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2章 あの時のキス

 数年ぶりに訪れた凪の住むアパート。ボロアパート、なんて言っていたが、実際には何処にでもあるような普通の1LDKのアパートだ。

「凪、大丈夫? 部屋までいける?」

「んー……ん……」

 ひらひらと手を振って階段を上って行こうとする凪だが、その足取りはますます怪しくなっている。その証拠に一段目から躓きかけて太河は離した手をもう一度繋ぎなおして一緒に階段を上り始めた。

 一歩一歩、階段を上っていく度に太河は自身の呼吸が浅くなっているような気がした。

 凪の部屋に入りたい気持ちはもちろんある。しかし、それ以上に怖いという気持ちのほうが大きくなっていた。

 もしも、女性との写真でも飾ってあったりしたら。それが彼女だとでも言われたら。

 鼓動が早まるのを感じながら扉が開かれるのをじっと見つめる。真っ暗な部屋から凪がいつも纏う爽やかな香りが溢れ出し、パチッと玄関の電気が点けられた。

 少し警戒しながら部屋の中へと入って行くが、そこに太河が心配しているようなものは存在していなかった。しかし、ホッとしたのも束の間、がらんとした空間にきゅっと喉を締め付けられる。

 なくなっているのだ。二人で撮った写真が。

 ずっとそこに飾ってあった写真が、全部なくなっている。

「……」

 あんなことをしてしまったから当然だ。

 自業自得だと思いながらも写真の飾ってあった場所を見て呆然としていると、突然カシュッと缶が開けられる音が響いた。振り向くとソファでスーツを着崩した凪が缶チューハイを片手にしており、止める間もなくそれを口にしていた。

「……まだ飲むの?」

「良いんだよ、明日休みだし」

 眼鏡とネクタイを外した彼は教室で見る教師の顔とは全く違って見える。黒縁の眼鏡とスーツは彼を大人っぽく見せ、近寄りがたいオーラを出していた。だが、それを外した今は何処か可愛らしさがありながらも色気を感じさせ、その姿から目が離せなくなってしまう。

「……凪」

「ん?」

「あのさ……今って、恋人とか……いないの?」

 カコンッとテーブルに缶が当たり、凪がジッと太河のことを見つめてくる。赤くなった目尻は数年前の姿を思い起こさせた。

 この部屋で、太河が凪のことを泣かせてしまったあの時。

 またその瞳から涙が溢れ出してしまうのではないかという妙な想像が浮かび上がり、手のひらにじわりと汗が滲む。すると、凪はもう一口酒を飲んだあと、少しぶっきらぼうに言い放った。

「いない。誰のせいだと思ってんだ、ばか太河」

「……え?」

「ふんっ」

「……えっと……俺の、せい?」

 

 ◆

 

 今から二年とちょっと前――。

 当時の太河は高校受験を控えた中学三年、凪は大学二年だった。

 太河の第一希望は凪の通っていた難関校。凪はすでに卒業しているが、彼の通った高校に同じように通い、少しでも彼に近づきたかった。そして、太河は心に決めていた。

 合格したら凪に告白しようと。

 受験まで残り一週間となり、太河は宣言するように凪に告げた。

「凪、受かったら言いたいことがある」

「言いたいこと? 今じゃなくて?」

 きょとんとした凪は太河が何を言おうとしているのか全く見当もついていないといった様子だ。しかし、少し考えたあと、「あっ」と何か思い至ったように声を上げ、持っていたペンで太河の手をこつんと叩いた。

「俺も言いたいことあったんだ。けど、受験終わってからにするよ」

 ニコッと笑みを浮かべる凪の表情に鼓動が僅かに早まる。もしかして、凪も太河と同じことを言おうとしていたりして……そんな都合の良い妄想に口角が上がるのを抑えられずにいると先ほどよりも強めに手の甲を叩かれてしまった。

「こら、何考えてるんだ。最後の追い込みだろ、受験生。せっかく俺が勉強見に来てやったんだから」

「ごめん、ごめん。凪先生のありがたい指導に感謝してます」

「ははっ、これで落ちたら許さないからな」

「大丈夫だよ、凪と同じ高校に絶対行くから」

 普段の実力が発揮できれば受験に失敗するはずなんてなかった。だが、合格したら告白をすると決めて変に気合いを入れすぎてしまったのかもしれない。もしくは、調子に乗りすぎて神に見放されたのかもしれない。

 ぽつぽつと雨が降る中、太河は凪が一人暮らしをするアパートを訪れていた。手に持っているはくしゃくしゃになった一枚の紙。

「太河、その顔……どうした?」

「……落ちた」

「え?」

 握りしめた紙に印字されたある一文字が二人の視界に映る。それは『不』という一文字。太河の髪から雨粒が零れ落ち、じわりと周りを歪ませていく。

「とにかく、中入れ」

「……ん」

 来る途中で降り出した雨は強くはなかったが、傘を持っていなかった太河の体温を奪うには十分すぎるほどに冷たかった。小さく身震いしながらソファに腰掛けると頭にふわりと柔らかいタオルがかけられ、柔軟剤と凪の落ち着く香りに包み込まれる。

