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1章 春、再会

 桜舞う4月の始業式。

 高校生活最後の年、特に大きな変化もなく、大学受験に向けて努力する平凡な年になるものだと思っていた。しかし、その考えは壇上に現れた新任教師の存在によって一変することとなる。

「今年度より本校の国語の教師として教鞭を取ってもらいます、須藤凪先生です。クラスは3年A組を持ってもらい――」

 須藤、凪――

 それは、何度も呼んだことのある名前。ここ数年は呼びたくても呼べなかった名前。そして、太河にとって最も愛している名前。

「……凪」

 小さく零れた言葉は体育館内に吹き込んできた春の風に掻き消され、周りの生徒の耳には届かなかった。しかし、須藤凪だけは佐伯太河へと目を向け、ほんの僅かに動揺の色を浮かべたのだ。


「じゃあ、今日はこれで終わりにするから。みんな、明日からもよろしくな」

 始業式と新しいクラスでの挨拶を終え、凪は早々に職員室へと向かっていた。他のクラスはまだ終わっていないらしく、廊下には足早に歩く凪の靴音だけが響いている。

 キュッキュッと鳴る一人の足音。しかし、慌ただしさを持った足音がすぐにそれを上書きした。次いで焦りの混じった男子生徒の声が聞こえてくる。

「なっ……須藤、先生」

 その声を聞くのは久々だ。さすがに教室が近いからなのか名前呼びは寸でのところで止めたようだが、彼には小さな頃から何度も名前を呼ばれてきた。

 ……やっぱり、見間違いなんかじゃなかった。

 始業式で見たときは夢でも見ているんじゃないかと思った。教室で見たときでさえまだ信じられない気持ちでいっぱいだったくらいだ。

 こいつがこの学校にいるわけがないと。

 しかし、夢でも、見間違いでもない。

 こいつは、佐伯太河。

 俺の、ファーストキスを奪った相手。

「……なんだ、佐伯」

「その……このあと」

 太河の薄い唇が開かれ、何かを呟いた。だが、教室のほうから聞こえてきた大声がその声を掻き消してしまった。

「太河、そんなところで何やってんだ? バスケのヘルプ頼まれてただろ。早く行くぞ」

「……」

 二人の間に沈黙が落ち、窓から入り込んだ少し冷たい風が頬を撫で、髪を揺らしていく。

 ざわざわと木の葉の音が鳴る中、太河はもう一度何かを言おうとしたが、唇を僅かに開閉しただけで声にはならなかった。

 きっといろいろと言いたいことや聞きたいことがあるんだろう。こんな風に言いたくてもなかなか言い出せない彼の姿を過去にも見たことがあるから、よくわかる。しかし、昔はいつまでも待って話を聞いてあげていたが、今はそれができる関係ではない。

「呼ばれてるぞ」

「……うん」

 結局、太河は言葉の続きを言うことはなく、暗い顔をしたまま教室へと戻っていった。昔よりも広くなった背中を見つめながら凪は小さく息を吐きだす。

 幼馴染。小さな頃から長いこと一緒にいた。しかし、いくら幼馴染といってもあの時二人の間で起こった出来事が深い溝を作ってしまった。それは、いくら時間が経ったところで自然に解決するようなものではない。



 凪が教師として高校にやってきて約一週間。太河はどうにかして凪と二人きりで話す機会を掴もうとしていた。だが、新任、年が学生と近い、新学期……そんな諸々の条件が重なり、凪は先生からも生徒からも引っ張りだこだった。それに、凪自身が太河を避けているようにも思えた。

「太河、なんか元気ねぇな? 模試の結果悪かったか……ってお前に限ってそんなことはねぇか。毎回学年一位様」

「なんでもねぇよ。ちょっと疲れてるだけだ。じゃ、またな」

「おう、また月曜な」

 同じ塾に通っている同級生に別れを告げ、太河は眩しい繁華街を歩き始めた。いつもはそこまで騒がしさを感じないこの道も金曜日ともなれば飲み会終わりの大人たちで溢れている。もっと静かな道で帰ることもできるが、なんとなく、今日は騒がしい中で気を紛らわせたかった。

