第27話:シオンは渡しませんよ
アリアはシオンに30分近く、こっぴどく叱られ落ち込んでいた。ベッドの端に力なくちょこんと座り、自身の握り拳とその拳を乗せた太ももを見つめていた。
(何やってるんだろうな、ハハ)
力なく内心で呟き笑った。
シオンから髪の大切さと、チェイサー家のご令嬢としてもっと身嗜みに気を使い、品性を磨きなさいと窘められた。
アリアは、シオンに叱られて純粋に落ち込んでいる事と、おっさんの自分が令嬢としての嗜みを説かれた事の2つに落ち込んでいた。
年相応の少女の身体は叱られた事で涙を瞳に滲ませ、アリアの意思とは関係なくその涙を雫として零した。
アリアは、握りしめた拳に当たる雫を沈んだ気持ちでぼうっと眺めていた。
シオンは、アリアが身体を震わせて、涙を流す姿を見て心が痛む思いだった。
アリアを想って、立派なご令嬢になれるようにと真剣に叱った。しかし、目の前で悲しむアリアを見ると酷く後悔し、もっと他に叱る以外の方法があったのではないかと自身を責めた。
俯いて小さく背を丸め涙を零すアリアに、シオンは声を掛けようとした。少し、叱り過ぎてしまったと謝ろうとした。だが、口は開くが言葉が出ない。何度も試したが言葉が出てくれない。
おかしいな、何で出ないのだろうと考えた。だが、その答えは浮かばなかった。そして、シオンがアリアから視線を外すと視界の端に、大きな姿見を捉えた。その鏡には、アリアと同じように涙を零す自分が映っていた。手で頬に触れてみると、指先が濡れた。シオンは気付いた。ようやく気付くことが出来た。昨日の夜にアリアの笑顔を見られるようにと祈ったのに、自分でアリアの笑顔を消して、涙を流させてしまったと。
叱ったのはアリアの為であった。アリア付きの従者として、立派にご成長してもらいたいがために行った。果たして、それだけだったのか。今までの鬱憤を晴らそうとして、今のアリアに、優しいアリアにぶつけようとしていなかっただろうか。そんな愚かなことをしてしまったのかと、シオンは考えてしまった。そして、責めた。自身を非難した。最悪で最低なことを仕出かしたと自責の念に駆られた。
「アリアお嬢様」
それだけは絞り出せた。だが他は、声にならない、空気だけが漏れた。
シオンがアリアに視線を向けた。アリアの小さな身体が見えた。俯き、涙を零すアリアを見た。その途端、後悔、自責の念が消えて、シオンを恐怖が支配した。
自分のせいでアリアがもう笑ってくれなくなるかもしれない恐怖。そして、笑顔が消え、昔の冷酷なアリアに戻ってしまう恐怖。
いつの間にか、無意識にアリアから離れていた。アリアの傍から離れてしまっていた。
(何で!?)
恐怖から逃げている自分を見た。
昨日、あんなにも、アリアに一生お傍で仕えると誓ったのに、傍を離れてしまった。避けてしまった。自分はこんなにも薄情だったのかと自身を咎めた。
シオンは身体だけでなく、心までもアリアから離れてしまう幻視を見た。
(嫌だ!!)
シオンは幽鬼のような、ふらふらとした頼りない歩みでアリアに近づき、抱き着いた。そして、アリアの胸に頭を当てた。
「ごめんなさい、アリアお嬢様」
アリアを確かに全身で感じられると、やっと口から言葉が出た。
しかし、まだアリアの顔を見る勇気は湧かなかった。
アリアは、突然シオンに抱き着かれたことに吃驚した。
(何事!?)