 揉むように頭を拭かれ、目頭がじわりと熱くなっていく。すると、頭を拭いていたタオルが目元にかかり、凪の手が上からそっと瞼を押さえつけた。

「泣いてもいいぞ」

「……泣かない」

「ふふっ、まぁ、いいけど。言いたいこと、ある?どうせお前、親には何も言ってないんだろ」

 こくっと頷き、自身を落ち着けるように息を吐きだしてから受験の日にあったことを零した。

 前日から少し怪しい気はしていた。なんとなく体調が悪いと。しかし、ここで手を抜くわけにはいかないと夜遅くまで勉強してしまい、結果、当日に高熱を出してしまった。試験自体はどうにか受けることができたが、そんな状態で頭が回るわけもなく、来たのは不合格通知だ。

「そうか……まぁ、ここで失敗したからって全部がダメになるわけじゃないしさ。次からは試験勉強より体調管理を優先しろってことだ。いいか?」

「……うん」

「よろしい。第一志望じゃなくても良い出会いはたくさんあるしな。それで、滑り止めは何処にしたんだ?」

「……それは……今は、言いたくない」

「わかった、わかった。今度教えてくれ。そうだ、飯食うか? お前の好きなもの作ってやるよ」

 タオルをパッと外した凪はニコニコと明るい笑顔を太河に向けた。幼い頃から見慣れた笑顔に沈み切っていた気持ちが僅かに浮上し、太河はこくりと頷きを返す。

「卵焼き、食べたい」

「おっけー。ちょっと待ってろ」

 凪の作る卵焼きは太河の好物の一つだ。というよりも凪が作るものならなんでも好きなのだが、その中でも凪が最初に作ってくれたのが卵焼きであり、何かあった時は毎回作ってもらっている。

 少しするとキッチンから良い香りが漂い始め、不合格で落ちていた食欲も徐々に湧いてくる。そして、あっという間にテーブルの上には数品の料理が並べられ、それと一緒に見慣れないものも置かれた。

「凪、お酒飲むの?」

「二十歳越えたからな。良いだろ? お前はあと数年我慢な」

 ビールを美味しそうにゴクッと飲む姿に、また凪との差が開いてしまったような気がした。

 どう頑張っても年齢の差は追いつけるものではないが、凪はできるのに自分にはできないものを見る度に悔しい気持ちが募っていく。しかし、そんな気持ちも数分後の凪の姿によってある程度は吹き飛んでしまった。

「……凪、弱くない?」

「誰が弱いって? まだまだ飲める!」

「いや、ちゃんとご飯も食べなよ。これじゃどっちが年上かわからないよ」

 色白の凪の顔はほんのり赤くなっていた。量的にはそこまで飲んでいないはずだが、明らかに上機嫌になってきている。そして質の悪いことに凪は一度飲みだすと止まらなくなってしまうようだ。夕飯を食べ終わり、お皿などを片づけたあとも缶チューハイだけはテーブルの上に残されており、ちびちびと飲み続けている。

 あまり飲ませないために早く寝かせたほうが良いのかもしれない。そんなことを考えながらも太河はどうしても凪に聞かなければいけないことがあった。今日は不合格を伝えにきたというよりもそっちを聞きに来たのが目的だ。

 それは、受験前に言っていたあのこと。凪は受験が終わったら伝えると言っていた。だが、当の本人は忘れているのか酔っぱらっているからなのか、なかなかそのことを切り出してくれない。

 素面の時に改めて言ってくれるなら良いが、そこまで待てる気もせず、太河は自分からその話題に触れてみることにした。

「ねぇ、この前俺に言いたいことあるって言ってたのって?」

「ん? あ、あぁ、あれね。その前にお前もあるって言ってなかった?」

「俺のは……合格したら言おうと思ってたから、今回はなし」

「そっか。俺のは……これ」

「ん?」

 凪は自身のスマホを太河へと差し出した。その画面には美しい景色と英語の文字。全くもって予想していなかった画面の内容に理解が追い付けずにいると凪が画面をスクロールしてある場所で止めた。

「これって……」

「海外留学」

「えっ」

「受験前に言ったらあれかと思って言ってなかった。4月から行ってくるよ」

 頭の中が真っ白になった。

 凪の頭の良さなら海外留学に行くこと自体何もおかしくない。だけど、まさかこんな急に離れ離れになる日がくるなんて。高校に合格したら告白しようと考えている時に凪はすでに海外留学を決めていたなんて。

 あまりの衝撃に言葉が出せずに固まっていると凪が太河の肩を指先でとんとんと軽く叩いた。

「そんな驚くなって。一生行くわけじゃないんだし。ほら、今日は留学前の酒に付き合ってくれよ」

 言葉通り、凪は先ほどよりもペースを上げてお酒を煽り続けた。いつもの太河ならば凪の異変に敏感に気付き、彼のことを止めていただろう。だが、留学というショックからなかなか立ち直ることができず、気が付いた時にはソファで隣に座る凪はすでにへろへろの状態になって太河に寄りかかっていた。