 今頃、凪は何をしているのだろう。

 新任教師として残業をしていたりするのだろうか。学校に行ったらまだいたりして。

「……そんなわけないか」

 自嘲気味に零した瞬間、太河の視界に信じられない光景が映り込んだ。

 凪のことを考えすぎて白昼夢でも見たのか。一瞬そんなことまで考えてしまったが、少し先のほうに見えた姿は夢や幻ではなく、現実だった。

 思わず駆けだしそうになったが、周りにいる大人たちの姿も目に入り、その場にぐっと踏みとどまる。

「須藤先生、大丈夫ですか?」

「だい、じょぶです……」

「あーもー、これ絶対大丈夫じゃないですって。石水先生、こんなに飲ませたの先生なんですから、ちゃんと須藤先生のこと送ってあげてくださいよ」

「えっ、僕ですか? まあ、確かに……須藤先生面白いから飲ませすぎちゃいました。わかりました。僕が責任持って送り届けましょう。体育教師としての腕の見せ所ですね」

 楽しそうな笑い声が響く中、太河の視線は凪に釘付けだった。送り届けると言った石水が凪の身体を引き寄せると彼はふらつきながら石水のほうへと寄りかかっていく。

 街灯に照らされた顔は赤くなり、眼鏡の奥の瞼もとろんと蕩けているように見える。

「須藤先生、帰りますよ。歩けますか? それともおんぶしましょうか?」

「あるけ、ます……」

 一度ぎゅっと強く瞼を瞑った凪は自身のことを鼓舞するようにこくりと頷いてから石水のほうを見上げた。

「大丈夫です、行きましょう」

「あははっ、須藤先生、本当面白いですね。じゃあ行きましょうか。では、先生方お先に失礼します。また月曜日よろしくお願いします」

 凪と石水は他の先生たちに別れを告げて薄暗い路地へと入っていき、太河は迷わずそのあとを追いかけた。

 こんなストーカーみたいなことバレたら相当怒られそうだが、今はそんなこと考えている余裕なんてなかった。もしも凪の身に何かあったら、そればかりが脳内を占めていた。

 前を歩く教師二人と一定の距離を保ちながら歩いていると、彼らの会話がぼんやりと聞こえてくる。

「須藤先生、本当細いですね」

「むっ……こう見えて筋肉ありますよ」

「どれどれ……あ、本当だ」

 石水の手は自然と凪の腹筋に触れていた。背後から追っている太河からはその手の動きは見えていなかったが、小さく身を捩った凪の反応に無意識に奥歯を噛み締めてしまう。

「くすぐったいです。結構あるでしょ? 石水先生には敵いませんけど」

「そうですね。けど、服の上からじゃよくわからないなぁ……須藤先生、このままホテルとかどうですか?」

 ホテル。爽やかな見た目の体育教師が何を言っているんだ。

 学校内でなら男子校特有のノリで笑い話にしていただろうが、今は状況が違う。凪が本当に連れてかれてしまうかもしれない。

 それを考えただけで思わず駆けだしそうになったが、太河の足を止めたのは凪の天然さをも感じさせる言葉だった。

「プロレスでもする気ですか?」

「あっはっはっ、プロレスときましたか。確かに、ベッドの上でのプロレスも良いですね」

「いえ、勝てない勝負は最初からしません」

 凪が酔っぱらっていても簡単に誘いに乗るような人じゃなくて良かった。

 ひと先ず、ホテルは回避したが、このまま凪の家まで行って石水が上がりこんでしまったらもっとまずいことになるのでは。しかし、どうやって二人を引き離せば良いんだ。学生である太河が出ていったところで早く家に帰れと言われてしまう。

 どうしようもできない歯がゆさと凪の身に迫る危機に心臓がバクバクと煩い音を鳴らしている。すると突然、凪がぴたっとその場に立ち止まった。

「ここまでで大丈夫です」

「え、けど、そんなフラフラで家まで帰れます? すぐそこなら玄関まで送りますよ?」

「その……ボロアパートなんですよ……見られるの恥ずかしいので……本当すぐなんで大丈夫です。先生もお気をつけて」

 にこりと笑みを浮かべた凪の表情に石水はまだ何か言いたげだったが、次の言葉が発される前に凪はくるりと身を翻してすたすたと歩きだしていた。その足取りはよく見れば少し酔いがあるようにも見えるが、ぱっと見だけならばまともに見える。

