第3章 真田英二の場合
昭和34年。アメリカに戦争に負けたんだから西暦の方がいいか。それなら1959年4月某日。
オレは人々であふれかえった朝の国鉄名護屋駅の中央改札を出るところだった。見たところ、老いも若きも周辺の田舎から出稼ぎに来ているようだった。
活気があるのはいいことだ。オレも頑張って稼いで、弟や妹たちを養っていかなくては。
親父は尾張仏具の細工師だが、腕はイイくせに気に入った仕事しかしねえし、長男の兄貴は何かやりたいことがあるとかで、早々に実家を出て行ってしまった。
姉ちゃんに食わしてもらうわけにもいかないから、やっぱりオレががんばるしかないよな。そんな結論に至って今ここにオレは来ている。
「愛知一中を首席で卒業したんだから、大学を目指せばいいのに。」
学友たちは言ってくれたが、ウチは貧乏だ。学費を用立てるような余裕はどこにもない。
「なあに、大学なんか出なくてもしっかり稼いでやるさ。」
独り言ちながら駅の西口を目指そうとすると、目の前でオレをじっと見つめている視線に気がついた。セーラー服を着たおさげ髪の女子高生だった。
ああ、またか。女性に言い寄られるのには慣れているオレは思った。
今年で20才になるオレは、これまで行く先々で女性にモテまくっていた。はっきりソレを自覚したのは、尋常中学二年生のころである。
近所に住んでいた町でも評判の美人なお姐さんに、自宅に誘われたのが始まりだった。お姐さんは男女の交わりについて、文字通り手取り足取り教えてくれたのだった。
その後も入れ替わり立ち代わりに主に年上女性にモテたのだけれど、学生時代には多くの同級生や後輩からも慕われていたのだった。
それは自分なりに学業で努力し、良い成績を維持して注目されたせいもあるが、やはり若いころの上原謙に似ていると評された顔立ちに生んでくれた両親に感謝すべきところであろう。
そんなことを思っていると、その女子高生が声をかけてきた。
「真田英二さんですね。」
彼女はオレの名を知っていた。
「ああ、お店から迎えに来てくれたんだ。助かります。」
オレは答えた。
自信過剰な自分を少し反省した。
「もう一人あちらで待ってもらっているので、合流しましょう。」
彼女はそう言うとオレを案内してくれた。
西口前まで行くと、そこに小柄な女性が待っていた。
育ちの良さそうな顔立ちに涼しげな切れ長の瞳。
田舎で見ないような上等な仕立ての白いワンピースに、これまた白いつばの大きな帽子。そして足元は赤いハイヒール。この場に不似合いな華やかさだ。自分より少し年下かな?ずいぶんと気合の入った服装だなとオレは思った。
そういうオレはもう20才にもなるのに、相変わらずの詰襟学生服を着ているのだった。
何度も言うがウチは貧乏なのだ。だから18才の誕生日に新調してもらったこの学ランを、余所行きの一張羅として今でも大事に使っているのだ。
「はじめまして。私は坂下恵といいます。」
彼女はペコリと頭を下げた。
「オレは真田英二。どうぞよろしく。」
オレもあわてて頭を下げた。
「じゃあ、行きましょうか。」
件の女子高生が先に立って歩くのに、オレたちもついて行った。
駅前の屋台街を歩いて、いわゆる駅裏の方へ。入り組んだ細い路地を抜けていくと、目の前の雑居ビルに「ZAMBINI」と書かれた看板が現れた。目指す店に到着である。
「さあ、着いたわよ。」と女子高生。
「看板下の階段を下りていけばお店に入れるわ。」
「キミはバーテンダーとして、アナタはウェイトレスとして、頑張って働くのよ。じゃあ私はこれで。」
女子高生は帰ろうとした。
「え、キミはお店の人じゃないの?」オレがいうと「全然。」と彼女。
「これ以上の接触は監察局がうるさいから。」
監察局って何だ?この子は左翼か何かのアブナイ組織の人間なのか?
「ま、その監察局を作ったのも私なんだけどね。」
ますます解らないことを言うと、呆然とするオレたちを尻目に、彼女は雑踏の中を足早に歩いて、数メートル先の路地の角を曲がってしまった。
「あ、ちょっと待って…」
我に返ったオレはあわてて追いかけたが、もうどこにもその姿は無かった。
「そう言えば名前も訊いてないな。」
独り言つオレの後ろから、早く行きましょうと恵さんが声をかけてくるのだった。