「たーい」

「え、あ、何? その呼び方久しぶりに聞いた」

「ふふっ、あと一個。言ってなかったこと、ある」

 ドクッと心臓が大きく音を鳴らす。これ以上一体何を言われるんだろうか。せめて良いことであってほしい。帰ってくる時期とか、そんなのでも良い。

 バクバクと煩い心臓を落ち着けるようにごくりと一つ唾を飲み込む。

「……なに?」

 凪の唇が太河の耳元へ近付く。お酒によって熱くなった身体がぴたりと重なり、吐息交じりの声が脳に響いた。

「彼女、できそうかも」

「……え」

「わかんないけど、ちょっと良い雰囲気かもって。俺、いけると思う?」

 凪の言った言葉の一つひとつがすぐには飲み込めなかった。思考が一時停止したあと、言われたことがゆっくりと頭の中を巡っていく。


 凪に彼女ができるかもしれない。

 凪が誰かのものになってしまう。

 俺の傍から離れていく。

 嫌だ。凪を誰にも渡したくない。


「えっ、たいっ!?」

 ガタンッと机に何かが当たる音、カンッと空き缶が床に落ちる乾いた音が響く。そして、唇には熱く柔らかい感触。

 太河は衝動的に凪に口付けをしていた。初めてで、やり方なんてもちろんわからない。凪を取られたくないという気持ちだけで身体が動いてしまった。

 ソファの肘掛けと背もたれの間に凪の身体を押し付け、無我夢中で彼の唇を塞ぎ、少し酒の甘さが残る口内へと舌を挿入する。

「ふっ……んっ……んぅっ!」

 いつもならば身長が高く、力もある凪が中学三年の太河に負けるわけがない。しかし、この時はお酒が入っている影響で太河の下から逃げることができなかった。荒々しい口付けの合間に必死に酸素を取り込み、苦しげな声を零すことしかできない。その身体は酒のせいだけとは思えないほどに熱くなり、太河のことを掴む手も全身も細かく震えている。

 どのくらいの時間そうしていたのかお互いわからなかった。すごく長い時間が経ったような気もするが、実際にはほんの少しだったのかもしれない。

 太河がハッと我に返り、唇を離した瞬間、脚に硬いものが当たった。いつの間にか太河の片脚は凪の脚の間に入り、彼の下半身と密着していた。そして、そこに当たった硬いもの。凪の身体の一部。

「な……ッ」

「ッ、ばか太河!!」

 クッションが勢いよく叩きつけられ、視界が布地に覆い隠される。しかし、それはすぐに離され、凪は再度クッションを叩きつけてきた。

「ッ、だって凪がっ」

「ばか! ばか! 見んな、ばか!」

「凪っ、ストップっ!痛いって!」

「お前が悪いんだろ!」

 バシンッとクッションを投げつけ、凪は真っ赤な顔でぽろぽろと涙を零しながら太河のことを押しのけた。

 こんな風に凪が太河の前で大泣きする姿なんて今まで見たことがなく、一瞬呆気に取られてしまう。その間に凪はよろめきながら寝室へと行ってしまい、太河が気付いたのは扉がバタンッと大きな音を立てて閉められた時だった。

 急いで彼の後を追って寝室へと行くが、どういうわけか鍵のないはずの寝室はびくともしない。何か重いものでも置いたのか、とにかく太河のほうからは扉を開ける術が一切なく、ドンドンとそこを叩くしかなかった。

「凪! ごめん、お願い、出てきて!」

 泣かせるつもりなんてなかった。こんなことになるなんて思わなかった。

 お願いだから、出てきて話をさせて。

 そのあとも扉の前で何度も謝った。何度も出てきてほしいとお願いした。しかし、凪が返事をくれることはなかった。

 本当なら凪が出てくるまでここにいたい。しかし、太河はまだ中学生。あまり遅い時間まで外にいることはできない。それに、あまりにもしつこくして凪にこれ以上嫌われてしまうのも怖かった。

 結局、この日は帰るという選択肢以外なかった。

 日を置いてちゃんと謝ろう。お互いが冷静に話せるときに。それまでにどうしてあんなことをしてしまったのか、ちゃんと説明できるようにしておこう。

 凪のことが好きだから。このままじゃダメだ。

 しかし、太河のその願いが叶うことはなかった。

 4月になってすぐ、凪は留学してしまったのだ。その時も凪から直接の連絡はなく、彼の親が教えてくれた。それは凪が親に頼んだのか、それとも彼の親が雑談として教えてくれたのかはわからない。凪がどこまで親に話したのかもわからず、深いことは何も聞けなかった。

 そのあとも何度もメッセージを送ろうとした。しかし、文字を打つ度に『送信不可』と出てくるのを恐れて一度も送れず、凪からの連絡もなく、気付けば二年以上が経っていた。そして、太河が高校三年、凪が新米教師となった年、もう会うことはないと思っていた二人は再会した。

 太河が受験で失敗した後、滑り止めとして入った高校で。

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