 名残惜しさを微塵も感じさせずに歩き去っていく凪の姿をしばらく見つめてから、石水もようやく諦めたように別の道へと歩いて行った。

 凪も石水の姿も見えなくなり、太河は再度凪の歩いて行った方向をじっと見た。さっきの様子ならそこまで心配する必要もないのかもしれないが、それでもやはり心配だった。凪は昔からお酒に弱かったから。

 今の凪が何処に住んでいるかなんてわからないが、走ればまだ追いつけるかもしれない。

 先ほど彼が立ち去った方向へ駆け出し、曲がり角を曲がった。その瞬間、足元にしゃがみこむ人影が視界に飛び込んでくる。

「うわっ!? な、ぎ……?」

「……たいが?」

「なに、してんの……帰ったんじゃ……」

「……ここ、どこ……スマホ……地図、見えなくて……」

 凪の手にはスマホが握られ、その画面には地図アプリが表示されていた。しかし、酔いで視界がはっきりしていないのか、まともに見ることができていないようだ。

 目の前に突然凪が現れたことに心臓はまだバクバクと激しく音を鳴らしていたが、しゃがみこんで膝に顔を埋める彼の姿に少しずつ冷静さを取り戻していく。

「……はぁ……送るよ。家の住所は?」

「前と、同じ」

 前と同じ。それは凪が大学時代に住んでいたアパート。そして、太河が凪にキスをした場所。てっきり引っ越したとばかり思っていたが、凪はずっとあの場所に住んでいたのだ。

 何度も訪れたことのあるあの場所を忘れるわけがない。

「……行こう」

 凪の前を歩きだすと彼は後ろをついてきた。石水と歩いていたときはもっとしっかり歩いていたはずだが、今はそのときよりもふらふらとして時折壁にぶつかりそうになっている。

 二人きりになれて嬉しいはずなのに先ほど見た光景や会話が脳内で繰り返され、自然と歩調が早まっていく。すると、背後から少し息の切れた声が太河のことを呼んだ。

「たいが……まって、はやい……」

「……」

 開いてしまった距離を埋めるように太河が歩みを緩めると凪の熱くなった手のひらが太河の手首を弱く掴んだ。

 まるで迷子の子どものような掴み方。凪のことを見ると彼の眉尻は下がり、瞳は潤みを帯びている。その表情もまるで迷子だ。

「太河、何か怒ってる?」

「……そんなに酔ってるなら石水先生とホテル行けば良かったじゃん」

「お前っ……聞いてたのかよ……嫌だよ。誰かに見られて問題になりたくないし……」

「じゃあ、なんで家まで送ってもらわなかったの?」

「……家の場所、知られたくなかった」

 以前の凪だったら大学の友達も普通に招いたりしていたはずだ。友達と職場仲間で線引きをしているのだろうか。だが、凪の反応を見るに、それもまた違うような気がする。会っていない数年の間に何かあったのか?

 そんなことを考えていると顔を上げた凪と視線がぱちっと合わさった。以前はかけていなかった眼鏡の下の瞳は昔と変わらずキラキラと輝いている。

「お前……背、高くなったな……」

「うん……178cm。凪より大きいんじゃない?」

「なまいき。1cm負けただけだ」

「まだ成長中だよ」

 ぷいっと顔を横に背けた凪の姿はやっぱり子供っぽさを感じた。しかし、今度は迷子の子どもなんかじゃない。もっと無邪気で、昔から知っている凪の姿だ。それを見ているだけでモヤモヤしていたものは薄れていき、自然と笑みが浮かび上がってくる。

 手首を掴む凪の手に反対の手で触れ、手のひら同士を重ね合わせると彼は僅かに身体を跳ねさせたものの、その手が振り払われることはなかった。

 昔はこうして二人で手を繋いでいろんなところに行った。あの頃とはお互いの手の大きさも硬さも全く違う。しかし、指の絡め方は二人とも変わっていなかった。太河が強く握りしめ、凪はそれを包み込むように握り返す。

「帰ろっか」

「……ん」

 残りの短い帰り道、二人はほとんど言葉を交わさなかった。喧騒から離れた静かな住宅街にアスファルトを踏む音と小さな虫の音が響いている。

 肌寒さを感じる春の夜風の中、お互いの手のひらの温度だけがやけに熱いような気がした。

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