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◍ 蚕崕 大天屏峪の巫女

 

 世界には〝嵎夷ぐうい〟という場所がある。太陽神が生まれるところ。

 極東にあるその一つには、巨大な桑に似た木が生えている。ゆえに、この世界地盤を東扶桑ひがしふそうざんと言う。

 木は扶桑巉のいたるところから発根しており、咲き枝垂れる花は、今や羽蟲はねむしの楽園を築き上げているほどだが、元はここに植え付けられた、たった一株の接ぎ木であった。

 台木の名は〝夜覇王樹セレイアス〟――、東南では〝馨玥天樹きょうげつてんじゅ〟と言い伝えられている。原初の世界から続いた神代を象徴し、その崩壊とともに倒れた元祖世界樹だ。

 これを素に育った木は、世界再構築後の四大世界を大陸として繋ぎ止めている現・四大世界樹で、霊木の最高位に当たる。





―― * * * ―――




蚕姫さんひめさま…っ!」


 へぇへぇ言いながら顔を上げて声を張った。

 巨大な滝をする渓谷にやってきた。白鷺しらさぎときが飛び交い、憩う崖の先端に巫女の後ろ姿がある。


 あともう少しで彼女のもとにたどり着くのだが、肺が痛い。足も鉛のように重い。運動不足でない人間でも、この急な岨道そばみちを駆け上がるのは、一息では無理……。



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奉里まつり――?」


 蚕姫は振り返って、まだ米粒のようにしか見えない姿にそう見当を付けるが、彼女にしては随分とへたばっているなと訝しむ。しかし、こんな秘境めいた山奥まで案内なしに訪ねてこれるのは、古くから世話人をよこしてくれてきた八曽木里の健脚者だけ。女とあらば、体力が自慢の彼女しかいないだろう。


 奉里は父親が武術の達人で、読み書きそろばんだけでなく、熊をも投げ飛ばす護身術を身に着けている。〝例の花人〟と暮らしてきたため、霊草にも詳しい。


 蚕姫は一種の貢ぎ物――いや、口止め料と解釈して奉里を介し、彼からもたらされるその手の貴重な知識を培っている。

 龍神信仰国とは相容れないはずの歴史をたどってきた東扶桑ひがしふそう側に、〝龍と関係の深い自分が潜んでいること〟をくれぐれも口外してくれるなよ、という脅し、兼、監視。そんな役割を与えられてきたなどと……、単に世話好きな善人の典型である奉里は知る由もない。



「大変、大変…!」


「どうしたのじゃ、そんなに慌てて」


 一大事であることは察するが、奉里が騒がしいのはいつものことだ。

 蚕姫はふっくらした朱唇で、笑いを噴いた。

 この土地には廃棄物が溜まらない。絶え間なく、満遍なく白糸のような水を放出し続ける大天屏峪の断崖から、日に何度こうして、下処理をした桑の葉の屑を捨てることか。

 蚕姫もそう暇ではなく、手籠が空になったのを確認し、次の仕事に向かいながらからかう。


「いよいよ皐月の鬼嫁になるか? よかったのぉ、養蚕や機織りの仕方まで覚えておいて。この蚕姫直伝の技術は、産業発展を担っているうてなの十二壺宮でも高く買ってもらえるはず」


「じゅうにこきゅう……?」


うてなの神官であり史官であり、普段は商売人でもある常葉臣ときわおみの学寮のようなところさ。妓楼めいた面もあるから歌舞はもちろんだが、書画や武術、料理まで、一流の腕前を誇る者たちが集っている。趣味と実益を兼ねてなぁ」


「へぇー……」


 てッ。今はそんなことどうでもいい。鬼嫁にもならないッ。奉里は頭を掻きむしりながら付いてくる。


「大至急ッ! 南壽星巉みなみじゅせいざんに越境する方法を教えてくださいっ!」


「これまたとっぴょうしもないことを。この蚕姫は、東と北を結ぶ裏渡師うらわたしじゃぞ――?」


 蚕姫は滝のそばにある懸崖造りの奥堂に暮らしている。朱塗りの柱を複数立てて床を支え、鉄の握り輪が付いた観音扉などを建具に使用しているため、こじんまりしていても、見た目は格の高い社殿だ。

