豚の顎は強すぎる
「だろうな」
だろうなってあんた……と思ったのは本当だ。
「昔から、いいや、これは意味のない言葉だ」
瘴気王はどこか痛みをこらえた瞳を、一度そらした。
俺の中の何かを、もう一度見るようにまた、目を合わせてくる。
「とりあえず、お前はどうしたい」
「……」
どうしたい、で俺は答えらしいものを持っていなかった。
何をしたいのか、俺には思いつかなかったのだ。ああ、でも。
「夏の大陸に渡りたいです。それで、師匠の武勇を見てみたいような」
やってみたい事、あったわ。師匠がどこまで大会で頑張っているか、見てみたい。
実力がどの程度なのか、知りたい。
そういう好奇心は、どういう物なのかわからない。
そこではっとした。
「いけない、ぶーちゃんを置いてはいけない……!!」
「なんだその、かわいらしい名前の相手は」
「猪の変種……?」
「やれ、うまそうな変種だな。桃色で薄く白い毛が生えていて、いかにも食ってくれと言いそうな肥えた体格だ」
「いや、食べ物扱いじゃ……って、えっ!?」
俺は相手の言葉が的確過ぎて、はっとして洞窟の入り口を見た。
そこには。
「ぶー」
いかにも泥まみれの、そして彼の言うとおりに桃色の肌をした白い体毛の、俺の可愛いぶーちゃんにして、アレイスタが封じられている豚ちゃんがいた。
「ぶーちゃん……!!」
俺は感極まった。たった十数時間の別れだったというのに、涙腺が刺激されて抱きついてしまう。
「ああ、こっちを見つけてくれて本当に良かった、よかった、こっちからじゃあ探しようがないから……!」
<親分そんななかないでよ。ぶーちゃんわるいことしてないのに、わるいことしたみたい>
「勝手にどっか行っちゃうからでしょうが……!!」
俺はぎゅうぎゅうとぶーちゃんに抱きついた。落ち着く獣の香りがする。ちなみに泥の匂いも相まってとても……農場の香りだ。
遥か昔に、小学校一年生だったかで遠足に行った農場を思い起こす香りだ。
「探しようがないから諦めそうになってたんだよ……!」
これは俺の本心である。いきなりヨーゼン・カイが俺の前に現れて、衝撃的な事を立て続けに言うもんだから、頭から飛びそうになっていたが。
ぶーちゃんの事はずっと気にしていたんだ俺は!
涙でそうだ、本当に何かでそうだ。
「おや、鼻水が垂れそうだぞ」
そんな俺にヨーゼン・カイが近付き、ごしりと袖元で俺の鼻の下をぬぐう。
なんだこの世話焼き加減は、と思わないでもない。
がしかし。
「ぶーーーーーっ!!」
俺の鼻の下をぬぐったとたんに、ぶーちゃんがいきりたったような威嚇の声を放った。
俺でも翻訳できないから、本当に威嚇の鳴き声である。
そして俺の脇から顔を出し、何やらヨーゼン・カイ相手に睨んでいるらしい。
口をぱくぱくと開閉させて、口元が白く泡立っている。そして俺でも感じ取れるほど、申し訳程度の鬣が逆立って、全身の毛が逆立っている。
今にも突進していきそうだ。
俺豚の威嚇の仕方知らないけど、これ威嚇だよなってわかるくらいの分かりやすい激昂の仕方だ。
「やれ、本当に肉付きのいいししだ。どれ、捌いて食ってやろうか。程よく運動していて身も締まっていそうだ」
ヨーゼン・カイも流石の笑い方だ。これ絶対にからかってんな……としか思えない奴だ。
しかし、いきなり捕食対象にされたぶーちゃんからすればたまった物じゃないだろう。
「わっ!」
俺の脇をすり抜け、ぶーちゃんが瘴気王に向かって突進した。
言葉で言うと簡単だが、その勢いはおそらく、人間なら骨が持って行かれる勢いだった。
