黄昏に叫ぶ
目を覚ますと、いつも朝に見る光景が広がっていた。
「あ、起きた。どう? 体調は」
横から声がして顔だけ向けると、母親が洗濯物の入ったかごを持って二階に上がってきた。少し混乱する中、上半身をゆっくり起こすと、次第に感覚の方も覚めてきて、全身の関節が微妙に痛いことに気づいた。
「ほら、熱計って」
母親に体温計を差し出され、零士は言う通りに脇に挟む。その間、近くに置いてあった携帯を開いた。いくつかの通知がバナーで表示されている。そして日付を見ると、自分が思っていた日付と一日ズレていた。ちょうどその時、体温計も鳴り出した。
「ん-、まだ熱下がってないわね......」
「え、えっと......俺はなんでここに......」
零士のベッドの側に置かれたデジタル時計は、文化祭の前日の午前九時を表示している。
「あんたが学校で倒れて、たまたま近くにいた香坂先生が助けてくれたのよ。そのまま私が迎えに来て、一晩寝てたってわけ」
淡々と状況を説明されたが、すぐにはかみ砕けなかった。段々と脳が起動し始めて、理解に至る。しかし、依然として体調が芳しくないままだった。
「保健室の先生曰く、症状が熱だけっぽかったから、過労じゃないかって。ほら、あんたこの頃文化祭で忙しかったでしょう? 受験勉強も両立しながらだったし」
母親はカーテンを開けて、零士の部屋に新鮮な空気を光を取り込んだ。眩しいほどの朝だ。
「俺、明日行かなくちゃ......」
「何言ってんのよ。熱が下がらない限り行かせないわよ」
「でも、俺、実行委員だし......行かなきゃ困る人だって......」
零士はそこで口を閉ざした。おぼろげだった記憶が、チェキの写真のように浮かび上がってきた。
「......いや......行かなくていいのか」
母親は、特に詮索してこなかった。もしかしたら、本当に独り言で、聞こえていなかったのかもしれない。それならそれで、良かった。香坂には、次に学校に行った時に感謝を伝えよう。次に学校に行くのはいつだろうか。文化祭は、どうなるんだろうか。行かない、行きたくない、行かないのはカッコつけているだけか、悲劇のヒロインを演じているだけか、きっと、自分がどうしたとしても、周りの誰一人、どうでもいいことだろう。その辺で力が尽きたのか、零士は体を横にして、目を閉じた。その時に、一筋涙が流れたのは誰も見ていなかった。
それから何度か起きたり寝たりを繰り返した。次の日、熱が下がっていなかったので、文化祭の一日目は家のベッドで過ごした。たまに、虎治郎や楓馬から連絡や写真が来たけど、ちゃんと見ることはできなかった。きっと、虎治郎たちも零士の気持ちを察したのだろう。余計に連絡はしてこなかった。
零士はぼーっとカーテンから差し込む光を眺める。外の世界は、輝いている。文化祭もきっと大盛況だろう。そんな世界は、ベッドで寝込む零士に感心の一つも向けることなく、時を刻んでいた。ほんとうに、何もしなかったら何もないまま時が進む。当たり前のことだった。
次の日、目を覚ますと、それ以前までとは違う感覚だった。体が軽く、元の調子に戻っている。皮肉にも、文化祭はあと一日残っていた。
「熱下がったわね。どうする? 無理することもないけど、文化祭行く?」
母親はあくまでも選択の全てを零士に委ねた。
「......うーん、そうだな......行かない」
昨日は無事に終わった。夜、何か連絡があるかもとか期待してしまった自分もいたが、そんなことなどなかった。零士は自分の価値を、完全に手放してしまっていた。その時、通知が一件鳴った。
《零士の作った文化祭、お前も見ろよ》
それだけだった。虎治郎からの連絡。その時、あの始まりの感情を思い出した。
――俺も、こんな景色を、瞬間を作りたい。
ずっと見失っていた。この気持ちが源で、原動力だった。今年で最後、最高で最後の文化祭を作るはずだった。
「......行く。行くわ」
母親は頷いて、準備をするように促した。
零士がついた時には、文化祭もクライマックスだった。来ているゲストも、陽高生もいい顔をしている。
