共通プロローグ:十二年目の心変わり
子供が欲しいと思うようになったのは、四十二歳になってからだった。
きっかけは、大学時代の友人たちとの飲み会だ。
年に一度か二度、都合のつく者だけで集まる。昔は仕事や趣味の話が中心だったが、四十を過ぎたあたりから、子供の話題が増えた。
「うちの長男、もう中学生だよ」
「早いな。こっちは上が高校受験だ」
「受験か。大変だな」
「金がかかって仕方ないよ」
そう言いながら、友人たちは楽しそうだった。
スマートフォンを取り出して、子供の写真を見せ合う。
部活動の大会だとか、家族旅行だとか、話題は尽きない。俺にも写真を見せてくれる。小さかった頃を知っている子供が、いつの間にか親と同じくらいの背丈になっている。
「お前のところは、相変わらず夫婦二人?」
「ああ」
「いいよなあ。自由に金が使えて」
友人はそう言って笑った。俺も笑い返した。
実際、俺たち夫婦は経済的に余裕があった。
俺の年収は六百万円ほど。妻の美咲は管理職で、俺より稼いでいる。
住宅ローンの負担も大きくないし、子供の教育費もかからない。年に何度か旅行に出かけ、外食もそれなりに楽しんでいる。
不満など、ないはずだった。
それなのに、友人たちが子供の話をするたび、俺だけが会話の外にいるような気がした。
大学を卒業して二十年。
みんな父親になっていた。俺だけが、あの頃と変わらないままなのではないか。
そんなことを考えるようになった。
■■■
美咲と結婚したのは、十二年前のことだ。
俺が三十歳、美咲が二十九歳だった。
当時、美咲は子供を欲しがっていた。
結婚して二、三年したら一人目を産んで、できれば二人欲しい。そんな話をされたこともある。
だが、俺は子供が欲しくなかった。
自分の時間がなくなるのが嫌だったし、金もかかる。せっかく結婚するのだから、夫婦二人で自由に暮らしたかった。
その考えを、美咲には結婚前に伝えていた。
美咲はずいぶん悩んでいたが、最後には俺との結婚を選んでくれた。
だから、俺たちは子供を作らなかった。
結婚生活は順調だったと思う。共働きで、家事も分担していた。お互いに仕事が忙しいときは外食で済ませることもあったし、休日には一緒に出かけた。
美咲は仕事熱心だった。
結婚した頃はまだ一般社員だったが、何度か昇進して、今では部下を持つ管理職になっている。
責任のある仕事を任されるようになり、帰宅が遅くなることも増えた。
俺はそんな美咲を誇らしく思っていた。
仕事のできる妻がいて、経済的にも安定している。
俺たちはうまくやっている。少なくとも、そう思っていた。
■■■
「なあ、美咲」
話を切り出したのは、日曜日の夕食後だった。
美咲は食器を片づけ、ダイニングテーブルで翌週の予定を確認していた。
「何?」
「俺たちも、そろそろ子供のことを考えないか?」
美咲の手が止まった。
顔を上げた妻は、しばらく俺を見つめていた。
「子供って?」
「だから、俺たちの子供だよ」
「……あなた、子供はいらないって言ってたでしょう?」
「そうだけどさ。考えが変わったんだ」
美咲は手帳を閉じた。
「どうして?」
「最近、友達と会うと、みんな子供の話ばかりするんだよ。中学生だとか、高校受験だとか。俺たちだけ、そういう話がないだろ?」
「それで?」
「いや、なんていうか……俺も父親になりたいと思うようになったんだ」
口に出してみると、自分でも意外なほどしっくりきた。
子供がいれば、休日の過ごし方も変わるだろう。家族で出かけたり、運動会を見に行ったり、成長を楽しみにしたり。
そういう人生も悪くない。むしろ、今からでも経験してみたい。
「美咲も、昔は子供が欲しいって言ってただろ?」
「言ってたわね」
「だったら、ちょうどいいじゃないか」
美咲は答えなかった。その沈黙が、俺には少し意外だった。
「……今さら?」