吃驚したことで、涙が一瞬で引っ込んでしまった。
アリアは抱き着かれて強引に頭を自分の胸に押し当ててきたシオンに、また何か良からぬことでもするのかと、警戒した。そして、落ち込んでいる時に何するんだこの駄メイドはと、非難の目を向けた。
アリアがシオンを引き離そうと肩に手を掛けようとした時、シオンの口から小さな声が零れた。
「ごめんなさい、アリアお嬢様」
アリアは、肩にかけようと上げた手を静かに降ろした。それから、いつもとは逆に、アリアの胸に頭を預けるシオンを見下ろした。
シオンは、アリアの胸に頭を預けながら小さく身体を震わせていた。それを見て、アリアは、叱る側のシオンも辛かったことを悟らされた。
(俺だけが、辛かったわけではなかったのか)
そう思い、罪悪感に苦しむシオンを抱き締めようと手を上げた時、シオンがまた小さく言葉を紡いだ。
「昔の様な冷たいお嬢様に戻らないで下さい。また私達に笑顔を見せてください。どうか、お願いします、アリアお嬢様」
アリアは、驚きから目を見開いた。しかし、すぐに柔らかに微笑むとシオンを両腕で包み込むように抱擁した。
「シオン、心配しないで。わたくしは、もう昔とは違います。誰かに冷たく当たるようなことはありませんよ。だから、怖がらずに顔を上げてわたくしを見てくれませんか?今、わたくしが浮かべている表情がどのようなものか確かめてください」
アリアは、シオンの背中を軽く叩いた。恐れずに顔を上げてくださいと、シオンを促すために、アリアはシオンの背を軽く叩いたのであった。
シオンは、アリアに促され怖々と、顔を上げていった。そして、見上げた先にあったアリアの顔は、むすっと唇を尖らせたものであった。
「酷いですよ、シオン。昨日私が言った事を忘れてしまったのですか。もう、お屋敷の者に危害や罰を与えたり、無茶な命令を下したりなどはしないと、スイと一緒に聞かせたではありませんか」
じっとシオンの上がった顔を見つめて、不満げな表情を浮かべていた。
しかし、それを見てシオンが顔を蒼ざめさせ謝罪をしようと口を開きかけた時、アリアが慌ててそれを止めた。
「待って、シオン!わたくしは本当に怒っているわけではありませんよ。これは、怒っている風に見せただけですよ。仕方ありませんね、シオンは、って意味ですよ」
アリアの話を聞いても、シオンの疑いは消えず、表情が晴れることがなかった。
苦しそうに悲しむシオンを見て、アリアは後悔から胸が痛みを訴えてくる。
(失敗した。やらなければ良かった。何で、あんなことをしようと思ったの!シオンに構ってほしくてしただけなのに!どうしよう!どうすれば、信じてくれる。どうすればいいの!!)
「ごめんね!ごめんね、シオン!」
後悔が口を開いて、溢れ出した。しかし、シオンに謝っても、シオンが顔を上げてくれることはなかった。
アリアは、もうシオンを抱き締めることしか出来なかった。自分の悪ふざけで、シオンを傷つけてしまった。アリアは、責めた。自分を責めて、責めて、責めた。しかし、そうしている間も、シオンはアリアの胸で、顔を下げて震えていた。
アリアは、自分を責めるのを止めた。責めていたって、シオンが顔を上げてくれることはないと止めた。そこから、シオンを宥める方法を必死に、アリアは考えていった。
アリアは、昨日のシオンとの記憶を探り、1つの可能性を見つけた。自分が一番落ち着いた、シオンがしてくれた行為を、今度は自分がしてみようと縋る様な思いで考えた。
「ごめんね、シオン。愚かなわたくしを許して」
そう謝罪の言葉を口にした後に、シオンを見つめて口を開いた。
「シオン、わたくしを感じてください」
アリアは、シオンを今以上に胸に抱きしめた。昨日、シオンにしてもらって、一番心が落ち着いたことをシオンにした。
「どうですか?わたくしの胸の音が聞こえますか?シオンを拒絶するような音が聞こえますか?シオンを責める音は聞こえますか?」
