■9話■話し合い
翌日。
マルネリッタがいつもと同じ部屋に案内されると、そこには殿下だけで、貴族の娘達の姿はどこにもなかった。
女官テアナに頼んだものの、その後、何の連絡もなかったのでマルネリッタには殿下に伝わっているのか断られたのかはわからないでいた。
だから、今日もまた娘達に交じっての歓談だとばかり思って来たのだ。
「マルネリッタ」
「ごきげんよう、殿下」
いつものように戸口まで迎えにきた殿下に手を預け、マルネリッタは部屋へと入った。
騎士や官吏、女官達は部屋にいるのだけれど、他の娘達がいないと隣の人が気になって緊張してしまう。何度も顔を合わせているはずなのに。
マルネリッタは俯きぎみにソファへと腰を下ろした。
「マルネリッタ、王宮の暮らしは慣れただろうか」
隣から殿下が静かな口調でマルネリッタへ問いかけた。
殿下はいつもなら前の娘達の方を向いているのだが、今日は思いきり身体をマルネリッタの方へと向けているので顔を上げにくい。
マルネリッタは前方に顔を向けたまま視線を彷徨わせた。
その視線の先は、いつもなら娘達が座っているのに、ガラ空きで。
二人しかいないなら、何も並んで座らなくてもいいのに。そうすれば、こんなに緊張しなくてすんだはずなのに。
マルネリッタはそう思いながら、口を開いた。
「……まあ……」
口から音は出たけれど、殿下の望む答えは返せず、曖昧に途切れる。
王宮の生活に慣れたとはとうてい言えない。この数日、マルネリッタが過ごしている日々は本来の王宮の暮らしとは別物だろうから。
そんなマルネリッタに殿下は言葉を続けた。
「紹介した娘達はみな優しい娘ばかりだ。いつも誘いを断ってばかりでは誰とも親しくなれない。慣れない王宮の暮らしにマルネリッタも戸惑っているだろうが、親しくなれば何かと助けてくれるだろう。彼女達と仲良くしてみて欲しい。いい友達になれるだろう」
マルネリッタは殿下の顔を見上げた。
親しく? 助けてくれる? 彼女達が?
彼女達と友達になれ?
この人は何を言っているんだろう。
マルネリッタの戸惑いが伝わったらしく、殿下も怪訝な表情になる。
「どうしたんだ、マルネリッタ?」
どうしたも、こうしたも……。
あのお嬢様方は王宮に出入りするような貴族娘なのだ。庶民の娘と仲良くしたいはずがないのに、なぜそれを望むのだろう。
双方が望んでいないとわかっていて、それでも殿下は友達になるよう強制しようというのだろうか。それは、あまりに……。
マルネリッタは殿下の問いには答えず、ここへ来た目的のために口を開いた。
「私も殿下にお話したいことがあるのですが、聞いていただけますか?」
マルネリッタは殿下と目を合わせた。
今日こそはわかってもらわなければならない、そんな決意を込めて。
「そうだったね。話を聞こう」
さっきの問いに答えなかったマルネリッタに気分を害した様子もなく、殿下はマルネリッタに先を促した。
「私は何のために王宮に滞在しなければならないのでしょうか?」
「僕の庇護者だからだが? 僕の屋敷には、年頃の娘を住まわせることができない。だから王宮で暮らしてもらいたい。何か不自由でも?」
「それだと、私はずっと殿下の許可の元で暮らすということになりませんか?」
「そうだ」
「私は殿下に見張られなければならないほどの重要人物か何かなのでしょうか?」
「見張っているわけではない。庇護しているだけだ。マルネリッタは妹のような者なのだから当然だろう」
「妹のような者だなんて、殿下が言っているだけです。私は王族ではないのですから妹になんてなれません。私はただの普通の娘なんです。殿下の庇護は必要ありません」
「一緒にいると約束した」
「約束なんて……もう忘れてください。私はもう十分に大人です」
「マルネリッタには家がなく、家族もない。一人で放り出すことなどできない」
「そのうちどこかに部屋を借ります。仕事も見つけます。一人で働いて暮らしている者などいくらでもいるはずです。なのに、私だけが殿下の庇護を受けるのはおかしいです」
「そんなことをする必要がどこにある? マルネリッタはここで暮らせばいい。僕が一緒にいるとマルネリッタと約束したのだから、僕にはそれを守る義務がある」
約束など守る必要はない、そう言っても無駄なのだとマルネリッタにもわかってきた。
殿下にとって約束を破ることは義務を果たさないことであり、許しがたいことであるらしい。
だからといってマルネリッタも引き下がるわけにはいかない。
約束を破るのではなく、その約束は不要なものなのだと理解してもらわなければ。
「殿下、私には王宮の暮らしは無理です。私は妹のような者にはなれません。ご家族が欲しいなら、殿下はおモテになるのですから、親しい女性と結婚なさってはいかがですか? 私がお会いしたお嬢様達はどなたも優しい方とおっしゃっていましたよね?」
「僕は、家族が欲しいわけではない」
「殿下だって結婚なさるでしょう? 私はもう十八です。独り立ちする年齢です。今は家族がなくとも、じきに結婚して家族もでき、その人と一緒にいたいと思うでしょう」
「だが、今、家族はいない。若い娘が一人で暮らすなど、どれほど危険なことか。放置することはできない。どうして王宮で暮らせない? 何か不自由があるのか?」
「私は王宮で暮らす身分ではありません。生活も価値観も殿下のような方々とは違うのです」
「身分など気にする必要はない。僕の妹のような者として暮らせばいいと言っているだろう? 今の生活に不自由があるなら改善させる。何かあるのか?」
「不自由……。王宮ではなく、街で暮らしてはいけませんか? ここでは仕事も見つけられませんし、何もすることがありません」
「働く必要などない。何もすることがない? ならば今の生活に慣れるよう努めて欲しい。必要な事があれば、何時でも言ってくれれば、すぐに用意させよう。文句ばかり言わずに、試してみてくれないか? 王宮で暮らせるように。悪いようにはしない」
疲れた殿下の声に呆れが滲んでいたことに、マルネリッタは失望を感じた。
あぁこの人も、結局、彼等と同じなんだ。
どんなに言っても声は届かない。聞こうとはしないのだ。嘲笑いはしないとしても、下々の声など聞くに値しない、そういうことなのだ。
「わかりました。殿下のおっしゃる通り、王宮の暮らしに慣れるよう努めましょう。それでも暮らせないと私が思ったら? そうしたら、殿下も認めてくださいますか? 私に王宮の暮らしはできないと」
「マルネリッタは……そんなに王宮暮らしが気に入らないのか。一体何が不満だ?」
「全てです」
「……わかった。しばらく様子を見てから、マルネリッタの言い分を考えよう」
「それは、いつ、ですか?」
「一カ月後に」
「…………ありがとうございます」
殿下は大きく息を吐いた。疲れた様子で。
だが、マルネリッタも疲れていた。
本当なら、殿下の申し出をありがたいと思うべきなのだろう。十年前の子供との約束を忘れずに守ってくれようとしているのだから。
殿下の妹のような者だと胸を張って言えたなら、ここで暮らせるのだろうか。嫌みな女官達にも、冷ややかなお嬢様達の眼差しにも、いつかは慣れる日が?
いいや、それは無理なこと。
自分の存在を否定する場所に居座ることはできないし、居たくない。こんな息のできない場所には。
一カ月も先だけれど期限ができたことで、マルネリッタの気分は少しだけ落ち着いた。
ただ、落胆した様子の殿下に、後味の悪い思いが残った。