私の物語
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窓を開けると痛いほどの新しい風が入ってきた。春といってもまだ肌寒く、平年よりも遅くまで居座った寒気の名残を感じる。風に乗って桜の花びらが窓辺に舞い降りた。私は、案外、春が嫌いだ。
「樹里ー! 早く降りて来なさい! あんた今日から学校でしょう」
リビングから母の呼ぶ声が聞こえた。春休みの間は聞こえなかった懐かしい声だ。
「はいはーい、今行く」
支度を済ませ、一階に下りていくと、眠い目をこすりながらパンを咥える弟とソファでダラダラしている兄がいた。父親はちょうど出勤するところだ。父に挨拶をして、顔を洗ってからリビングに戻ってくると、弟がやっと脳を起動させたようで、私を認識した。
「あ、姉ちゃん。おはよ!」
「おはよ」
弟はまだ小学五年生なので、当たり障りなく接してくる。彼は起動さえすれば、この家で一番元気で無邪気な少年だった。
「ほら、樹里も早く食べちゃって。母さんもう行かないとだし」
母親も今日はパートのシフトが早番のようで、バタバタしている。蚊帳の外の兄には呆れ切ったのか、関心すら向けていない。
「私今日から普通に部活あるから、夜遅くなるからね」
「ええ、姉ちゃんまた帰ってくるの遅いのー?」
弟はかなり甘えん坊な方だと思う。十個上の兄が甘やかし、私もなんだかんだで面倒もずっと見てきたので、そんな性格になったのだろう。
「お姉ちゃんだって部活忙しいんだから。わがまま言わないのよ」
弟は少し不貞腐れたが、朝の情報番組で好きなコーナーが始まったので、あっという間にそちらへ興味を向けていた。
「そういえば、この前、璃子ちゃんママとランチ行ってさ。璃子ちゃん高校で彼氏できたらしいよ」
「あー、そんな感じの投稿見たな。あれ彼氏だったんだ」
母はどういった意図でこの話題を出してきたのだろう。きっと何も考えていないのだろうが、妙に私の心を蝕む。
「ご馳走様。それじゃあ歯磨きして、行ってくるね」
「姉ちゃんいってらっしゃーい」
学校に着くと、昇降口に新クラスが発表されている。それに群がる集団が、その掲示された紙の前で一喜一憂していた。
「おお、樹里。おはよ」
「おー、茉莉。クラスどうだった?」
「私三組。樹里も同じだったよ」
茉莉のおかげで混雑に足を入れることなく、私は新しいクラスを知った。茉莉は同じ女子バスケ部のチームメイト。選択科目もほとんど一緒だったので、必然と去年に続き、今年も同じクラスになった。
「そういえばさ、向井先輩に昨日の練習の後話しかけられてさ。もう眼福って感じで」
「えー、いいなあ。でも私は断然、津田先輩派かな」
「えー、向井先輩の方が塩顔でかっこいいじゃん。まあでも、樹里は、男前って感じの方が好みなのか」
茉莉は一度口を尖らせたが、すぐに何かを企む顔を浮かべる。
「津田先輩、今彼女いないらしいよ」
そんなことだろうと思った。茉莉は何かと私に恋愛を強要してくる。いや、きっとそれは茉莉に限ったことではない。十七歳の女子高生、こんな話になるのも当然だ。これは、ありふれた女子高生の日常会話。しかし何故か、私は毎回、この話に心が躍らなかった。
「いやー、津田先輩はアイドルって感じだから付き合うとかでは......」
「つまんないのー」
以前までは「つまらない」という言葉に少し敏感だった。しかし、最近ではそれも気にならないようになってきた。私にはどうしても、いわゆる「恋愛」というものが自分事にならなかった。話すことは嫌いじゃない。触れることも嫌いじゃない。でも、それが自分の領域に入ってこないことは確かだった。
今日は始業式の後、午後は確認テスト。そのテストの後の夕方から、部活だった。私と茉莉は疲弊した脳をリフレッシュさせるべく、体育館へと向かった。
「お、きたきた」
「お疲れー、樹里と茉莉同じクラスだったんでしょう? いいなー」
「うちら理系組は、全員バラバラだよ」
体育館に入ると、早速同期のもう三人がいた。理系の芽衣、彩葉、弓月。三人は先に着いていたようで、コートづくりを進めてくれていた。しばらくして先輩たち七人もやってきくる。すると、ちらほら新鮮な顔が見え始めた。
「あ、そっか。今日から部活動見学も始まるのか」
「見て、あの子って一個下の県選抜の子じゃない?」
「え、それにあっちはアカデミーの子だよ」
茉莉たちが視線を向ける中に、選抜経験のある私も、見たことのある顔がいる気がした。
「それじゃあ、練習はじめるよ」
部長の掛け声で気を引き締める。しかし後輩たちの視線が注がれる背中は、少しざわついた。