「いいえ、お嬢様。私には、そのような音は聞こえません。お嬢様の穏やかな音しか聞こえません」
シオンの答えを聞き、アリアが真剣な声音で問いかけた。
「そうなのね。シオンにはそう聞こえたのね」
「はい、お嬢様。安心できるお嬢様の音です」
「良かった。シオン、ごめんね。シオンを傷つけて、本当にごめんね。ただ構ってほしくて、あんなことしてしまった、愚かなわたくしを許して。本当にごめんね」
今度はアリアが罪の意識に苛まれ、シオンを震えながら抱きしめた。
「もうしないから!シオンを困らせることをしないから!だから許して!わたくしを許して、シオン!」
謝罪の言葉を口にして震えるアリアを、シオンがアリアの胸に顔を当てながら抱きしめ返した。
「アリアお嬢様、私はお嬢様の行為に恐怖を感じたわけではありません。笑顔の、優しいお嬢様が、消えてしまったように感じたので恐怖したのです。ですが、こうしてお嬢様の心臓の音と私を真剣に想ってくださる言葉で、やっと安心出来ました。お嬢様は、お優しいお嬢様であると」
シオンは、アリアの胸に顔を当てたまま、そう口にした。そして、アリアの音をその耳で確かに感じながら言葉を紡いでいった。
「私は、アリアお嬢様がなさることは全て許しますよ。微笑みを浮かべてくださるアリアお嬢様なら、何だって許しますよ。ですから、今回のお嬢様のおふざけも許します。その代わり、もう少しだけお嬢様の胸で、アリアお嬢様を感じさせてくれませんか?私の好きな笑顔が似合うお嬢様を確かめさせてくれませんか?」
「勿論です。シオンがしっかりとわたくしと分かるまで、わたくしを感じてください。それと、ありがとう、シオン」
「はい、お嬢様」
シオンは、顔を綻ばせるとアリアの胸にしっかりと顔を当てていった。しかし、シオンの身体はまだ恐怖から震えていた。笑顔が戻ったアリアが再び、笑顔を消して冷淡になってしまいそうな恐怖から震えていた。
アリアはシオンの震える身体を優しい手つきで撫でていった。シオンの震えが収まるまでアリアは撫で続けていった。
アリアは、シオンの気持ちが落ち着いたのを感じると、そっと教えるように声を掛けた。
「シオン、落ち着きましたね。もうわたくしを勘違いしないで下さいね。今のわたくしが、シオンの心に傷を負わせることはありませんよ」
ね、シオンと語り、安心させるように微笑んだ。
「はい!はい、お嬢様!」
ギュッとアリアに抱き着き、穏やかに鼓動するアリアの心臓の音をしみじみと聞き入った。心の底から落ち着く、アリアの音色にシオンは目を閉じて、余計なノイズを全て取り除き味わった。
この音色がシオンに教えてくれる。シオンを想う気持ちを。
シオンの傷を癒そうとアリアの音色が聞こえてくる。
(お嬢様の気持ちを深く感じ取りました。決して、間違いません。今のお嬢様を)
シオンはアリアをしっかりと見上げた。
(お嬢様にお仕え出来て、本当に良かったです。私はアリアを彩る旋律をお傍で奏でさせていきたいと思います。アリアの音色が周りに届くように)
シオンは、そう心に決めて自分の主君を見上げていた。
アリアは、シオンの様子から落ち着いたことを感じた。
(ごめんね)
そう謝罪をしてから自分を見上げるシオンに、微笑みを浮かべた。
(俺は本当にダメだな。これじゃ、前のアリアと同じだよ。心の傷を抉るような最低の揶揄いをしてしまった。言葉は心を抉る刃物になることを、一番知っている俺が何してるんだよ。もう、シオン達を金輪際、傷つけないように、このお屋敷の皆が笑えるようにしていかなければ)
うん、と力強く頷いてから、アリアはこうなった元凶を心の中で考えていった。
(このお屋敷の使用人達は、どれ程の傷を心に負っているのか。前のアリアは、なんでここまでしたんだ。怨み?八つ当たり?それとも、楽しんでいたのか?傷つく姿を)
そこまで考えたアリアの脳裏に、夢であった前のアリアが鮮明に浮かび上がった。
(分からない。何がしたかったんだ、あのアリアは?)
