船で向かうは
「あんたは一体何なんだ」
「瘴気王ヨーゼン・カイ」
俺は小さな声で問いかけたんだが、彼は何という事はない調子で答えるばかりだ。
「ただ一つの約束を守り切れなかった、弱いものだ」
さらりと言う事は尋常ではない物で、彼に手を引かれるがままに俺は、船に乗ろうとした。
乗ろうとしたんだが、それも途中で止められたのは。
「息子になんて言う事をしたんだ!」
激昂するおっちゃんが、手下らしい人間たちを引き連れているから、である。
どうも俺を襲ってきて、彼に迎撃されたあのあんちゃんはこのおっちゃんの子供だったらしい。
もっとちゃんと子供は育てろよ……数字が読めないような、世間からすれば弱者のような相手を巻き上げるような事くらいはしない程度にはさあ。
俺は彼がどう出るのかと思っていたんだが。
す、と彼がごくごく当たり前の態度で俺の手から指をほどき、彼等に向きなおったわけだ。
「和子、お前は先に乗っていなさい」
「船の出向時間はあと三分ですよ」
「ぶー」
俺の言葉に同意するぶーちゃん。ぶーちゃんは有能な豚であるからして、彼が出て行ったと同時にここで待ち構えていたのだ。
「かまわない、問題も大してあるまい」
「でもあなたも乗らないと、チケットは二枚なのに」
「問題ない、追いつくから」
言っている事には余裕があり、彼は追いつくと思っているのだろうとわかる。
だが、さすがにあと三分で決着何てつかないだろう。
どうすんだよ、あんた。
俺は立ち止まるも、船の上から船員に急かされる。
「そこの子供、乗るか乗らないのかはっきりしろ! 直に出るぞ!」
「ぶー!」
俺が言葉を言う前に、ぶーちゃんが俺の服の首のあたりを噛むやいなや、タラップを全力で駆けのぼる。
どすどすと響く音だ。
「おお、素早い獣だな。坊主のか」
「あ、はい……」
「あっちの兄ちゃんは揉め事か? ありゃあ災難だ、あれはこの町の名士なんだ」
「そんな」
俺は決して、ヨーゼン・カイが負けるとは思っていないし、彼に何かできるとも思っていない。
だがそれとこれと話が別で、船に乗らなければ夏の大陸にはむかえないのだ。
そして通行許可証が無かったら、関所は通れないのだと俺は旅慣れた人たちの言葉から判断している。
ヨーゼン・カイが追い付いたとしても、二人分の通行許可証を手に入れるのに、この小さな体は不便なのだ。
背丈のでかい、大人がいた方が話が早いのだ。
春の大陸はそんなに関所が重視されなかったのだが、夏の大陸はそうじゃない。
文化の違いだからかもしれないんだがな。
「出航―」
船員の誰かが声をかけ、船のタラップが回収される。港に停泊するための錨があげられ、船が滑るように動き始めた。
俺は船の間際で、あの蒼い髪がこちらに飛び込む事を待っていたのだけれど、結局それは青色が見えなくなるまでかなわなかった。
「ぶー」
一度鳴いた後に、ぶーちゃんは俺に言う。
<親分そんなに落ち込んじゃダメだよ>
「落ち込むんじゃなくて、相手の心配をしているの。一応知り合いになったわけだし」
<ぶーちゃんあの人すきだよ? ぶーちゃんのこと真面目にみてるもん>
「私も結構好きだよ……なんだかな、理由は特に思いつかないんだけれど」
性質的に引き合うような感覚すら、瘴気王にはあるのだ、俺が一方的にだろうが。
俺が知らない俺の何かの結果だろう。
一瞬だけ俺の中をかすめたのは、どこか知らない町で俺だろう誰かが、瘴気王の手を見ているものだ。
それが何なのか、俺はまだわからない。
そう言えば、俺は彼に以前の俺と彼の関係性を問いかけた事がまだ皆無なのだ。
俺はいまだ、俺の正体を掴めない状態なのである。