やがて、美咲が言った。
「え?」
「今さら、子供が欲しいの?」
「今さらって、まだ四十二だぞ」
「あなたはね」
美咲は静かに言った。
「私は四十一歳よ」
「知ってるよ」
「知ってるなら、もう少し考えてから言ってほしかったわ」
責めるような口調ではなかった。それがかえって、俺を落ち着かなくさせた。
「四十代で産んでる人だっているだろ?」
「いるわよ」
「だったら」
「でも、私が妊娠できるとは限らないでしょう。すぐに授かったとしても、出産する頃には四十二歳よ」
「それは、そうだけど」
「妊娠中に何かあったら? 出産後、仕事に戻れるまでどのくらいかかる? 子供が熱を出したら、どちらが休むの?」
「そのへんは、二人で協力すればいいじゃないか」
美咲は、俺の顔をじっと見た。
「あなた、育児休業は取れるの?」
「取れると思うけど」
「どのくらい?」
「それは会社に聞いてみないと」
「保育園は?」
「まだ子供もできてないのに、そんな先のことまで……」
「先のこと?」
美咲は眉を上げた。
「子供を作る前に考えることでしょう?」
俺は返事に詰まった。
もちろん、何も考えていなかったわけではない。
共働きなのだから、保育園に預ければいい。家事も育児も協力するつもりだった。
だが、具体的に何をどうするのかと聞かれると、すぐには答えられなかった。
「美咲は仕事を続けたいんだろ? だったら、できるだけ協力するよ」
「できるだけ、ね」
「なんだよ。俺だって父親になるんだから、ちゃんとやるつもりだよ」
「そう」
美咲はそれ以上追及しなかった。ただ、どこか疲れたように息を吐いた。
「私は、もう子供はいらないわ」
思いがけない言葉だった。
「……昔は欲しいって言ってただろ?」
「昔はね」
「なんで?」
「十二年前に、子供を持たない人生を選んだからよ」
美咲は閉じた手帳に指を置いた。
「あなたと結婚するために、私は子供を諦めたの。その代わり、仕事を続けて、今の生活を作ってきた。もう四十一歳よ。今さら全部やり直したいとは思わない」
「全部って、大げさじゃないか?」
「大げさ?」
「子供ができたからって、仕事を辞めろなんて言ってないだろ。今までどおり働けばいいじゃないか」
美咲は小さく首を振った。
「今までどおりにはいかないわよ」
「でも、世の中には共働きで子供を育ててる夫婦なんていくらでもいるだろ」
「そうね。その人たちは、子供を育てる人生を選んだのよ」
「俺たちだって、今から選べるじゃないか」
「あなたは選びたいのね」
「ああ」
「私は選びたくないの」
きっぱりと言われて、言葉が出なかった。
美咲は怒っているようには見えなかった。ただ、俺の話を受け入れるつもりがないことだけは分かった。
■■■
それから何度か、子供のことを話し合った。
俺は美咲を説得しようとした。
貯金はある。生活にも余裕がある。子供が一人増えたところで、経済的に困ることはない。
俺も家事や育児をする。必要なら、今より仕事を調整してもいい。
けれど、美咲の答えは変わらなかった。
「あなたが子供を欲しいと思うことは、否定しないわ」
ある夜、美咲はそう言った。
「でも、私は産みたくないの」
「どうしてそこまで嫌なんだ?」
「嫌というより、望んでいないのよ」
「昔は望んでたのに?」
「十二年前の私と、今の私は違うの」
美咲は淡々と答えた。
「あなたの考えが変わったように、私の考えだって変わるわ」
その言葉には、反論できなかった。
俺は十二年前の考えを変えてもいいと思っていた。
だが、美咲が考えを変えたことは、なかなか受け入れられなかった。
自分でも、勝手な話だとは思う。それでも、諦めきれなかった。
友人たちが子供の成長を話すたびに、俺は羨ましくなった。
自分にも子供がいたら。
家族三人で暮らしていたら。
そう考える時間が、少しずつ増えていった。
■■■
