂のドアを開けた。
フウとセツが自分を待っていると想像しながら、食堂へと足を踏み入れる。
そして、挨拶はなんと掛けようかと楽しく考えながら、入り口からフウとセツが待っている席に視線を向けた。
さて、やっぱり普通に「こんにちは!」と、掛けようと口を開こうとした時、ようやくアリアは気が付いた。
その途端、今まで楽しげに浮かべていた笑みと共に固まった。
映る視界には、誰もいない空虚な席が見えた。
アリアの表情から笑みが消えた。
暫し呆然と立ち尽くすアリアにシオンの声が届いた。
「お嬢様、如何なさいましたか?」
アリアはその瞬間我に返ると、なんとか取り繕った笑みを浮かべ、シオンに顔を向けた。
「あはは!ちょっとお腹が空き過ぎてボーっとしてしまいました!」
気力を振り絞り、無理に明るく返事を返す。
「シオン、早く席に向かいましょう!わたくし、もうお腹と背中がくっ付いてしまいそうです!」
アリアの様子に何かを感じたシオンが訝しげに口を開こうとした時、アリアが強引にシオンを誘い、自分の席へと向かった。
そこから、朝と同じように、いや、1人での昼食が始まった。
ジェームズが丁寧に昼食をテーブルの上に並べてくれる。
並べ終えると、慇懃に礼をして、背後の壁際に静かにそっと下がっていった。
並べられた料理はどれも美味しそうであり、アリアの健康を気遣った彩に富んだ、バランスの良い品々であった。
思わず喉が鳴りそうな程に、魅力的な昼食であった。ただそれは、普段であればでの話であった。
アリアには恐らくダニエルが丹精込めて作ってくれた料理であろうという事しか、感じられなかった。
彩も香りも普通の食べ物に見えてしまう。
アリアは何とか手を伸ばし、料理を口に運んでいった。
そうして、料理の残りが半分に届くかどうかで食べることができなくなった。
満腹ではないが、気持ち的にこれ以上身体が料理を受け付けなかった。
料理を残すことは自分にとって許し難い事であったが、どうやっても食べられない。
食材と作ってくれたシェフのダニエルに申し訳ない気持ちが胸中に溢れかえる。
アリアは静かに席を立った。そして、ダニエルの前に行くと、「ごめんなさい」と一言謝罪し、食堂から出て行った。
廊下に出る直前、アリアを心配した声が聞こえた気がしたが、それに振り返ることはなかった。
廊下を進むアリアの心の中には、なぜという疑問が浮かんでいた。
朝食の時にいないのであれば、恐らく寝坊かという推測は立てられる。だが、昼食の時にもいないのであれば、余程のお寝坊さんでなければあり得ない。
アリアは、そんな余程のお寝坊さんかと、フウとセツの顔を浮かべて考えてみた。
(まだ昨日会って2日目だが、あの2人がここまでの寝坊をするとは思えない。別に明確な根拠があるわけでは無いが、直感的にそう思うんだよな。それに、スイが絶対に朝のお母さんと化して、2人を起こしに行くだろう。いつまで寝てるの!って。・・・だからあり得ない。じゃあ、なんでいないんだ。朝に続いて昼も?)
そう最後に疑問を自身に投げかけた時、嫌な答えがアリアの脳裏を過った。
(一晩寝たら、やっぱり自分達を虐めていたアリアのことが許せなくなったとかか!?)