「文化祭二日目も、間もなくクライマックスです。今年も最後に、後夜祭を中庭にて開催いたします。参加される方は中庭まで集合お願いします」
校内放送が流れ、皆の足が中庭へと向いた。零士もまた、引き寄せられるように中庭に向かう。中庭には、ステージが設置され、後夜祭の最初のパフォーマンスとして軽音部が場を盛り上げていた。
「それでは、最後に、実行委員長の新井君より、一言もらいたいと思います」
零士はふと、見たくもないステージに目を向けてしまっていた。
「あー、えっと。皆さん! 文化祭二日間お疲れ様でした!」
会場が新井の言葉一つ一つに手を叩いて盛り上げる。しかし零士には、単なる音記号にしか思えなかった。
「最高の、最後の文化祭が作れて、これ以上無いです! ありがとうございました」
賞賛が新井に向けられる。そして、零士は一人立っていた。何にもない、ただの陽高生として。自分を鳥瞰してみると、なんと空しく情けないのだろうか。悔しいのか、空しいのか、寂しいのか、色々な感情が混ざり合って涙になった。号泣まではいかない涙が、ひとつ、ひとつと地面のアスファルトに落ち、染みていく。
「もう、どうでもいいや。どうでも......どうでも」
大好きだった高校も、文化祭も、嫌いになりたくないのに、負の感情しか向けられない自分になりそうで嫌だった。その時、何かが肩の上にポンと置かれた。反射で顔を向けると、隣にはステージに目を向けたままの香坂が立っていた。
「こんな話、聞かなくていいよ」
一瞬、零士は自分の耳を疑った。香坂が、切れ味のある言葉を突然放ってきたことはわかった。
「先生、そんなこと言っていいんすか......」
「行くよ」
全く話が噛み合っていない。零士は先生に背中を押されるがままに足を動かした。そして、とうとう辿り着いたのは、九組の教室だった。クラスメイト全員、後夜祭に行っていない。行かずに、用意されたプロジェクターを囲んで地べたに座っている。黒板には「見逃し上映会」と書いてあった。
「みんな、来たよ!」
香坂の一言で、クラスメイトは一斉に振り返る。その目は、温かく、本物だった。
「零士、おかえり」
虎治郎が手で招く。零士は虎治郎の隣に腰を下ろし、前に出ていたプロジェクターを見た。
「それじゃあ続きいくよ」
隼人がプロジェクターの再生ボタンを押すと、ステージで演技をする喜一の姿が映し出された。その演技に、クラスメイトが一喜一憂する。そして喜一は、全力で演技していた。
「なあ、零士」
そっと喜一と悠斗が隣に来て、腰を下ろした。
「このステージは、零士が作ってくれたんだぞ」
零士は、もう一度スクリーンにいる喜一と、そのステージを見た。何かが込み上げてくる。物語はラストシーンのようだ。
「零士、ありがとう」
零士は込み上げてきた涙を必死に堪えた。自分には泣く資格などない。自分の自己満足で、自分が壊していた。そんな奴が、ありがとうの言葉に泣く資格などないのに。
「なぁ、まだ間に合うよな。片付けは明日だしさ」
隼人が全員を連れてどこかに行こうとしている。零士は訳も分からずに、それについて行った。
「ねえ、どこに行くの」
後夜祭から戻ってくる人波に逆らって、九組は中庭へ向かった。先ほどまでは人で埋め尽くされていた中庭には、九組しかいない。そして、落ち着いているけど、少し前まで賑やかだった香りも残っている。零士はぐるりと見回して、二日間を終えた校舎を眺めた。風船、ガーランド、看板に、壁装飾、ステンドグラス、ステージ、そして活気の匂い。堪えていた涙が、たまらず溢れ出した。
虎治郎が零士の肩に腕を回す。
「お前が作ったんだぞ」
涙が止まらない。この涙は、さっきのそれとは違う。もっと、清くて、柔らかくて、儚かった。
「ほら、零士。最後の言葉」
隼人に促され、零士は九組の皆の前に出た。最初は涙で何も見えなかったけど、深呼吸をして、涙を拭って、大きく息を吸った。そして一言。
「......最高の文化祭になりました!」
そしてまた、涙が溢れ出す。九組は零士の傍に集まって、零士を称えた。きっと他のクラスには分からない、九組だけに共有さてた空間。零士は、この瞬間だけは、認めてもらえた気がした。世界から。