「離婚しましょうか」
美咲がそう言ったのは、最初の話し合いから一か月ほど経った頃だった。
休日の午後、俺たちはリビングで向かい合っていた。
「……離婚?」
「ええ」
「そこまですることか?」
思わず声が大きくなった。
子供が欲しいと言っただけだ。
浮気をしたわけでもない。借金を作ったわけでもない。夫婦仲だって、悪くなかったはずだ。
「あなたは子供が欲しい。私は欲しくない。どちらも譲れないなら、結婚を続けるのは難しいでしょう?」
「だからって、離婚なんて」
「私に子供を産んでほしいんでしょう?」
「それは……そうだけど」
「私は産まないわ」
美咲は迷わず言った。
「あなたが父親になりたいなら、別の人と人生をやり直した方がいいと思う」
「そんな簡単に言うなよ」
「簡単じゃないわよ」
初めて、美咲の声に少しだけ苛立ちが混じった。
「私だって、十二年前は悩んだの。子供を諦めてあなたと結婚するか、それとも別の人生を選ぶか」
美咲は一度言葉を切った。
「そのとき私は、あなたを選んだのよ」
俺は黙った。
「でも、今のあなたは子供が欲しいんでしょう? それなら、あなたが選べばいい」
「……美咲は、それでいいのか?」
「私は今の生活を続けたいだけよ」
美咲はそう言って、窓の外に目を向けた。
十二年間、一緒に暮らしてきた妻だった。
休日には二人で出かけ、誕生日には食事をし、仕事で嫌なことがあれば愚痴を聞き合った。
そんな生活が、俺は好きだった。
だが、子供のいる人生も捨てがたかった。
今なら、まだ間に合うかもしれない。
俺は四十二歳だ。これから再婚して、子供を持つことだってできるはずだ。
美咲は俺の返事を急かさなかった。
ただ、静かに待っていた。
俺は考えた。
十二年間続けてきた結婚生活。
そして、まだ手に入れていない、子供のいる未来。
どちらを選ぶべきなのだろう。
少なくとも、俺はまだ、父親になることを諦められそうになかった。
■■■
その夜、大学時代の友人たちのグループに、新しい写真が投稿された。
友人の息子が、部活動の大会で入賞したらしい。
制服姿の少年が、賞状を手に笑っている。
『おめでとう!』
『もうこんなに大きくなったのか』
『次は全国大会だな』
次々に返信がついた。
俺も、お祝いの言葉を送った。
それから、しばらく写真を眺めていた。
俺にも子供がいたら、いつかこんな写真を送る日が来るのだろうか。
隣の部屋から、美咲が仕事の書類を片づける音が聞こえてきた。
いつもと変わらない、静かな夜だった。
けれど、俺たちの結婚生活は、もう以前と同じではなかった。
美咲は、俺に選べと言った。
俺はスマートフォンの画面を消し、立ち上がった。
隣の部屋では、美咲が仕事用の鞄に書類を入れていた。
「美咲、ちょっといいか」
声をかけると、美咲は手を止めた。
「何?」
「この前の話なんだけど」
それだけで、美咲には伝わったらしい。
書類を鞄に収め、こちらに向き直った。
「決めたの?」
「ああ」
俺は一度息を吸った。
「やっぱり俺は、子供が欲しい」
美咲は少しだけ目を伏せた。
「そう」
それだけ言って、頷いた。
「じゃあ、離婚の話を進めましょう」
十二年間の結婚生活は、そうして終わることになった。
俺は、これから父親になるための人生を始める。
そのときはまだ、そう信じていた。
■■■
美咲との離婚が成立したのは、子供の話を切り出してから四か月後だった。
十二年間の結婚生活を終わらせるにしては、あっけないものだったと思う。
もっとも、そこに至るまでの説明が簡単だったわけではない。
特に大変だったのは、両親への報告だ。
「離婚するって、お前たち、何があったんだ?」
実家に帰って事情を話すと、父は眉をひそめた。
「美咲さんと喧嘩でもしたの?」
母も困惑していた。