そう考えた途端、この答えが一番アリアの心にしっくりと浸透してきた。
(・・・だから、俺の前に姿を現さなくなったのか)
思考がどんどんと下り坂を転がり落ち始めていく、アリア。
(・・・そうか。・・・そうなのか。・・・・・)
一度勢いの付いた下り坂は、そうそうに止まれない。
(昨日の様な楽しい時間は、もうこないの・・か)
呟き、昨日の事を思い出す。
(・・・・・苦しいな)
空虚な胸が締め付けられた。
アリアは心配そうに自分を見つめているシオンには気づいていた。
自分の思考がどんどんと暗く沈んだものに代わっていっても、シオンだけは見えていた。
訊ねようか考えてみた。
自分の事を、今どう思っているのかを尋ねてみたくなった。
それと、フウとセツの事も聞いてみようかとも考えてみた。
けれども、怖くてできなかった。勇気が湧かなかった。
だから、アリアは、当たり障りのない事を口にする。
「シオン、心配は要りませんよ。わたくしはどこも体調が悪い所はありません。ただ、少しだけ、思う様に食べられなかっただけです」
そう呟き、シオンに微笑んで見せる。
シオンはアリアの話と表情に何かズレを感じた。だが、今は触れないでいたほうが良いものを直感的に感じた。
「分かりました」
だから、軽く答えるだけに留めた。
しかし、その後に少しだけ言葉を続けた。
「でも、もしも何か体調が悪くなった時にはすぐに呼んで下さい。一瞬で駆けつけます」
アリアの顔を見つめて言った、シオン。
アリアはシオンにそう声を掛けられた瞬間、今まで堪えてきた不安が零れていった。
優しい気持ちの籠った言葉に、シオンだけは自分の味方なんだと思えて、そう思う様にして、一言だけ呟いた。
「部屋に着いたら、少しだけ良いですか?」
シオンは静かに頷き、アリアと共に部屋へと歩いていった。
シオンが部屋のドアを閉じた途端に、アリアはシオンの胸に飛び込んだ。
「ねぇ、わたくし上手くやれていますか?」
シオンは自身の胸で震えるアリアを優しく包み込んで答えた。
「ええ、精一杯頑張られていると思いますよ、アリアお嬢様は」
何が上手くやれているのか、シオンにはアリアの意図を理解することができなかったが、けれども、ここは絶対にアリアに肯定すべき場面であることは理解できた。
シオンの言葉が温かみをもって胸に沁み込んでいく。
「ねぇ、もう少しだけこうしていても良いですか。後少しだけ。元に戻るまでこうしていていいですか」
「はい、どうぞお嬢様。シオンの身はお嬢様の物ですから、幾らでも寄りかかって下さい」
そう答え暫くの間、シオンはアリアを慈しみながら、胸で包み続けたのであった。
大分気分が浮上したアリアは、顔を上げる前にだらしのない顔を見られないように、シオンの胸元で拭ってから顔を上げた。
「シオン、午後の予定は何でしたっけ?」
そう訊ね、シオンを仰ぎ見る。が、見上げた先で、シオンがもう堪らないといった表情を浮かべていた。
(ああ、お嬢様。そうですよね。見られたくないですよね。少し涙が浮いた顔なんて見られたくないですよね。拭いたくなりますよね。でもでも、そんな仕草がシオンには堪らないんですよ。可愛すぎます、お嬢様。なんでこんなにもお可愛くなられたのですか、お嬢様。なんなんですか、ここの所の私は。今が人生の絶頂期ですか!!いや、いや、そんなことはないですよね。今が上がり時ですよね。きっとそうですよね。うなぎ登りも夢じゃないですよね!!・・・・・)
恍惚とした笑みを浮かべるシオンに、一気にアリアの気持ちが冷静さを取り戻していく。
そして、シオンのおかげで完全に復調したアリアは、極めて冷ややかな眼差しで、何かにうっとりとご執心なご様子のシオンに、ぴしゃりと声を張った。
「シオン!!聞いていますか!!」
一喝を入れたアリアは、シオンを極寒の冷気籠る視線で見据えた。
「!?」
一喝により、シオンが遥かなる時空の果てより今帰還した。それと一緒に、得も言われぬゾクゾクとする悪寒が背筋を快感をもって駆け上っていってもいた。
シオンが考えてはいけないどこかから帰ってきたことを察したアリアは、見せ付けるように嘆息すると、口を開いた。
「シオン、今日の午後の予定は何ですか」
簡潔に問い掛けるだけにする。藪蛇は出したくないのと、何故か貞操の危機を犇々と実感できたので、アリアは一切のシオンへの質問を忌避したのであった。
シオンは、今度こそしっかりとアリアの問い掛けに答えていった。
「はい、お嬢様。本日の午後の予定ですが、訓練場での魔法の授業となります。一昨日ぶりにお見えになられたソウシ先生も、実に楽しそうにしていましたよ」
ふふふと、シオンも実に楽しそうに笑みを浮かべそう締め括った。
「そうですか」
シオンの話に平坦な声音で答えた、アリア。
そして、その後をまた平坦な声音で続けた。
「分かりました。では、シオン、時間になったらお迎えよろしくお願いします」
「畏まりました、お嬢様」
アリアに答え、恭しく頭を下げた、シオン。
そしてその後、アリアに訓練場に向かう時間を伝えると、ドアの前で一礼し部屋から退室していった。
アリアはシオンが出ていったドアを見つめて心の中で思った事を吐き出した。
(シオンさん、ギャップが激しすぎるよ!真面目なの?不真面目なの?)