「……」
瘴気王の体温は、酷く温いような温かさを持っている。
それはその名前のゆえんである、瘴気のような生温かさだ。
普通ならばひどく不愉快なそれも、俺は心地よいのか。
彼に触れられて、不愉快だと思ったためしがない。
ああ、頭の中がぐるぐると変になった気がする。
「師匠の活躍を見に行かなくちゃいけないのに」
ここでこうして、船に乗ってまで、行動を起こしているのが何よりの証拠だというのに。
彼をおいて行ってしまったというだけで、世界の色彩が半減したような気分になるのは、俺の罪悪感の結果なのだろうか。
ううん、分からない。
分からなくとも船は進み、人々の声はよく聞こえる。
「夏の大陸の武術大会に、お二人の王族が参加するそうだ」
「お二方はとても武術に魔術に優れているから、有力視されている事だろう」
「そしてお二方はとても麗しく美しい」
「春の大陸では見られない、高貴な緑の髪の二人だ」
俺はそれを聞きながら、以前俺の事を二人がかりで構っていた方々を思い出す。
彼等も武術大会に参加するのだろう。
そしてきっと。
「師匠は手加減しなさそうだね」
<したら相手にたいして、しつれーだとかいうよきっと、あのごついひと>
俺の言葉にぶーちゃんが同意し、俺はようやく笑った。
待てど暮らせど、ヨーゼン・カイが姿を現す事はなかった。
夜のとばりが下りてくる。俺はその中、船上で景気よく飲めや歌えやとしている中には参加しない。
そんな気分にはならないし、そして俺に対する興味の視線はある意味痛いほどだ。
俺のような子供がたった一人、獣とともに船に乗るなんてとても珍しいのだろう。
事実俺は、見た目で俺程度の子供が、一人で船に乗っているらしい様は見ていない。
俺はぶーちゃんと一緒に、その船上のバカ騒ぎを見ていた。
楽しいとは思えない。
俺もまあお酒は飲める年齢かもしれないが、飲む気にはならない。
それでもぼんやりと、俺は踊りあかす人々を見ていて、腹が減ったなと唐突に思った。
そう言えばこの船は結構いい船らしく、きちんと金を払っていれば食事だってありつけるのだ。
俺は船上での食事が雑だった結果、壊血病なんて笑えないから、ちょっと金を積んでいい船に乗ったのだ。
でかいし豪華だ。そしてそのでかさの分、色々な物を乗せられる船である。
冷却の魔法陣を備えたこの世界版の冷蔵庫を厨房に入れている船だから、そこそこ野菜だって食べられるだろう。
そういう思惑で。
金は必要な時に使う物だ、と自分に言い聞かせて、決して安くはない金を支払ったのだ。二人分。
ほんとあの人来ないと、一人分の金がもったいない事になる。
思っていてだんだん腹が立ってきた。
こうなったら食うだけだ。
俺は立ち上がり、人々の中に入って、本日の船の上での食事をする事にした。
食べたいだけ食べていたら、のどに詰まったんでその辺にあった水で流し込んだんだが……
何だろう、妙に愉快になってきた。
愉快になってまたその水を飲む。
飲んで食べていた時、不意に聞こえてきたのは誰か吟遊詩人の弦楽器の音だった。
リュートだっただろうか。
思い出せないし、俺にそういう教養はないから仕方がないのだが。
俺の体はリズムを取り。音の調子から次を予測して。
気付けば心底楽しくなってきて、俺は料理の下げられたテーブルによじ登って立っていた。
後は心のままに踊るだけ、音に合わせて体を動かすだけ。
片手に折り畳みナイフを持ったまま、ステップを刻んで腕を動かし、動くばかり。
その後はもう、覚えていないまま意識がブラックアウトした。
ブラックアウトする寸前に、あの甘い毒の匂いがしたのだけは、覚えているんだがな。




