07 メデタシメデタシ
音もなく現れた魔女様に、私とダニエル様は同時に立ち上がりました。
すかさず、広い背中が庇うようにして私を後ろに隠します。
「なに、その態度。失敬ね。何もしないわよ」
魔女様の不満げな声が聞こえました。
「状況はだいだい把握してるわ。ヒトメボレの呪いがまだ解けてないって連絡がきたから」
こつこつと床を踏む音がして、私はこっそりダニエル様の背中から顔を出します。
状況をうかがうと、魔女様はダニエル様の姿を上から下まで眺め回していました。
「あらヤだ。ホントに解けない呪いかけちゃってるわね。間違えたわ」
間違えた。
その言葉に、体と心がおののきます。
まさか、呪いを解いてしまわれるつもりなのでしょうか。
「――あの、魔女殿、実は」
「はい、黙る。話の腰を折らないで」
「――っ」
空気が抜けるような音がしたかと思えば、ダニエル様が喉を押さえられました。どうやら声が出ないようです。
「言ったでしょ、状況は把握してるって。3ヶ月以上呪われてたんだから、その間にやばい事しでかしてなかったか水晶で確かめたの。まあ、やばい事はしてなかったようだけど、ややこしい事にはなってるみたいね」
魔女様の流し目が、私を捉えました。
「とはいえ、そこの赤いアナタは、王子様の代わりに呪いを引き受けたのだから、どうでもいいのだけれどね」
言って、魔女様が軽く手を振ります。その瞬間、ダニエル様が消失しました。
私の目の前に立っていた背中が消えて、愕然としましたが、次の瞬間には部屋の片隅に再び現れました。
ダニエル様の呆けた顔に安心したのも束の間、魔女様の美しいお顔が間近に迫っていました。
「でも貴女は別。ごめんなさい。貴女まで苦しめるつもりはなかったの」
吐息がかかるほど距離を詰められた魔女様は、まるで愛でるように私の頬を撫でます。
「ねえ、貴女の恋心を消してしまうという選択肢もあるのよ? もちろん、貴女が望むなら、この3ヶ月の記憶も消してあげる」
いきなり切り出された提案に、目を丸くしてしまいます。
知らず、魔女様の肩越しに見えた、ダニエル様に視線をやっていました。
魔女様の提案が聞こえていたのでしょう、彼もまた目を見開き、私を見ていました。
けれど、その瞳は次第に揺らいでいき、辛苦を滲ませていきます。
胸が痛くなりました。
ダニエル様もいま、同じくらいの痛みを胸に感じていると思うと、余計に締め付けられていきます。
魔女様は、この胸の痛みを消してくれるというのです。
在り方の正しくない恋情を注がれて、芽生えてしまったこの想いが無かったことになるのです。
そんなことは嫌でした。
私はもう、この痛みが惜しくてなりません。
ダニエル様が示してくれた、呪われているダニエル様との未来を、失いたくはありません。
私は、魔女様へと視線を戻すと、首を横に振りました。
「いいえ、魔女様。どうかそれだけはお許しください」
「――そう」
魔女様は、その美しいばかりのかんばせを、妖艶にほころばせます。
「それなら仕方がないわね。でも、一応アフターケアは用意しておくわ。もし、彼の重苦しい愛がうっとしくなったら、わたくしを呼びなさい。一度だけ応えてあげる。その時は、即座に呪いも記憶も消して、あの赤い彼が貴女に二度と近づけないようにしてあげる」
言うなり魔女様は、ちゅっと私の頬にキスを落とされました。
驚きのあまり固まります。キスなんて、まだダニエル様にもされていません。
「それじゃあ、わたくしは帰るわね。ダーリンが待ってるし。あ、そうだ。聞いて聞いて。あなた達のお陰でダーリンと仲直りできたの」
一転して、魔女様はうきうきと人懐っこい笑顔を浮かべました。
にしても、ダーリン、ですか。
さすが、長い年月を生きておられる方は、言うことも違います。
それから魔女様は、木こりのダーリン様との馴れ初め話をされはじめました。
出会いから恋人になるまでを朗々と語られましたが、例の銃撃事件の前の日、些細な行き違いで喧嘩別れをしてしまったそうで、それが晴れて誤解だと分かり、仲直りされたそです。
かなりの長時間、一人でお喋りを楽しんでおられた魔女様ですが、ダーリン様が待っていることを思い出されて、一緒に座らされていたソファから立ち上がります。
すると、ずっと立って待機していたダニエル様に、何やら目を止められました。
「そうそう、その前に忠告しておくことがあったわ」
魔女様は、おもむろにダニエル様へ歩み寄ると、耳を貸すように仕草で指示されます。
ダニエル様は躊躇いながらも腰を落とし、魔女様の身長に合わせて耳を傾けられると、魔女様はそこにコソコソこと耳打ちをします。
「……え、…………はい。…………はい。……――――びっ」
び?
