Ⅰ
それは、私にとって羞恥そのものだった。
休み時間の教室の、その大きな窓ガラスには彼女の姿が映っている。触れれば琴の音が聴こえてきそうな長くて真っ直ぐな髪と、それに誰よりも笑顔が似合うだろう愛くるしい顔立ち。どこにでもある筈の学生服だって、まるで特別に仕立てたみたいに似合ってしまう。
きっと彼女を知った誰も彼もが、仁藤笑を素敵な人だと思うだろう。それを裏付けるかのように、彼女はまず整った顔立ちをしていた。くりくりと大きな瞳は窓ガラスの向こうをぼんやりと見つめていて、いったい何を思っているのだろう。
そんな彼女へと、クラスメイトのひとりが声をかけた。彼女たちはいつも休み時間になると笑の机の周りに集まってきて、きっと他愛ない話をしているのだろう。私にはその内容が、欠片もわからないけれど。
笑はびくっと我に返る。居眠りから覚めた時みたいにびっくりして、きょろきょろと辺りを見回した。
「笑、どしたの?」
そう問い掛けられたのを多分切欠にしたのだろう。クラスメイトが不思議そうな顔をして笑を見ていることに、少し遅れて笑は気付いたらしい。彼女は心底可笑しそうに噴き出して、クラスメイトたちに両手を合わせた。
「いや、ごめんごめん! ちょっとボーッとしちゃってた」
そうやってあんまりにも笑が面白そうに笑うものだから、彼女の周りのクラスメイトたちもつられて笑い出してしまう。
私には、なんで笑ってるのかわからなかったけど。
そんな理由もないような笑顔の輪は、みんなが少し笑い疲れたことで一段落ついたらしい。笑なんて笑いすぎて、目元に涙が浮かぶほど。彼女はその涙を拭いながら、顔を上げてみんなの方へと向き直った。
「で、何の話だっけ?」
笑のとぼけたその様子が切っ掛けになって、笑いの浅くなっていたクラスメイトたちはまた大きく笑い始める。その内の、なんとか話せるだけの息を調えたひとりが笑の背中をばんばん叩いて、笑いながら答える。
「だから、ーーーーの話だってば」
なんの話題か、私は聞き取れなかったけど。
はいはい聞いてた聞いてた。だなんて適当な軽い調子で笑が答えるものだから、いつだって彼女の周りは楽しげで。その和気藹々とした様子が気になって、教室でそれぞれ別のグループを作っていたクラスメイトたちもが何事かと集まってくる。
きっとやりとりの内容なんてどうでも良くて、会話の内容なんて本当に他愛のないことばかり。それでも彼女たちにとっては、楽しい気持ちを共有出来ればそれでいいのだろう。そうして気付けば笑の周りには大きなクラスメイトたちの輪が出来ていて、わいわいと賑やかに盛り上がる。
そんな光景を、もう飽きるほど見た。
あちらこちらを忙しなく飛び回る会話に手慣れた様子で返事や相槌を打って、そんな際限のなさそうなやりとりを彼女は飽きもせず繰り返している。
私はふと窓を見た。窓ガラスに映るのは、目前に広がるのと同じ賑やかな休み時間の教室の様子で。
ただ、ひとつだけ。
仁藤笑の席と、そのひとつ後ろの私の席と。たかがそれだけの距離しかないのに、そこにはみんなと、ひとりぼっちくらいの違いがある。
もしも私が彼女だったら、目の前の楽しげな輪の中に入れるのだろうか。クラスメイトと他愛のない会話をして、なんだかわからないけど楽しくって、私とクラスメイトたちとがお互いのことを友達だと思える。もしかしたらそんな光景がどこかにあったとしたら、なんてことをついつい考えてしまう。
目の前の楽しそうなクラスメイトたちの姿が見えないように、私は下を向いた。
視線の先には一冊のノート。もしも私がもっと美人で、もっと人望があって、たとえば仁藤笑みたいな存在だったら。きっとあり得ないそんな妄想を、青い装丁のそのノートに書き出していく。
どうせ、なれもしないくせに。
だから仁藤笑の姿は、私にとって羞恥そのものだった。
どうして、私は仁藤笑じゃないんだろう。
彼女の後ろの席でその姿を見つめながら、私はペンを止めた。教室の中心、クラスの中心に仁藤笑が座っている。けどその光景は、机の上のノートに描かれた少女の姿とは掛け離れている。
目の前でクラスメイトたちと笑い合う仁藤笑の姿を、私は静かに眺めていた。
彼女はまるで少女漫画か、おとぎ話の主人公だ。誰もに愛されて、自分の存在に何を躊躇うこともない。だなんて言い方をすれば仰々しいけど、多くの人と当たり前に良好な関係を築くことなんて、私には出来ないから。