さらにぶーちゃんは止まらなかった。
ぶうぶうと、意外と固い鼻先で相手にぶつかりまくり。
相手が
「おうおう、勢いのいいししだ」
と笑って痛痒にも感じていないから。
「ぶーーーーーっ!!!」
口をすかさず開けて、食らいついた。
ばっと、赤い血しぶきが飛び散る。
俺は一瞬、ぶーちゃんの顎の力があまりにも強いから、言葉も出なくて頭も真っ白になった。
ぶーちゃんも火が付いた状態らしく、がぶがぶと腕を持って行くんじゃないかという勢いで噛みついている。
対するヨーゼン・カイは。
「」
しばしぶーちゃんを見た後、片手のこぶしを握り締めた。
え、まて、さすがに数百キロあるだろう豚を殴っても……と思った俺だが。
どうんっ! という音とともに、ぶーちゃんが洞窟の地面に打倒された。
ちなみに。
「腕持ってかれてる……」
ぶーちゃんは腕から顎を放さなかったらしい。
瘴気王の腕が、ぶーちゃんの口の中にある。
そして、おそらくぶーちゃんが食いちぎる前に、ヨーゼン・カイが殴って、その衝撃で腕がもげたのだという事も。
喉の奥から、胃液のような物がせりあがってくるのは、さすがにこれだけのグロテスクについていけない精神状態のためだ。
目をそらしたいのにそらせない。という状態だというのに。
「ぶー……」
ぶーちゃんは顎から腕を振り捨て、普段の温厚であどけないぶーちゃんとは大違いの表情でヨーゼン・カイを睨んでいるし。
「やれ、腕がもげてしまった。顎の強いししだ」
ヨーゼン・カイは腕の欠損なんてどうでもよさそうだし。
……神々は欠損の事、すごい気にするのに。何でこいつ気にしないんだ。
「腕を持って行かれたのは初めてだな、これから隻腕か」
「ぶーちゃんもうやめて! いろいろ大変だからお願い止めて!」
瘴気王の一言で、俺はぶーちゃんにしがみつき叫んだ。
ぶーちゃんは俺がしがみついてだめだめ、と繰り返すから、不満は大ありでも引っ込む事にしたらしい。
<親分そいつのことだいすきね>
非常にすねた声でそんな可愛い事を言った。
だが口元が血まみれスプラッタだからな、ちなみに牙も血まみれだからな、可愛さはかけらもないからな、ぶーちゃん。
「しばらく見た事のないほど、強いししだな」
しかしヨーゼン・カイは空気を読まない性質なのか、ぶーちゃんに近付く。
近付いて、しゃがみ込みぶーちゃんに視線を合わせて、こういった。
「愛しい冬の和子を守ってくれるには、申し分のない強さだな」
ぶーちゃんが、息をのむのが気配で伝わってくる。
俺もヨーゼン・カイを見て、息をのんでいたのだから。
「さて、血止めだな、焼けばいいか」
彼はその、俺が何て言えばいいのかわからない表情をひっこめると、残された腕で食いちぎられた方の腕の裾をまくり上げた。
俺はとっさに視線をそらした。見えた患部は、まさに獣に食いちぎられたそれだったように思う。
まくり上げて、指を鳴らす。
俺は見てはいけないと直感で感じて、思い切り目を閉じた。
じゅううう。と。
肉の焼ける、しかしおいしそうとはとてもいいがたい臭いにおいがあたりに充満する。
ぶーちゃんが何度もくしゃみをし、転がって痙攣するほどの臭さである。
それだけの事をして、腕の傷を焼いたヨーゼン・カイはと言えば。
「かなり痛い物だな」
表情一つ変えないで、あっさりとそう言った。いや、あんたの顔からじゃ痛みは伝わらない……
俺はもしかして、とんでもない奴を目覚めさせてしまったのだろうか、と今更ながら思った。




