エピローグ
二話同時投稿しています。
扉を開けると、生暖かい風が頬を撫でた。
遠くの森の輪郭がかろうじて見えるくらいの夜更け、人々が寝支度を始める頃、屋敷から漏れるオイルランプの灯りを頼りに、彼女は歩く。肩に乗せた薄手のショールが落ちないように掛け直した。
昼間に見た満開のアジサイやバラが、今は香りだけで存在を主張している。
歩き慣れた庭園は夜空の下であろうと、彼女を迷わせることはない。
屋敷の壁に沿ったあとは、イチイの生け垣を越える。そこには白い木製のベンチがある。
探し人を見つけた彼女は、口を綻ばせた。
「やっぱりここにいたのですね」
ベンチにはアッシュブロンドの青年が座っていた。
「アメリア、探したのか」
「はい。お義母様と話し込んでしまって、急いで部屋に戻ったらいないのですもの」
「それは一人にされた私が拗ねているみたいだな」
苦笑して立ち上がろうとする彼の隣に彼女は座って、チラリと見上げる。まだここにいたいという無言の主張を、彼は笑顔で受け入れた。この時間の二人だけの庭園の語らいが、彼女だけではなく彼も好きだった。
「デーヴィットから手紙が届きました。休みに入ったらすぐに帰って来るそうですよ」
「そうか。もうそんな時期なんだな」
「ええ、あの子がパブリックスクールへ行って、もうすぐ一年です」
「最近ようやく君は心配そうな顔をしなくなったな」
弟が遠く離れた寄宿学校へ行った当初は、彼女はよく落ち着かなげな態度を見せていた。
「ダフネが近くの別邸のハウスキーパーになってくれましたもの。あの子もダフネが近くにいれば、安心するはずです」
「そうか。でも早く帰って来るといいな」
「はい」
束の間、沈黙が下りた。
すると彼女はふいに花壇の茂みをじっと見つめる。
「どうしたんだ?」
「デーヴィットが遠くへ行ったのも寂しいですけど、もうここで、カエルのエディさんに会えなくなってしまったことも、やっぱり寂しいと思ったんです」
待っていればしゃべるアマガエルが、その茂みから出てくるのではないかと期待しているような様子に、彼はとても複雑そうな顔をした。
「あのカエルも、どちらも私なのだけどね」
「知っていますよ」
彼の声に苦いものが含まれていたからか、彼女はおかしそうにふふっと笑った。
「このハリソン・ハウスに来たばかりの頃に、クビになるんじゃないかと不安で眠れなくなっていたわたしを宥めてくれたのも、眠たくなるまでおしゃべりに付き合ってくれと言って、何度も会う機会を作ってくれたのも、仕事仲間と仲良くなる方法を教えてくれたのも、デーヴィットのことで思い悩んでいたわたしの心を軽くしてくれたのも、父からわたしとデーヴィットを自由にしてくれたのも、こんなわたしを特別に想ってくれて、奥さんにしてくれたのも、全部あなたです。……ちゃんと、知っています」
愛しい人の顔を見つめて、その一つ一つにどれだけ救われたか、嬉しかったか伝わるように、彼女は幸せに満ちた笑顔で言葉を紡ぐ。
彼女の夫は何も言わなかった。
片手で顔を隠して、心に大きな打撃を負ったかのように俯く。
「あなた?」
そんな反応をされるとは思わなかった彼女は、どうしたのかと呼び掛ける。
「……どうして君は、こんなに何度も堪らない気持ちにさせてくれるんだ」
助けられたのは自分のほうだと彼は思う。
この場所で、とてつもなく奇妙な存在であるはずの彼を、すんなりと受け入れてくれて、その姿のまま近くにいることを求めてくれて、それがどれだけ嬉しかったか。
小さく惨めな姿で彼女を待っていた間の不安を一蹴する笑顔をくれて、ないと思っていた心の隙間を埋めてくれた。
それは彼がまだいろんな現実を知る前に思い描いていた理想の女性などではなく、悩み打ち拉がれながらも、大切なものを守るために、前に進もうと生きている女性だった。
初めて想いを打ち明け、打ち明けてくれた時から、ずっと変わらず奇跡そのものだと思っている。
この夜の庭園で、これから何度もまた同じ想いを抱くのだろう。
冷たい風が吹いて、雲が月を覆う。
「アメリア、そろそろ部屋へ戻ろう」
「はい、エディさん」
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