「ねぇ、何書いてるの?」
だから彼女に直接問い掛けられて、私がその時に感じた思いは、不安どころか、もはや怯えに近い感覚。端からは朗らかな様子でなんとなく話し掛けられただけに見えるだろうけど、その実態のなんと切羽詰まったことか。
それは、いつも通りのざわついた中休みのことだ。
能天気そうな調子の仁藤笑は、私が机に広げていたノートを覗き込む。
慌ててそれを隠そうとした私の手からはペンが転がり落ちてしまって、思わずあっと声が漏れた。
咄嗟に手を伸ばしたところで届くはずもなくて、いわば文字通り手遅れ。落ちて行くそれを追い掛けようと立ち上がった身体が机にぶつかったせいで、がたんと大きな音を鳴らした。
教室がしんと静まり返る。雨音のように賑わいでいたクラスメイトたちは自分たちが何を話していたのかすら忘れて、その全員が中途半端な姿勢で固まる私へと視線を向けていた。
だけど笑はいち早く、ペンが床に落ちる前にそれを受け止めて、「はい」と私へ手渡した。
そんなやりとりを見ていたクラスメイトたちはそれで納得したのか、言い方を変えれば私への興味を失くして、みんなそれぞれの関心事に戻っていく。だから無意識に呼吸を忘れていた私は、水面に顔を出したように塊ほどの息を吸い込んだ。
ごめんごめん、驚かせちゃった。なんて気遣いの言葉を軽く明るい笑顔で私へと掛けた彼女が何を考えているのか、私にはまるで解らないでいる。
ペンを受け取って私は、視線も合わせられないまま小さく頭を下げた。中身を見られないようにノートを両手で庇うのに精一杯だったから。
それでも最初にちらりとでも見えてしまったのだろうか、彼女は私の目を見て口を開いた。
「それって、小説?」
小説の"つ"のタイミングで小首を傾げてみせるような、そんな仕草を彼女は好んで使う。コミカルなそうした振る舞いの影響だろうか。クラスメイトたちもそれを引用することが多くて、クラスの雰囲気は自然と明るく保たれているような気がした。
私のノートに書かれているのは、ふたりの少女。ひとりは仁藤笑の振る舞いを真似しながらも、きっと上手くはいかない私自身の投影。そしてもうひとりは、そんな彼女の姿を俯瞰するもうひとりの私。そのどっちも、名前こそ違うけど。
いつも自分を見ているひとりのクラスメイトがこんなものを描いているんだと知ったら、彼女は何を思うのだろう。
ノートをぱたんと閉じて、私は机の中へと仕舞い込む。だって、ずっと隠しているのもなんだか不自然だから。
じゃあ、そんな見せられないようなものについて訊かれて、なんて答えればいいのだろう。だから気まずくなって、落ち着かない両手を擦り合わせる。
結局私は、俯いたまま押し黙ることしか出来なくて、不安が募る。喉奥からは、う、と情けなくて苦しそうな呻き声が漏れた。
彼女は口許に手を当てて、視線を斜め上へ。そうしてほんの少しだけ考え込んでから、閃いたというように人差し指を立てた。
「もしかして、あんまり自信ない?」
えっ、と。私がその言葉に反応するよりも先に彼女は私の机に手を入れて、するっとノートを抜き取った。さも当たり前のように行われたその行為に呆気に取られている横で、彼女はぱらぱらとそれをめくっていく。
「そんなの、読んでみなきゃわからなくない?」
持ち主の意図を蚊帳の外に、私のノートは読まれ続けている。今すぐにでもそのノートを閉じて私に返して欲しいけれど、そんなこと面と向かって言えるはずもない。
口を開こうとしてはやっぱり閉口したり、組んでいた指を落ち着きなく組み直してみたり。時折漏れ聞こえる不慣れで掠れた小さな呻き声が、そんな試行のせめてもの痕跡。だから聞き間違いを疑うようなか細い声ですら、それと比べれば上々なくらい。
でも結局は黙って彼女がノートから関心をなくすまで待つ他なくて、私は両手は膝の上。たとえば叱られている時にそうするように、ただ俯いて時間が過ぎるのを待つしかなかった。
「あのさ、ひとつ訊きたいんだけど」
彼女は私の机の上にノートを広げる。開かれたページに書かれているのは、惨めな作り物の羽根と天使の輪とを恨めしく睨む少女の姿。そして、その姿を痛々しく思うもうひとりの少女。そのどっちもが、紛れもなく私の胸の内にあるもので。
「なんでこんな、生き辛そうな感じなの?」
それは、きっと笑には永遠にわからないんだろうなと、そう思った。
次回更新は本日22時です。