美咲は両親との仲が悪かったわけではない。年末年始には一緒に食事をし、母の日や父の日にも贈り物をしていた。
俺の両親にとっても、美咲は大切な家族だった。
「別に喧嘩したわけじゃないよ。お互いの考えが合わなくなったんだ」
「十二年も一緒にいて、今さらか?」
父の言い分はもっともだった。
俺だって、少し前までは離婚することになるとは思っていなかった。
「俺、子供が欲しくなったんだよ」
そう言うと、母が顔を上げた。
「子供?」
「ああ。美咲はもう欲しくないって言うから」
「……そうなの?」
母の声が変わった。
「お前、昔は子供なんていらないって言ってたじゃないか」
父はまだ納得していない様子だったが、母は身を乗り出した。
「でも、今は欲しいのね?」
「うん」
「そう……」
母はしばらく黙っていたが、やがて父の方を向いた。
「あなた、本人が子供を欲しいって言うなら、仕方ないんじゃない?」
「おい、さっきまで反対してただろう」
「だって、子供のことなら話は別でしょう?」
母は俺に向き直った。
「美咲さん、結婚する前は子供が欲しいって言ってたわよね?」
「そうだよ。でも、今は欲しくないって」
「そう……。四十一歳だものね」
母は何かを考えるように頷いた。
「だったら、もっと若い人を探した方がいいのかもしれないわね」
その言葉には、少し驚いた。
さっきまで離婚を止めようとしていた母が、もう次の結婚相手の話をしている。
父も呆れたように母を見ていたが、やがてため息をついた。
「まあ、お前たちが決めたことなら、俺たちが口を出しても仕方ないが……」
「そうよ。まだ四十二歳なんだから、これからだって十分間に合うわ」
母は明るい声で言った。
「いい人が見つかるといいわね」
俺は少しだけ気が楽になった。
両親に反対されると思っていたが、どうやら理解してもらえたらしい。
ただ、美咲の両親はそうはいかなかった。
娘が十二年間連れ添った夫から、今さら子供を望まれたのだ。
しかも、結婚前には俺の方が子供を拒んでいた。
義父は事情を聞くなり、厳しい顔になった。
「君は、十二年前に何と言った?」
「……子供はいらないと」
「それを承知で、美咲は君と結婚したんだな?」
「はい」
「それなのに、今度は子供が欲しいから離婚するのか」
俺は答えられなかった。義母も、隣で黙っていた。
美咲はそんな両親に、落ち着いた声で説明した。
「お父さん、お母さん。私が離婚を提案したの。彼が子供を欲しいと思うことまで、否定するつもりはないわ」
「だが、美咲」
「私はもう子供を産みたいとは思わないの。だから、別々に生きることにした。それだけよ」
義父はしばらく俺を見ていた。
何か言いたそうだったが、結局、それ以上は何も言わなかった。
帰り際、義母が美咲に声をかけた。
「何かあったら、いつでも帰ってきなさいね」
美咲は笑って頷いた。
その横で、俺は何と言えばいいのか分からなかった。
■■■
両家への説明を終えると、離婚の手続きは比較的順調に進んだ。
財産分与については、お互いの預貯金や共有財産を確認し、必要な手続きを済ませた。美咲は淡々と手続きを進めた。
俺の方が、かえって落ち着かなかった。
離婚届を提出した日、美咲はいつもと変わらない様子で言った。
「今までありがとう。元気でね」
「ああ。美咲も」
最後に何か言うべきだったのかもしれない。
だが、俺は何も思いつかなかった。
美咲は自分の車に乗り込み、そのまま帰っていった。
俺たちは、そうして別々の人生を歩き始めた。
■■■ 共通プロローグ 完 ■■■
ここから先は、二つのルートに分岐します。
ED1:婚活失敗ルート
→ そのまま第2話へお進みください。
ED2:婚活成功ルート(前編・後編)
→ 第3話へお進みください。
どちらのルートも独立した結末です。
最後の第5話「共通エピローグ」は、どちらのルートからでもお読みいただけます。