そんな他愛のない愚痴を零し終えると、視線をドアから外した。
途端に独りぼっちになったアリアは、ベッドに腰をかけて時間になるまでずっと窓からの景色を見つめていくのであった。
時間になり迎えに来たシオンと一緒に部屋を出たアリアは、訓練場に向け廊下を進んでいた。
その胸中では、一旦の納まりを見せていたフウとセツへの懸念が再燃しかけていた。
だから、アリアは思考を逸らすために、魔法について考えを巡らせていった。
(・・・魔法。・・・魔法。・・魔法の授業か。火の玉もどきの俺の魔法か)
一昨日の授業風景が脳裏に呼び起されていく。
ぽっと出て、空中に揺蕩い、青白い光を発するだけの魔法。
ぼんやりと浮かび漂うだけの何の役にも立ちそうにない魔法。
(伸びしろあるのか、俺の魔法は)
自然に零れた疑問の念。
更に、記憶が呼び出され。
急激に身体から力が抜けていった記憶。
(俺の魔力は増えるのか)
心の底からの懸念が心の口を衝いて零れていた。
(ミジンコ並みのあの数値から、伸びるのか。このまま、ほんの一瞬火の玉もどきを灯すだけでぶっ倒れて、俺の魔法人生は一生を終えるのか)
フウとセツの時とはまた別のベクトルで、思考がマイナス方面へと向いていく。
(シオンがさっき言っていたが、今は楽しそうにしているらしいソウシ先生も、俺の酷い魔法をずっと見続けていたら、いつか飽きれ果ててしまうんじゃないか。それで、教えても何の成果も出ない無能な俺に愛想を尽かせて、辞めてしまうんじゃないのか)
アリアのネガティブ思考は更に深みへと嵌まっていく。
(俺、魔法を碌に使えずに終わるのかな。・・・魔法・・使いたかったな・・・)
最後に行き着いた先で、暗澹たる未来に悲嘆し、弱音が零れ落ちていた。
そして、その場で歩みを止めてしまう。
アリアはポツリと独白の様にシオンに不安を吐いた。
「わたくし、このまま魔法が使えずに終わってしまうのでしょうか。ずっと、魔法を羨むだけの人生なんでしょうか。・・・わたくしのようには、使えないのでしょうか。・・・。魔法、使いたいのにな・・・」
零す度に悲壮感に苛まれていく。
弱い自分に悔しくて、悲しみが募っていく。
いつの間にか身体に沿う様に落としていた手に力が入っていた。
強く握りしめられた握り拳は、白く染まり切っていた。
アリアは見上げるようにシオンの顔を見た。
いつものように慰めてはくれないかと。
しかし、仰ぐ先の表情は、微笑みではなく真剣なモノであった。
「アリアお嬢様。お嬢様は、魔法が好きですか?」
シオンの問い掛けにアリアは間を置かずに答えた。
「はい、好きです」
はっきりと意思を示した。
「そうですか。それならば、何も心配はございませんよ、アリアお嬢様」
シオンの表情に笑みが浮かんだ。
しかし、アリアはシオンの言葉の意味が分からず、困惑する。
「お嬢様、何事も上達するには、気持ちが必要です。お嬢様の魔法を使いたいと、魔法が好きという気持ちが、これからの上達には何よりも大切なのです」
そして、シオンがアリアの頭をそっと撫でる。
「今は出来なくても良いんですよ。別に、今の、ほんの少しだけ、魔法が使えるだけでも良いのです。シオンはどんなお嬢様でも大好きですよ」
「・・・。いや、わたくしは、魔法を使ってみたいです。魔法を使いたいのです」
(だって、折角魔法がある世界に来たんだから。空想じゃなくて、現実で使えるんだから。使いたいっていう気持ちと、魔法を使うと楽しいんだろうなっていう気持ち。それと、俺は一昨日一瞬だけど出せた、自分で本当に出せたあの火の玉もどきに今までの人生で一番感動したから)
シオンの言葉で塞いでいた気持ちが上向き始めていく。
アリアの表情に笑みが戻り始める。
(そうか。本当に好きなんだな、魔法が!)