胸に抱き着くシオンを見つめてから、続きを考えていった。
(今の俺が言えた義理はないが、全く、心の傷程、治るのに時間が掛かるものはないんだぞ。下手したら、一生の残る可能性だってあるんだぞ)
昨日のシオン達の様子から、相当心の傷が深そうだとアリアは考えて、今後の予定の変更案を考えていった。
(俺の好感度の回復なんて後回しだ。今やらなければならないのは、シオン達、このお屋敷で働いている使用人達の心のケアだ。俺は医者じゃないから治療法なんて分からないから、前のアリアと反対の事をこれから先ずっとしていってやる)
アリアはシオンを自分の瞳で見据えて、優しく語りかけた。
「わたくしがきっと癒してあげるからね、シオン」
シオンの頭を胸に抱きしめた。心の底からシオンを想い、アリアは胸にシオンを抱いたのだった。
さて、改めて今後の予定を考えたアリアは、その先ず第一歩目を踏み出した。
「シオン、わたくしは絶対にシオン達を虐めません。我儘も無茶な命令も致しません。昨日も言いましたが、わたくしを信じて下さい!しかし、このように言葉で言っても今は信じることは難しいと思います。だからね。これから毎日、毎日、わたくしを少しずつでいいの、信じていってください。わたくしもシオン達、お屋敷で働く皆に信じて貰えるように、頑張っていきますね」
アリアはシオンを慈しむように見つめ背を撫でていく。そして、シオンが自分を見たことを確認してから口を開いていった。
「シオンとわたくしの距離を縮める第一歩です。今日は、わたくしを叱ってくれてありがとう、シオン。怒られて、ほんの僅か!ですが、涙を流してしまいました。でも、悲しさと同時に嬉しさもあったんですよ。悲しんでいるわたくしを見て、シオンは後悔をしてくれました。わたくしを大切に想ってくれているから、後悔してくれたんですよね。嬉しかったです、シオン。それと、シオンのおかげでわたくしは間違いに気づき、成長が出来ました」
シオンを見つめて優しく笑う。
「これからも、わたくしが何か間違いを犯したら、遠慮なく叱ってくださいね。その時にまた、涙を流してしまうかもしれませんが、それでも間違いに気づき、それを直していけます。お願いね、シオン」
そう言い、心の中で真剣に請い願った。
(シオン、本当にお願いね。この身体とわたくしが、間違いを犯さないように、悪役令嬢の破滅エンドに向かわないように、護ってね)
アリアの微笑みと願いを受けたシオンは、アリアの顔を真剣に見つめて、深く頷いた。
「はい、お嬢様」
シオンの返事を聞いて、アリアは少しだけ心が軽くなった。その感謝のお返しに、シオンの背中を優しく丁寧に撫でていった。大切に思いながら、掛け替えの無いこの世界のアリアの寄る辺を。
シオンをじっくりと見つめながら、穏やかな心で背を撫でていると、忘れていた記憶が奥底からゆっくりと浮かび上がってくるのを感じた。軽くなった心にまた別の重しが乗ってきた。
転生前に見たネットの隠しヒロインに関する噂が、唐突に脳裏に浮かんだ。シオンが隠しヒロインである噂を今思い出していた。
アリアは、無意識にシオンを見た。自分の胸に抱き着くシオンを見つめて、心の中で考えた。
(主人公じゃない、悪役令嬢の俺に、シオンを癒せるのか?)
そう最初に疑問を呈した。そこから、アリアの不安が疑問の形で際限なく溢れ出してくる。
(完全に、シオンを癒せるのはこのゲームの主人公だけなんだろうか?だから、ゲームでは隠しヒロインがシオンなんて噂があったんだろうか?このままアリアとして、過ごしていくと、そのうち俺の知らないゲームシナリオが現れて、シオンが俺の傍から離れて、主人公の下に行ってしまうのか?そこで、俺では見られないシオンの心からの本当の笑みを浮かべるのか?ある意味で俺にはない、物語をハッピーエンドに導く主人公チートで、シオンの心を癒してハッピーエンドに行くのか?)
アリアは、シオンが傍にいなくなる未来を思い浮かべて、胸が苦しくなった。
そして、落ち込んだアリアに考えないようにしていた疑問が浮かんだ。
(その時、俺はどうなる?)