けれど、ダニエル様は、それきり黙り込んでしまいました。
話し終えたらしき魔女様は、ダニエル様の肩を激励のようにぽんぽんと叩かれます。
「じゃあ、そういうことで」
気さくに手を振られたかと思えば、魔女様は煙のように消えてしまいました。
一方で口元を覆ったダニエル様は微動だにしません。しかも、目に見えて顔が赤いです。
「魔女様から、いったいどのようなお話しを?」
「…………」
「……私には、教えられないことなんですか?」
少し拗ねてみせると、ダニエル様は困ったような顔をされ、渋々と話し出しました。
「……魔女殿に、呪いの副作用についてご忠告いただいた。彼女が言うには、あの胸を痛くする現象に、身体的な悪影響はほとんどないが、その……び、媚薬、に、近い効果があるので、気をつけるように。と」
「…………」
私は、ダニエル様から一歩退きました。
「…………待て、どういう意味だ」
「冗談です」
くすくす笑いながら、退いた一歩分以上を歩いて、ダニエル様に近づきます。
模範的な男女の距離を越えて、その胸に手が届く場所にまで側に寄りました。そして、両手をそっと、ダニエル様の胸に置きました。
「――セ、シル、殿」
戸惑いの声を無視して頬を胸板に預けると、聞こえてきた音に耳を澄ませます。
「……心臓が、早鐘のよう」
自分でも驚くほど、うっとりとした声が出ていました。
「――そん、なに、近づかれると」
胸板にぴったりと手をつけたまま、ダニエル様を見上げます。
視線の先で、呼吸が止まる音がはっきりと聞こえました。
ダニエル様の黒い瞳に、私しか映っていないのが見えて、それにたまらない喜びを感じながら、私は小首を傾げます。
「我慢、してくださいますでしょう?」
「――――――――――――……………はい」
言質を取りました。
たとえ、有無を言わせない状況だったとしても、口に出されたからには、ダニエル様はきっと守ってくれるでしょう。
私はもう一度、ダニエル様に体を預けます。
自分のとは違う体温と匂いに包まれて、胸の奥が熱い痛みに満たされました。
その甘美な痺れに陶酔するあまり、震えるような吐息をつくと、ぴくりと、私を受け止めている体が跳ねました。
頭上では、リズムを乱しはじめた呼吸まで聞こえます。
ふと、背中の方でふたつの手が彷徨っている気配がしましたが、それくらいならダニエル様のご意志に任せることにしました。
かくして、ヒトメボレの呪いは解けぬまま、私たちは結婚を前提としたお付き合いをはじめることになりました。
ルシアン殿下とドロテア様にも、その旨を報告させていただきました。
私が面会を打ち切ったことで、ご心配をさせてしまったお詫びも含め、事の顛末を説明していきましたが、両殿下は、よく似たご尊顔で口をぽかんと開けられたまま、話を聞いておられました。
フォルテ様すら、どう反応していいのか困惑顔をしていたのは、してやったりです。
ただ、ダニエル様が呪われていることを、どうやって互いの実家に説明するのか、という懸念がまだ残っていたのですが、ダニエル様はすでにお父上様に話され、許可まで取っておられました。
あとは本当に、私の実家から許可をもらうだけになっていて、今度一緒に長期の休暇を取って、里帰りすることになりました。
ダニエル様は、王家の覚えもめでたいドラン伯爵家の次男様ですから、心配ないとは思いますが……やはり私の性分ですね、どうしても当たり障りのない説得の仕方を考えてしまいます。
それはそうと、互いの仕事終わりに開かれていた、あの面会時間はなくなりました。
ルシアン殿下の許可の下で使用していた部屋を、私用で使うわけにはいきませんし、フォルテ様の監視ももう必要ありません。
むしろ、邪魔になってしまいますね。もう面会ではなく、密会ですから。
そうです。面会はなくなりましたが、本当の意味で密会はしています。
きちんと仕事を終えてから、毎回会う場所を変えて一時の逢瀬を楽しみます。
ダニエル様は変わらず、私の一挙手一投足に胸を痛められてしまいますが、ルシアン殿下から出されていた身体的接触の禁はもうありません。
人目を避けるためにも自然と距離は近くなって、ダニエル様の葛藤はますます膨らんでいるようです。
ただ、約束されたとおり、私の貞操が疑われるような行為に及ぶことはありません。
口付けくらいなら、まったく構わないのに、それすら我慢されています。
構わないと言ってしまおうかとも思うのですが、熱に浮かされた目で私を見ながらも、眉を苦悶にひそめている姿に、ついついその言葉を呑み込んでしまいます。
だって、
「……ダニエル様、ダニエル様のそのお顔がとても好きだと言ったら、怒られますか?」
「――――……いい趣味とは、言えない」
そう言って、ますます悩ましげなお顔になってしまいます。
ですから、どこまで我慢されるおつもりなのか、今は待ってみようかと思います。
そうして、はじまった私たちのお付き合いですが、ダニエル様のせいで、私は毎日のように痛い胸を抱えるはめになってしまいました。
それはまるで、呪いのように私の心を掴んで放さないのです。
これにて完結です。
禁欲生活を強いられる男子に、小悪魔ちゃんを宛がいたいのが親心。
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