村娘と羊皮紙
午後の仕事も半分が過ぎた頃、納税者で溢れかえる徴税役場の一階受付では小さな騒動が起きていた。
「だったらワシらは何でばか高ぇ税を払ったらいいんですかい!」
継ぎ当てだらけほつれかかった外套をひっかけた農夫がかすれた怒鳴り声をあげた。その初老の農夫はくしゃくしゃに丸めた自分の帽子を強く握りしめながら、口から唾を飛ばして応対する徴税吏に訴える。
「小麦どころかライ麦もオート麦も今年はもうありゃしません。だからうちのかかあは今年はエール一杯すら作れえねぇありさまだぁ! ワシが納められるのはこいつだけでさぁ」
農夫は自分の後ろに控えていた粗末な格好の若い娘を徴税吏の前へと引っ張り出す。あばた面のその娘はさっきから両手に顔をうずめてしくしくと泣くばかりだ。
「だからって娘なんか突き出されて、そう簡単に受け取れるか! 俺達は人買いじゃない!」
担当の徴税吏も困り果てた様子で怒鳴る。周囲の納税者や役人も呆気にとられてそんな二人のやりとりを見つめていた。
受付の騒ぎを聞きつけ、ウェルテも他の同僚達とともに仕事部屋から出てきた。
「何の騒ぎ?」
「あのおっさん、税が納められない代わりに自分の娘を身売りすると言いだしたらしい」
「そんな無茶な……」
ウェルテも呆れて騒ぎを見ていると、外出していたアカバスが役場へと戻ってきた。
「騒がしいぞ! 何があったのか説明しろ!」
アカバスは脱いだ三角帽を振り回しながら怒鳴った。応対していた徴税吏が一部始終を説明すると、アカバスは肩を落として農夫を睨んだ。
「お前はなんて愚かな男だ…… とはいえ、こればかりはお前だけが悪いわけでもない。お前、名前は?」
「サウス・ローのジョゼフでさぁ、旦那」
アカバスは考え込むように腕を組んだ。
「あそこはたしか…… 今年はイナゴが発生して麦に大損害を出した村か。そうだな?」
「はいそうです、先生」
アカバスはそう部下に確認すると老人へと視線を戻す。
「よし、お前を含めて村の様子は後日調査する。納期はそれまで保留にしてやるから、今日はそのかわいそうな娘を連れて帰れ。ただし、もしこちらの調査も待たずに娘を人買いに売り飛ばして金を作ったらただじゃおかんからな! それだけは忘れるなよ! 以上だ、さっさと仕事に戻れ!」
アカバスはそう言って靴音を響かせながら奥の仕事部屋へと引っ込んだ。農夫は渋々と娘の腕を引っ掴んで役場を後にする。周囲の者もそれぞれの仕事や相談事にもどりはじめた。
ウェルテも仕事部屋にもどろうとした時、同僚の一人がウェルテを呼んだ。
「おいスタックハースト、お客さんだぞ」
ウェルテは足を止めて役場の戸口を見ると、そこには黒い喪服を着た中年の女が立っていた。ウェルテは慌ててその女のそばへと行ってあいさつをする。彼女はサリエリのお姉さんだった。今は街の東にある肉屋に嫁ぎ、そこでおかみさんになっていた。
「こんにちは。あれからお父さんやお母さんの様子はどうですか?」
「父はまだ耐えているけど、母はまだ受け入れられなくて……」
彼女はサリエリとよく似た柔和な丸顔を曇らせ、ハンカチーフで目を押さえた。ウェルテは無言でうなずいた。
「あんな酷い事があれば、無理もないです…… でも早く元気になってもらいたいです」
ウェルテはそう言うことしかできなかった。
「ところで、今日はどうしたんですか?」
ウェルテがたずねると肉屋のおかみさんは役場の外を指差した。そこには擦れて表面がテカテカした粗末な喪服を着た若い娘が立っていた。
「ウェルテさん、勝手なお願いで申し訳ないんだけど、あの娘さんをあの子のお墓まで案内してあげてくれる。もちろんお仕事が終わってからの暇な時でいいの。あの娘さん、うちの子が亡くなったのを昨日知って、さっきわざわざうちの実家まで来てくれたのよ」
ウェルテが娘を見ると、その娘は軽くスカートの両裾をつまんで挨拶した。ウェルテも軽くうなずいて返礼する。
「彼女は一体?」
「ガトウッド村から来たそうでね。どうやら仕事で知り合ってうちの子と仲良くしていたみたい。本当ならあたしが案内するところなんだけど、あいにく今はお店のほうにいなきゃいけなくて……」
「ええ、判ります」
申し訳なさそうに言う姉さんにウェルテは何度もうなずく。特に今は収穫祭目前で商売をする者は誰もが忙しいはずだった。
「それくらいお安いご用ですよ。あとで僕が案内します」
