七章-③受難
「どっちに入ればいいんだっ!?」
そもそも、あんなにガブガブ水を飲んでいたのが敗因だった。
逃げの口実には使ったものの、下半身はまさしく活動限界を超えつつあったのだ。
二つ並んだトイレのマークを見上げながら、俺は立ち往生していた。
「お、男らしくないぞ沢良ありす! お前は美少女アイドルだろ! 行け! 行っちまえ! 何もやましいことはないんだっ」
そうだありす、紳士マークさんと淑女マークさん、今のお前はどっちに似てる?迷うことなどないだろう。
「う、く……し、失礼しますっっっ」
せめてもの抵抗で目を瞑ってダッシュ。
そしてせめてもの抵抗で下着は男物だしその上に黒スパッツだ。アイドルらしい防御力。
「ミ……ミッションコンプリートッッ」
ものの数十秒で全任務を完遂し、俺は再びダッシュで女子トイレを飛び出した。
ぼむっ。
「おっと」
「あたぁっ」
何か柔らかいものに激突し、俺はその場にしりもちをついていた。
やばい、女子トイレから出てくるところを見られるなんて、男としては決定的に危機的な状況じゃないか!?
「ごごごごごめんなさいごめんなさいっ、俺、何もやましいことは……ッ!」
不審者じゃないんですっ、目は瞑ってましたから!!
「ちょうど私もトイレに行くところだったんだよね。偶然だね」
「ん?」
顔を隠すように覆っていた腕をおそるおそる下ろす。
「まん……、プロデューサー!」
柔らかいものは、まんじゅうだった。
「トイレでバッタリ……だねぇ」
「は、ははは」
あやうくもっと大事な部分が鉢合わせするところだったんだぞ、何を悠長ににやけてんだ。
男子トイレの方に入らなくて本当によかった。
「いやー、それにしても」
じょみじょみ。
「噂にたがわずスキャンダラスな子じゃないのぉ?」
「へ?」
「それが、バレプロ流の挨拶なのかな?」
にやついた視線が一体どこに注がれているのかに気付き、俺は大慌てで膝を閉じた。
スパッツだけど、スパッツなんだけど。
「ちょ……っ、」
「よく教育できてるんじゃないの、うんうん」
「どっ、どこ見て……」
まんじゅうは動じずに、まだにやにやと俺の股間に視線を注いでいる。
俺は何もできずに、そのにやにや顔をただ見ていた。
ああ男ってこういう時、こんなどうしようもない顔をしているのか、とかそんな事を冷静に思いながら。
「素敵な挨拶だけど、今度からスパッツはいらないんじゃないかなぁ?」
「はぁ?」
「今度から気をつけてって、マネージャーさんにも言っといてよ、ねっ。あはははは」
「は、ははは……ははははははは失、礼、し、ま、すッッッ」
まんじゅうとは逆方向に全力疾走しながら、俺は脳内で嘆いていた。
芸能界って、いや違う、大人って、これもきっと違う男って、いや俺も男だし……つーかマネージャーになんて……、
「なんて伝えろってんだよ、バカヤローーーッッ!」
「!? は!? 沢良!? ぶっ」
「まねーじゃっ、……うっ、うわあああああああん」
「のあああ!? な、なななななにをするっ!?」
正面衝突の巻き込み事故であった。
なぎ倒すほどの勢いで、俺は偶然通りかかったであろう岩頭にタックルをぶちかました。
身長と体格の勝る向こうが、自然と抱きとめるような形になる。
「ちょっ……、離れろ、おいっ」
「ぐすっ……ひぐっ……まんじゅうが、脂肪分の多いまんじゅうが……ぐずっ……ちーーーんっ」
「鼻をかむな!!!」
「う……ぐず」
本当に、ここ最近の男運は踏んだり蹴ったりだ。
俺、何か悪いことした?
そんなに目を付けられるような隙を見せてた?
襲ってくださいちょっかいだしてくださいって、知らない間に口に出して言ってたのか?
アイドル以前に、女子以前に、何だか軽んじられている気がするのだ。
俺という人間は、おっさんたちにとって、「俺」じゃなくて、ただの、ただの……。
「……何があった?」
小刻みに震える肩を、止めようとしても止められなかった。
大人の大きな手が、そっとそれを抑えてくれる。
「プロデューサーが、」
「プロデューサー?」
「マネージャーに伝えておけって、……って言えってさ」
「は……? 何て」
「スパッツ脱げってっ、パンツ見せるようにってマネージャーに言っとけってさ! はい、言った!」
口に出した途端に、一気に情けなさが襲ってきた。
「……、くっそ」
何も悪いことをしていないのに、何故か自白でもしているような惨めさと罪悪感を感じた。
もしかしたらこんな事、口にしないほうがよかったのかもしれない。
「……」
……あーあ。ホラもう、岩頭の顔を見ろよ……。
いつにも増して眉間には、これでもかと言うほど深いしわが刻まれている。
野良猫のボスみたいなおっかない目をして、彼は押し黙っていた。
「えー……と、」
「沢良」
「あ、あー……えっと、ごめん。大げさに騒ぎすぎたわ。なんつーか、別に向こうもさ、冗談で言ったと思うし、」
「お前は楽屋に戻っていろ」
「……っな」
ぴしゃり、と一言でいなしたかと思うと、背の高い男はずんずん歩いていってしまう。
スカートの裾を直しながら、慌てて後を追いかけた。
「なにそれっ。なんか気に障ったなら謝るよ! リ、リハーサルはちゃんとやるからさ、だから」
「戻っていろと言っている」
振り向いたその剣幕に、思わずびくりと肩が跳ねる。
「ご、ごめんなさ……」
そんな俺の様子を見て、巌縄は怪訝そうに首を傾けた。
「おい」
「な、なに……っ」
「……お前もしかして、俺が怒っていると思ってるのか?」
こくこくと精一杯首を振って頷く。
すると、はぁ? とますますおかしな顔をされた。
「い、意味不明すぎる。これだから、女の考えることは分からない」
「だから、謝ってんじゃん! 大騒ぎして悪かったって!」
「は? だから何でお前が謝る必要が、……あー……違う、こんな言い方じゃなくて、」
苛立たし気に頭を掻いて、短く息を吐く。
「怒っていない」
「……わ、分かりづれーのはアンタの方じゃん」
俺はてっきり、プロ意識がないだとか、くだらないことで喚くなだとか、そういう風に突き放されたと思ったのだ。
だってコイツには、嫌われている自覚があったから。
「怒ってないなら、何であんなに怖い顔してたわけ?」
「あれは……、……そ、そんなに怖かったか?」
「こえーよっ。なんつーか、ギラギラしててさぁ」
「そ、れは……その、悪かった」
あれ? と俺は首をひねった。
変だな、コイツ、俺の事大嫌いなんじゃないの?
だがすぐに思い直す。
俺だって変だ。言ってることとやってることが矛盾している。
俺はこの男になんて言って欲しかったんだろうか。
どんな言葉をかけてもらうつもりで、彼にすがりついたんだろう。
「沢良」
「なっ、なに」
考えていたことを見透かしたようなタイミングで話しかけられ、思わず声が上擦った。
「か、勘違いするなよ。別にお前のためではなく、これは仕事の一環でだな、俺がお前のマネージャーだから」
「だからなんだよっ」
「あー、うー、一度しか言わないぞ。だが大事なことだから忘れるな、これは業務命令だ」
だからなんだよ、早く言えよ。
そう急かすと、大変言いにくそうに顔を歪めながら、いい大人は高校生に向かってこのように宣言したのだった。
「守らせてくれ」