悪事を働いていないのでざまぁはされないが、1人でポツンと立つ自分の未来を見て、アリアの胸が激しく締め付けられた。
(ダメだな。俺は弱いな)
心の中でポツリと弱音を零した。すぐに、陰鬱な思考に陥る自分に嫌気が差した。
アリアは、まだまだ溢れそうな不安を止めた。そして、気分を変える為に、シオンを見下ろした。今はまだ、ここに確かにいるシオンを見られたことで、アリアの気持ちが僅かに晴れた。
ふふ、少しだけ笑みが零れる。
アリアは、自分の胸に縋るように抱き着くシオンを見て、特別に愛おしさが溢れた。だからか、前向きに先程の未来を捉えていけた。
(シオンが主人公側に渡り傷を癒し笑顔になってくれたら俺は、ざまぁ、されてもいいかもな。俺の代わりに、主人公君がきっとシオンを幸せにしてくれるだろうし。ああ、そう考えると、破滅エンドも良いかもな。俺は、所詮悪役令嬢のアリアだしな)
アリアは、寂寥感を含んだ笑みを自然と浮かべていた。しかし、それに気付けないアリアは、ゆっくりと仄かに寂しさを含んだ声音で零した。
「幸せになろうね」
シオンに言ったのか、自分に言ったのか、分からない曖昧な言葉をアリアは呟いていた。
それからしばらくの間、アリアは物憂いさを感じながらも、シオンを見つめて、今はまだここにいてくれると僅かな嬉しさを覚えて過ごしていった。
シオンは、アリアの鼓動が僅かに早まったことを感じて顔を上げた。アリアが、今にも泣きそうな寂しい笑みを浮かべてシオンを見つめていた。
何か言い知れぬ不安を感じて、アリアに声を掛けようとした。しかし、それよりも早くアリアが一言零した。
「幸せになろうね」
アリアの静かな呟きに痛々しさを感じた。愁いを帯びてシオンを見つめるアリアの瞳に胸が締め付けられた。
何かあったのですか、と問いかけてみようと考えた。しかし、心配を掛けたがらないアリアに、はぐらかされそうでシオンはその言葉を飲み込んだ。
そして、他に何かアリアの気分を逸らす良い案が無いか思考を巡らした。そこで、1つの妙案をシオンは考え付いた。
(私はそのような哀しい表情のお嬢様を見たくはありません。どうか、少しでも哀しみから逸れてくれるよう、シオンが1つ、お嬢様に言葉を掛けたいと思います。お許しください)
シオンが心の中でアリアを想い、そして謝罪するとアリアに口を開いた。
物哀しい気持ちのアリアが、自分を見上げているシオンに気付いた。
何かあるのかと尋ねようとした瞬間、シオンから素敵な言葉を頂いた。
「お嬢様の胸はとても落ち着きます。自分にはないこの薄さと硬さがたまらなく、シオンには心地よいものです。アリアお嬢様、もうしばらくこの胸を堪能させてください」
それを聞いた瞬間、アリアの中から今ある全ての感情が消え失せた。
「あん!?」
思わず裏返った声が漏れていた。しかし、シオンはアリアの胸を堪能することに夢中で、その声に気付いていないようであった。
堪らないといった表情でアリアの胸に顔を当てているシオンを一瞥すると、美しい笑顔でシオンに問いかけた。
「うふふ。それはどういう意味でしょうか?嫌味なのですか?わたくしの鉄板のような胸に対する挑戦状ですか?こんなに硬ければ剣でも魔法でも弾きそうで良いですね、シオンも欲しかったですという事ですか?ふふふ」
アリアの問いかけに気付いたらしいシオンが、恐る恐るといった様子で顔を上げてアリアの顔を見据えた。
「いや、お嬢様、その・・・」
「ふふふ。わたくしは全く怒っていませんよ。さぁ、シオン安心して答えられますね。わたくしの鋼鉄のような硬い胸の感想を」
笑顔だが目が据わったアリアが、シオンに可笑しそうにもう一度問いかけた。
「これは、その、これで、個性的で、・・・素晴らしいお胸様だとシオンは思いますよ」
「そう、個性的で素晴らしいのね。ふふ。ありがとう、シオン」
アリアは、口元に綺麗な弧を描き、にこやかに笑って答えた。そして、笑顔のままゆっくりとシオンを自分の胸から離した。
アリアは、じ~~~~~とシオンの胸を見つめて、唐突にその胸に飛び込んだ。