ウェルテが二つ返事で承諾すると、サリエリの姉さんは何度も礼を言って帰っていった。ウェルテが喪服の娘に視線を戻すと、彼女は少しはにかんだ様子でうつむいた。顔にはまだ若干のそばかすが残っているが、やさしそうなかわいらしい娘だった。喪服は粗末なものだったが、それをきちんと着こなし、清潔感を感じさせた。
――ガトウッド村…… たしか霞の森にある村の一つ……
ウェルテは娘を見ながらそう記憶を反芻した。
その村娘は持参した花束をそっと墓に置いた。まだ墓石は置かれていない。ただ周囲の土はまだ掘り返したばかりと判るやわらかい黒い土だった。ウェルテは祈る娘を見つめながらこの三日間を思い返した。サリエリの死から今この瞬間までの間、様々な不可解な出来事がウェルテに押しよせてきた。あの日の夕方にサリエリの死顔を目の当たりにし、翌朝ここで復讐を誓ったことがもう何日も前の出来事のように思われた。
雲が西日を隠し、あたりが僅かに薄暗くなった。娘は目を開けてサリエリの眠る地面を見つめていた。彼女はガトウッド村のマリーと名乗った。霞の森にある村の一つ、ガトウッド。そこはサリエリが当番としていた村の一つだった。
「サリエリさんはいつも村の人に優しくて、わたしも大好きだったんです。サリエリさんもいつも私達に会いに来るのが楽しみだって…… だから昨日、サリエリさんが死んだって聞いた時には、わたしも本当に信じられなくて…… 一体誰がこんな酷い事をしたんですか?」
ウェルテは首を振った。
「判らない。あいつを見つけた青騎士隊が言うには、山賊に襲われたっていうけど、実際誰がやったのか……」
「わたしそんなこと信じられません!」
マリーが急に顔をあげた。
「あの日、あの人が死んだっていう日に実はサリエリさんはわたしたちの村を訪ねてくれたんです」
ウェルテは目を丸くした。
「え、それは何時頃?」
「確かお昼を少し過ぎた頃だったと思います。あの日は前から会う約束をしていたんです」
――そうか、やはりサリエリはエルベ荘園で集金を済ませた後、バルテルミ村へは向かわずにガトウッドへ行ったのか
ウェルテはそう考えながらもマリーの続ける話を聞いた。
「あの日村に来たサリエリさんは少し興奮した様子でわたしに言いました。少し調べないといけない事が増えたって。この一月の間、あの人は非常に忙しそうでした。わたし達の村に来るのも半分は仕事のためでした」
マリーは立ち上がり、ウェルテの目を正面から見据えた。
「あなたはサリエリさんと一番仲の良かったお友達ですか?」
ウェルテは彼女から目を逸らし腕を組んだ。
「どうだろう…… あいつは誰もから好かれていたから。ただ一番親しかった一人だとは思ってる。サリエリには本当に世話になった。……もし、あいつを殺した犯人が判れば僕は剣で始末をつけると彼に誓った」
マリーはうなずいた。しばらくウェルテを見据えてから彼女は再び話し出した。
「実はサリエリさんはここしばらくの間、特別な調べ物をしていたんです。いつも村に来てはロバをあずけて森の中へと出かけて行きました。ある時にはそのまま一昼夜帰ってこなかった事もありました」
それを聞きウェルテは表情を険しくした。
――特別な調べ物…… そんな話は聞いた事ないぞ?
「どこで何をしているのかは結局教えてくれませんでしたが、あの人はわたしによく羊皮紙の書きつけを預かってくれと頼んできました。三日前、最後に会った日もそうでした。サリエリさんは村に来るとわたしに羊皮紙に束を預かってくれって頼んで出かけてゆきました。今日は行かなきゃならない所が増えたって言ってロバですぐに出かけて行きました」
話を聞きながらウェルテは悔しそうに唇を噛んだ。
「ちょうどその日、僕は風邪をひいてサリエリにバルテルミ村への集金を頼んだんだ。あいつ、自分の仕事の事はなにも言わなかったからな……」
マリーは首を振った。
「それはあの日、サリエリさんから聞きました。あの村には帰り際に寄るって言ってたんで。でもあの人は結局そのまま帰ってきませんでした。わたし、嫌な予感がしたんです。でもまさかあの後にこんな事になるなんて……」
そこまで言ってマリーは目に涙をためて鼻をかんだ。
「サリエリがしていた特別な仕事って一体…… 普通は集金くらいしかやる事なんてないんだけど」
マリーはぼろ布で涙をぬぐう。
「自分はこの辺りを古くから知っているから秘密の仕事を頼まれたって言っていました。その為にいつもこっそりと周辺の村へ出かけていったんです」
――秘密の仕事、調べ物…… となるとアカバス先生の指示か?
