毒の香りは甘く
唇を当ててみるという決死の行動もむなしいまま、氷は解けずじまいだった。
結果は何であれ俺は出来る限りを精一杯行ったのだ。
満足である。
そして、ここら辺に、水場が無かろうかと俺は氷に背中を向けた。
温泉でもあればベターだが、そんな物頼れないよな。
あ? でも泥温泉が湧いていたわけだから、このあたりの水脈のどこかでも温泉が湧いている可能性も……
俺が温泉好きすぎるんじゃないかって?
馬鹿野郎、日本人は風呂が大好きな民族なんだよ! 俺だって風呂は好きだ!
綺麗に清潔に、というのが大好きで何がいけない、何が。
我慢してるけれどな、体中粘液塗れなんだよ。
べたべたべたと、実は不愉快だ。
俺はそんな事を思いつつ、氷から離れた。
離れて気が付く。
「……このあたり地熱がある」
地面がホカホカと温かいのだ。あの氷の周辺は凍るように冷たかったから気付かなかったのだが。
もしかしてこのあたりは、火山の周辺なのか?
あいにく地形は全然わからないが。
火山周辺だとしたらますます、温泉を見つける確率が上がるな!
ちょっと頑張ってみよう。
もうじき夜明けだしな、世界が明るいわけだし。
俺の人間の目玉でも十分世界が見える時間帯だ。
そこではっとした。俺徹夜したのか。
仕方がない。熊に舐めまわされ、狼に追い掛け回されて、肉食植物に捕まって、怒涛の展開だったし、どれかで諦めていたら今の俺はいない。
早く温泉探して……とおもった矢先だ、硫黄くさいな、と気が付いたのは。
ますます温泉に対しての期待感が高まる。
がさがさと俺はあちこちをかき分けて、そしてついに……
「温泉だ……」
川の本流から外れた所に湧き出す、天然の温泉を見つけた。
地熱が熱いほどのこのあたりだから、川を探せば温泉に巡り合うとは思ってたんだが。
昔おばあさまと一緒に視た、温泉テレビが今ここで役に立つなんてな。
どこで何が役立つかわからないものだ。
川自体からも湯気が立っているから、この川は源泉なのだろう。
そこから少し離れた場所に、お湯だまりがあったのだ。
俺は期待を込めてそこに近付き、慎重に指を突っ込んだ。
酸性過ぎても、アルカリ性過ぎても俺にとってはつらい物だからな。
幸い指に問題はないし、温度もちょっと熱い位だ。
周囲に人も一人もいない、こんな森の中だから当然だが。
俺は勢いよく衣類を脱ぎ捨て、沸き立つ心のまま温泉に入った。
ああ、温かくて心に染み渡る温度だ。
頭からお湯をかぶり、粘液をしっかり洗い流す。
そうするといかに、俺がこの粘液で不愉快になっていたかが分かった。
不愉快になるって、思っていたよりも簡単らしい。
そしてそれが洗い流された途端に、機嫌が上昇する俺はなんて分かりやすいのだろう。
自分でセルフ突っ込みを入れつつ、俺は丹念に自分を洗い流し、ふうっと息を吐きだした。
しばらく浸かっていよう。
こういうのって自然の中で独り占めだから贅沢だよな。
鼻歌まで出て来てしまう。
へたくそな鼻歌を一人歌っていた時だ。
ぱきん、と小枝を踏む何かの音が聞こえてきた。
俺はすぐに体を起こし、立ち上がる姿勢に持って行こうとした。
ざあざあと木のあいだを風が廻る音が聞こえている。
なんかの獣の足音だったのだろうか、と推測をする。
獣だって枝を踏んで音を立てる事はある。
だがもしもの時の用心で、俺は手元に道具袋を引き寄せた。
折り畳みナイフのチェックである。
ちなみになぜここで、折り畳みナイフを洗わないのかと言えば、こんな硫黄のお湯で洗っちまったら折り畳みナイフに異常が出るからだ。
変に不純物が混ざった水でステンレススチール洗ったら、おそらく錆びるなんて可愛い事にはならないだろう。
俺はこの世界に来てから、苦楽を共にしてきた折り畳みナイフを大事にしたいのだ。
折り畳みナイフ片手に、あたりをじっと見まわして数分。
何も起こらないし、何も出てこない。
ふう、と息を吐きだした時だ。
「っ!」
いきなり背後から腕が伸びてきた。
獣の腕ではない、人間と同じ形の腕だ!
奇声を上げて相手をひるませようとした俺だが、ぐいと後ろから引き寄せられ囲い込まれ、うまい具合に腹に力が入らなかった。
でかい声を上げるには、それなりの体勢が必要なのだ。
背中を丸めたままでかい声は、あげられないだろう?
体の中に声が溜まって、音としては小さくなるしな。
ってのんきに考えている場合じゃねえ!
俺は素っ裸なんだよ!!