 巨大な木の根を掻い潜るように透き廊【吹きさらしの廊下】が設けられおり、ここで摘んだ扶桑樹の葉を下処理して、飼屋かいやの蚕に与えている。

 野蚕という貴重な天然物の蚕もいて、蚕姫がこれらを守りながら作り出しているのは、ただの繭・糸ではないのだった。〝玉繭たままゆ〟という――。



「今朝、花人の大國だいごくさんが来て! 皐月にお兄さんがいることが分かって…っ、あと、南壽星巉の世界樹の天壇按主(アヌス)を肩代わりしてるとかなんとかっ、とんでもないこと聞かされてッ!」


 知らなかったのか。任されている木は違えど、同じ天壇按主の蚕姫は知っていたので驚かない。

 奉里が南への越境方法を聞き出したいわけも理解し、せめて、自分くらいはちゃんと向き合ってやるべきだろうと息をつく。こういう時の相談役になることも、皐月は霊草知識提供の見返り勘定に含めているはずだ。



「良いか? 奉里。今から言うことは、いつもの冷やかしでも冗談でもない」


「え…?」


「花人――萼国きょうごく夜叉の王允が率いる東天花輩とうてんかはいの者との間には、この大天屏峪の蚕崖より深い、底なしのような溝があると心得よ」


「底なしの……溝?」


 透き廊は扶桑樹の枝葉に光を遮られ、昼間にも関わらず窓簾を下ろしているより薄暗く、空気がひんやりしている。

 蚕姫は途中、一定の間隔で設けられているあずまやの一つに寄り、やれやれとそこの腰掛けに座った。


「溝には漆黒下海の潮流以上に凄まじい力が渦巻いている。互いを引き離そうとする力。あるいは、巻き込んで衝突を生む力……」


 その辺の異種族同士が交わるようにはいかぬ。だが、彼らはそれこそ雨風にも喉の渇きにも耐え、流血と涙を糧に人間の側に歩み寄ってきた。


「すべては、四千年前の誓いを果たすため――」


「……神代崩壊の時、一体、何があったんですか?」


 東扶桑の国々は、巌砥いわとぎ国を中心として邪蛇ジャジャを食らう火鳥鬼神の芦八迦楼羅あしやカルラを信仰してきた。沢国であるがゆえに、そもそも農耕ができる乾いた平地が少ない。

 その上、巣食ってきた悪龍による水害に悩まされ、治水のために狩りを要してきた。基本、龍を魔物と捉える文化圏であるのも当然と言える。


 ちなみに、いつから悪龍が棲みついていたのかは不明。建国神話にさえも、退治される存在として描かれているだけ。ただ、想像がつかないわけではない。神代崩壊の折、かの龍王が天地の境から解き放った種族であることに違いはないのだから。

 そこで前時代に終止符が打たれ、新時代の幕が開け、火種が生じた。新たな世界で、雲上雲下、善神悪神入り乱れての宿地を巡る壮絶な勢力圏争い――千年大戦が起こった。



「龍をにくむ国も、龍をでる国も、その歴史の源流は同じ。ただ、時とともに個々の性質が変化しただけのこと。些細な出来事を機に真逆となった者もいれば、何が起こっても変わらずに在り続けようという者もいる……」


 蚕姫こと、紈女ワンニュは、首から下げている翡翠の勾玉をすくい取って、遠い目をした。

 〝蚕姫〟というのはかつて担っていた務め上の愛称だ。盤臺峰ばんだいほうにいた頃は、雲上鬼神らの衣を仕立てていた。

 神代崩壊と千年大戦は様々なものを奪ったが、天地の混沌から、それ以上の新たなものを仕立て上げた。しかし、現世界はどう紡いでもっても、一本には交わらない部分を残す。交錯する糸が成している、いびつな布地のようでもあるのだ。


「私の夫婦蚕めおとがいこが紡ぐ玉繭の糸でも、東南の裏渡師が駆使する渡り鳥でも、そなたが大事にしているなぎの葉の護符でも」


 結びきれない縁――つまり、千切れるということは有り得る。花人と添い遂げるのは、実際のところ容易ではない。


「腐れ縁などという悪縁の類なら、執拗に絡まるがな――?」


 白い首をすくめて、蚕姫は少しおどけて見せた。

 


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