「その秘密の仕事ってどんな事だったか判る?」
「ちゃんとは教えてくれませんでした。でもサリエリさんはよその村の収穫や農作物なんかの量を調べていたみたいなんです」
マリーはそう言ってずた袋の中から数枚の丸まった羊皮紙を取り出した。
「これはあの日サリエリさんが預けて行ったままのリストです。いつもどこからか帰ってきては羊皮紙になにかいっぱい書き込んでいました。本当はこれもあの日村へ取りに帰ってくるはずだったんです」
「ちょっと見せて!」
ウェルテは慌てて羊皮紙を手にするとそれを食い入るように覗き込む。そこにいくつもの文字と数字が、急いで書いたと思われる乱れた字で記されていた。
「スワインヴィル 干し肉 四十樽。ローズウッド クルミ七樽、未製粉のオートムギ二十六袋。 荷車回収 ヴィアーズ。 倉庫へ…… こいつは各村の生産物の目録みたいだけど。ヴィアーズっていうのはヴィアーズ荷車のことか?」
ウェルテは目を丸くしながらサリエリの走り書きしたインクの筋を追う。
「ヴィアーズという書き込みは二枚目と三枚目にもありました。それがあちこちで食料を集めてるって……」
マリーが羊皮紙を指差した。ウェルテは驚いて目を丸くする。
「え? 君、字が読めるの?」
マリーがきょとんとした顔をしてうなずいたので、ウェルテは慌てて詫びた。
「いや、御免。偉そうにしてる騎士や貴族の男達のなかにですら、戦争ごっこにかまけて読み書きができない奴が結構いるっていうから、つい失礼な事を言ってしまって」
「お父さんは字が書けないけど、お母さんはできるから教えてくれたんです。できて損はしないって。それにサリエリさんは時々町から本を持て来てくれました。わたし、それが楽しみで……」
マリーは思い出すように少しだけ笑みを浮かべた。ウェルテはそんなマリーを見て、サリエリがなぜこの村娘を好きになったのかが少し判ったような気がした。
「サリエリにこんな事を頼んだのはやっぱりアカバス先生なんだろうか? それに一体なぜこんな物を……」
ウェルテは羊皮紙を睨みながら首を傾げた。マリーもそこまでは思い至らないようで、首を横に振るばかりだった。
墓地に佇む二人の耳に馬のいななきが届いた。その方角を見ると、墓地を囲む木製の柵の向こうに青騎士隊の隊員が二人、ウェルテ達を遠巻きに監視するように馬に跨ったままこちらを見ていた。ウェルテは嫌悪のために舌を鳴らし表情を険しくした。
「そろそろ戻ろう」
マリーは硬い表情でうなずき、ウェルテに誘われて墓地の出口へと歩き出した。
ちょうど墓地を出ようとする時、マリーはずた袋を落とし、まるで風に飛ばされる枯れ草のように体が傾いた。仰天しつつもウェルテはなんとか両腕で支え、すんでのところで地面に倒れそうになった村娘を抱えて柵に寄りかからせる。
「ちょっと! しっかり、ねぇ? 大丈夫?」
目をつぶって卒倒したマリーへウェルテが声をかけると、マリーはうっすらと目を開けた。
「ごめんなさい…… 急に前が真っ白になって……」
ウェルテは今になってマリーの両腕や肩幅の細さに驚いた。いくら痩せているとはいえ、農家の娘にしては痩せすぎだ。これではのら仕事に苦労するに違いない。
「いつもちゃんと食べてる?」
マリーは柵にもたれかかったまま、青い顔を横に振る。
「今年は日照り不足で食べ物の値段がとても高いから、食事は一日一回なんです。昨日の夕方パンを食べたきり、何も食べていなくて」
「そりゃ無茶だ……」
――とりあえずロクサーヌのところへ連れてって何か食べさせるか
「意識がはっきりしてきたらとにかく街へ戻らないと。何か食べないと帰れないよ」
マリーはうなずいた。なぜかその体は小刻みに震えているようだった。
「寒いのかい?」
マリーは声を細めて話し出した。
「実はあの日、サリエリさんが村を出発した後、入れ違いで青騎士隊の騎馬隊が村へやって来たんです」
ウェルテは驚きのあまり返事の声すら出せなかった。
「ひどく乱暴な口調で、今ここへ誰が来たのか、何しに来て、どこへ行ったのかをしつこく村の人に問い詰めて行ったんです。サリエリさんが来るのはいつもの事なので、今日も役場の仕事で来たとだけ答えたんですが、そうしたらあの人達はサリエリさんの後を追うように森の奥へと入って行きました。なぜかわたし、とても不安になったんです。結局その日、サリエリさんは帰ってこなかったから……」