何とかして相手の腕を剥そうとしてみるも、相手の力も相当な物であり、そして何より腕ごと囲い込まれて腕が欠片も動かないのだ。
じたばたと足を動かしても、お湯をはね散らかすばかりだ。
ばしゃりばしゃりとお湯が散る。
足を動かし、体を動かす事に集中していた俺は、相手が明らかに鼻を寄せて、俺のうなじに顔を寄せた事に気付けなかった。
すん、と鼻が鳴らされる。
匂いを嗅いで確認する、獣のような仕草の後に。
「っあ!」
俺はうなじをがぶりと噛みつかれていた。これは絶対に痕が残る。出血してんじゃないかって世界の痛みだった。
眼を見開いた俺は何とか、相手に対する言葉を放とうとした。
だが、何も言葉が思い浮かばない、この体勢で挑発とか相手を逆上させる言葉は危険だ。
相手はそのまま、俺の首から流れているだろう血を、ねっとりと舐めあげた。
変態かこいつ?! 子供襲う方面の!
俺のような子供体形の、背丈も体つきも子供子供している奴を襲うなんて、それ以外に考えられなかった。
くっそ、人間が来るわけないって油断しすぎていたぜ。
ここは大人しくした方が怪我をしなくて……でも屈辱的な事にもなりそうで……どっちを選ぶ。
とっさにぐるりと思考を動かしたその時だ。
「ああ、求めていた肌の匂いだ。求めていた血の匂いだ」
ぞっとするような事を背後の野郎が言い出した。
野郎だとわかるのは相手の胸板が固くてごつごつとしているからだ。
これは確実に男の胸板である。
濡れに濡れた衣類の重さと、硫黄の中でも香る毒の甘い香り。
まさか。
俺は相手が何者か、分かった気がして蒼くなった。
変態なんて軽いもんじゃないぞ、予想通りだったら。
「求めていたものだ、ああ、私の氷、夜光石」
そいつは俺の体に、武骨な指を這わす。色めいたものじゃないのはわかった。
ただ相手の存在をしっかりと確認したい、という調子の触り方だ。
性的な物が欠片もない分、俺側の羞恥が加速する。
あんたなど知らないと拒絶できないほど、俺はこの香りを知っているせいだ。
何故か知っている。
そしてそれを心地よいと思っているのだ。
ギギウス・ブロッケン時代にはまったく知らなかったはずの香りを、生まれ変わった俺は知っていたのだ。
何故か、の答えはこいつが必ず持っている。
そんな事を思っていた俺とは逆に、相手は感極まったらしい。
「待ち焦がれに焦がれた、全てがここにある……!」
そのままぎゅうぎゅうに抱き込まれて、俺はあやうく肋骨が折れる危険にさらされた。
それゆえに俺は思い切り相手の脛目がけて、踵を放った。
「肋骨が折れる!」
踵はしかし見事に空振りに終わった。相手がすぐにそれを予知したのか、俺を抱き上げたのだ。
「ああ、私の愛らしい。焦がれ狂うほど焦がれた相手が、こうして封印を解くなどなんという運命だろうか」
俺を持ち上げて、興奮のあまりなのか第三の眼まで見開いている相手に、俺は静かに問いかけた。
「あなたは誰です、蒼い髪の方」
いや、知ってるんだけれどな。一応確認だよ。もしかしたら息子かもしれないし。
俺の問いかけに、彼はくすりと笑ってから俺を引き寄せ、俺の額に顔を寄せて笑う。
その笑った顔に、俺は正直、みとれた。
ただの笑顔じゃないのだ。
世界を支配できそうな笑顔だったのだ。
それと同時に、俺なんかを途方もないほど求めている笑顔でもあった。
そのせいで俺は、抵抗しようと思った出鼻をくじかれた。
「ああ、この体では初見か。私はヨーゼン・カイ。この世の瘴気の王とも言われている」
本人だったよ、真面目に本人だったよ!
あれ、でも、あ?
さっき咒法は解けなかったよな。
あの時氷の中にいたのは、別の奴だったのか?
色々と訳が分からない俺をよそに、ヨーゼンが言う。
「……このままでは具合が悪いか。……その衣類は粘液塗れだな。濡れているがこれを着るといい」
「着るわけには……」
「かまわないだろう、そちらの衣類よりははるかにまともだ」
いや、まともでもな、でもな? 心の準備が……というか俺はなんでこんなに受け入れ態勢なんだこいつの事……
ヨーゼン・カイは固辞する俺に、一番上に羽織っていた衣類を着せ掛けてきた。
確かに俺の衣類、粘液塗れだしまだ洗ってなかったけどな。
「これでよし」
俺が羽織るや否や、無数に結ばれた帯の一つをほどいて、俺に巻き付けて固定するヨーゼン・カイ。
かいがいしいな? あんた世話される側じゃねえの!?
内心で盛大に突っ込んだはいいものの、いかんせんおれは疲れていた。
温泉で程よく温まっていたせいか、意識がだんだんぶつ切りになりつつあるのだ。
こんな時でも眠れるって事は。
俺はこいつを安全地帯と認識している事になる。
野生の第六感の指示に、俺は抗えない。
くらりと頭が傾いて、相手の胸に倒れ込む。
「……眠るのか?」
ヨーゼン・カイが問いかけてくる。
うっかり俺は素直に頷いた。頷いた俺に触れる体。
耳元に声が入り込む。
「ゆっくり休め、わたしの愛らしい冬子」