「くそ~~!何ですか!この“きょうい”の格差は!この柔らかさは!わたくしには何故ないのですか!」
今の自分の胸と夢で邂逅した欺瞞に満ちた悲しき未来とを比べて、恨みがましくそう述べた。
「何故、わたくしは板なのですか!巨壁のごとくそそり立っているのですか!」
「お嬢様もきっとそのうち、恐らく、成長なさいますよ?将来は、シオンを超える程にご成長なさいます?」
「ふふ、将来ね」
含みのある言葉を述べて、アリアは遠い目をした。
それから、しばらくして現実へと戻ってきたアリアは近くのシオンを見上げて、そっと囁いた。
「ありがとう、シオン」
皆まで言わず、そう感謝だけを述べた。
これは落ち込んだ自分のために、シオンが冗談を言ったのだとアリアは気付いていた。だからこそ、それに乗り半分はシオンとの掛け合いを楽しんだのであった。残りの半分は、・・・。
シオンは、アリアからの感謝に驚き、目を見張った。
「何時から気づい」
「シオン、そのような野暮な事を訊くのは、なしですよ」
しーっと、唇に人差し指を当てて示した。
アリアは、幽かに戸惑いの残るシオンを見上げて、心からの言葉を口にした。
「やっぱり、わたくしのシオンをあげるわけにはいきません。シオンはわたくしだけのシオンです。ねぇ、シオン。わたくしと一緒に幸せになりましょうね」
「はい、お嬢様と共に何処までも、一緒に行きます!」
シオンは、戸惑いを消した表情ではっきりとそう答えた。
「約束ですからね!」
アリアもシオンに続き、柔らかな笑みを浮かべて答えた。
そして、もう一言、アリアが声のトーンを落として、ポツリと呟いた。
「何時までも」
無意識に零れて、アリアはその呟きに気付けなかった。
アリアは、シオンから温かな気持ちをいっぱい貰ったので、満ち満ちた表情でシオンの胸から離れた。いつも通りに、シオンがそれに寂しさを覚えていた。
胸から離れたアリアが、穏やかなにニッコリと笑って何となくを装い問いかける。
「そう言えば、シオンに訊きたいことがあります」
「何でしょうか?」
シオンは、素朴に返答した。
「先程のわたくしの胸についての事ですけど」
一泊間を置き、口にした。
「あれも、勿論冗談ですよね」
にこりとしたまま、笑わない目でシオンを見据えて訊いた。
「・・・、勿論冗談ですよ。お嬢様の貴き素晴らしいお胸様をあのように思った事は、・・・一度もありませんよ」
虚を突かれ、シオンが一瞬だけ答えに窮したが、どうにか当たり障りのない答えを考えて返した。
「分かりました」
ただ一言答えて、アリアはシオンの顔を無言で見つめた。シオンは謎の汗を全身にかきながら、あはは、と空虚な笑みを浮かべ続けた。
それからしばらく、シオンの困った姿を満喫して胸をすっきりとさせたアリアは、可哀そうなくらい顔色を変えて困るシオンに、声を掛けた。
「すっきりしましたし、シオン、もう許しますよ」
「はぁ~。勘弁してくださいよ、お嬢様」
「ふふ。シオンの顔色の変化が面白くて、ついつい夢中になってしまいました。ごめんね、シオン」
爽やかな表情でアリアがそう述べた。それと比較して、シオンは、ぐったりと疲れた切った様子でアリアを見ていた。
アリアは、ちょっとやり過ぎたかなとシオンに露程の後悔を覚えて、償いの気持ちでシオンの胸に抱き着いた。そのまま、伏し目がちにシオンの胸元からアリアが見上げた。
その途端、シオンから疲れが吹き飛び、活力が身体中に漲った。
「お嬢様!!」
シオンがアリアを抱き締めようと腕をアリアに回した。しかし、その腕は空振りに終わり、足元でアリアが屈んだ状態で可笑しそうに笑っていた。
「元気になりましたね。じゃあ行きますよ、シオン。朝のランニングです。運動が気晴らしには、一番ですからね」
笑顔満面のアリアが、部屋のドアを開けて廊下に出ていった。自分の今の恰好を忘れたままに。
足元まで届く丈長のカーディガンとショーツのみの姿で、颯爽と快活な笑みを浮かべて廊下へと踏み出していった。