ウェルテは呆気にとられて青騎士隊の方を見た。通常の市内警備と思しき平服に群青色のマントの二人組で城の尋問室で見た顔だった。
「じゃ、じゃあサリエリが盗賊に襲われたっていう時、すぐ近くでは青騎士どもが巡回していたというわけ? そんな馬鹿な…… 盗賊が真昼間に青騎士がいるそばで通行人を襲ったりなんかするはずない」
「わたしもそう思います。だから、あの人達を見たら急に怖くなって」
ウェルテが顔をあげると、依然青騎士二人は向こうから二人を見張っている。
「心配しなくても大丈夫。多分やつらが追っているのは僕の方だと思うよ。実は一昨日、やつらと悶着を起こしたんだ。多分そのせいだよ」
マリーはびっくりした顔をするが、ウェルテは笑ってゆっくりとマリーを立たせた。
ウェルテは去り際に墓地へ振り返った。
――サリエリ、またね
視界の隅で青騎士達がゆっくりと馬をすすめるのが見えた。
ウェルテはふらつくマリーをやっとのことでロクサーヌの酒宿へと連れてきた。木戸を押し開けると、酒場の席はほとんど客で埋まっていた。収穫祭が近いため多くの人がアグレッサへと来ているためだ。
「あらウェルテ、今日は早いのね」
ベルの音を聞いたロクサーヌが厨房から出てくる。とても忙しそうだった。彼女にとってもこの時期はかき入れ時だった。
ウェルテはあいている丸椅子にマリーを座らせると、ロクサーヌの近くへ歩いていき、十ブロン銅貨を数枚取り出した。
「ねぇあの子、もしかしてウェルテのいい人?」
ロクサーヌがマリーを見ながらいたずらっぽく笑う。
「残念でした。例の死んだ友達が親しくしてたらしい。これで何か力のつく物を食べさせてあげて。昨日から何も食べてないんだって」
ウェルテが苦笑いしながらも硬い表情で言うので、ロクサーヌも真面目な顔でうなずく。
「わかったわ、まかせといて。昨日のシチューも少し残ってるし、いろいろサービスしとくわ。ウェルテも何か食べて行く?」
「僕はいいよ。あと彼女が元気になったら、帰りは裏口から出してやってくれる? 表に変なやつらがいてとても怖がってるから」
ウェルテの表情と口ぶりから察したのか、ロクサーヌは何度もうなずいた。ウェルテは人で埋まった賑やかな酒場を見回す。
「そういえばガスコンはまだ帰ってないの?」
「朝から二人で出かけたまま帰ってこないわ」
「そうか…… とにかくありがとう。じゃああの子をよろしく」
そう言ってウェルテは銅貨をロクサーヌに渡すと、所在なく座っているマリーへ声をかけた。
「今、あのロクサーヌがなにか美味しい物を作ってくれるから、それを食べて一休みしたら、裏口から帰るといいよ。暗くなる前に村へ帰れるようにね」
「本当にありがとうございます。でもなんでそこまでご親切に……」
マリーは恐縮した様子でウェルテに礼を言った。
「アグレッサに来てから僕はサリエリには本当に世話になったんだ…… ところで、あいつの残していった羊皮紙だけど、しばらく貸してもらっていい? 僕もちょっと調べてみたいんだ」
「ええ、もちろん。わたしが持っていていも役には立たないので…… でも、気をつけてくださいね。サリエリさんが殺された事と関係があるかもしれないから……」
マリーはそう心配そうに言うので、ウェルテは笑いながらうなずき彼女に別れを告げて酒宿を後にした。
ウェルテはマリーから渡された羊皮紙を懐へしまいこむと街路へと歩き出した。先の青騎士の二人が十字路の陰から姿をあらわし、一定の距離を置いてウェルテのあとをついてくる。幸か不幸か、青騎士がつけていた相手はマリーではなくウェルテだったようだ。
ウェルテは帽子を目深にかぶり直しながら青騎士どもを一瞥した。クロークの下でレイピアの柄を掴む。サリエリと青騎士の間になにかあったのだろうか?ウェルテはそう思いを巡らしながら足早に徴税役場へと歩き出す。とにかく、あの日サリエリが調べようとしていたのか、それを知ることからはじめなければならないとウェルテは思った。