浮上しきった気持ちで、今度はシオンに顔を上げる。
そして、嬉しそうに微笑むシオンに口を開いた。
「ありがとう、シオン。わたくし頑張りますね。・・・昔みたいに戻れるように精一杯頑張ります」
萎れかけていた蕾が再び息吹を取り戻し、華やかに花開いた。そんな華々しいニッコリとしたアリアの笑顔にシオンの中の何かが弾け飛んだ。
「お嬢様、その意気ですよ!!きっと以前の様に戻れると、いやそれ以上にご成長なされますよ、アリアお嬢様!!」
アリアの全身を己の胸で抱擁し、アリアの温もりに、爽やかな香りに、シオンは浸っていく。自身の愛おしい、可憐な主に心から敬意を込めて、胸で包み込んでいた。
そう上辺では・・・。
今シオンの心の中では、絶頂期の如き、狂喜乱舞に陥っていた。
(可愛すぎです、お嬢様。ああ、もう、なんてシオン泣かせの可愛さなんですか、お嬢様。しゅんとしたお姿など、胸を粉砕する威力ですよ。ふふふふふ。もう、お部屋にお持ち帰りしたいです。このような可愛すぎるお嬢様を、ベッドで抱き締めて眠りたいです。きっと至上最高の天国の様な夢が見られるに違いませんよ。どうしましょう、実行しちゃいますか。いや、実行しちゃいますかではなく、実行しちゃいましょう。・・・、ローズには廊下で寝てもらえば、構いませんしね。では、善は急げと言いますし、据え膳喰わぬはシオンの恥ですしね!!!)
シオンの思考が危うい方向に流れかけた時、アリアが顔を上げてシオンを見た。
「シオンのおかげで自信を持てました。ありがとう、シオン。それでは、折角の自信が薄れる前に、早く午後の授業に向かいましょう。ソウシ先生をお待たせさせる訳にはいきませんからね」
そう言い、スルリとシオンの腕から抜けると、先立って歩き出した。
シオンの存在は確かに自分にとって、掛け替えの無い大切な存在だ。
それは認められる。
けれども、時たま非常に自身の貞操を危惧する気持ちが湧き上がってくる。
何故か今がそう感じられ、一刻も早く訓練場に向かいたい気持ちを危機として抱いた。
大事なのでもう一度。
何故かは知らないが。
だから、アリアが抜けてしょんぼり打ち萎れて立っているシオンにもう一度声を掛けた。
「シオン、何をしているのですか。早く来ないと置いていきますよ」
「はい」と少々元気のないシオンの声を背で聞くと、アリアはやってやるぞと、気持ちを滾らせて歩みを再び始めた。
(シオンの言ったとおりだ。好きこそ物の上手なれだな)
屈託ない笑みを浮かべたアリアは、心の中で宣誓する。
(俺は魔法が大好きだ!!絶対に昇ってやるからな!!諦めこそ己の最大の敵だ!!)
失いかけた自信を再び滾らせたアリアは、元気のないシオンに仕方がないなと声を掛けた。
「先程のお礼です。少しだけならわたくしを抱き締めていいですよ」
「!?」
シオンの悄然としていた気持ちが一瞬で吹き飛んだ。
誰が見ても分かる程に喜びに笑顔を咲かせたシオンが、幻聴ではないかとアリアに訊ねた。
アリアはそれに、本当だから抱き締めて良いよと、もう一度伝えた。
すると、シオンは感激して涙を流しながら、アリアを再び自身の胸で抱しめた。
アリアは仕方ないなと苦笑しつつ、極上のクッション性に心の中では破顔一笑を零しつつ、身を委ねていった。
こうして、シオンは気力を十全に回復し、アリアは危うく鼻血を零しそうになりながらもうっとりと夢心地に浸り、2人は別々の充実した時間をほんの僅かの間、堪能していった。
そして、再び訓練場に向かい始めた後、アリアはシオンに呼びかけた。
シオンが小さな声で自分を呼ぶアリアの声に気付き、顔を向けた。
アリアは不敵に微笑むと、隣に来たシオンに武者震いの如き震えで己が身体を震わせながら、差し迫った声を発した。
「シオン、戦です。わたくしの戦場であるトイレに導いて下さい」
心の靄が晴れるや否や、今まで隠れ潜んでいた敵がアリアの下腹部を急襲してきた。
大事の前の小事は無視できない。
アリアはシオンを急かしながら、未だ覚束ないトイレの道順を辿っていった。




