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厚い雲が、空を覆っていた。
今にも雨が降り出しそうな空の下、繁華街のネオンがアスファルトを淡く照らしている。その喧騒を見下ろすビルの屋上で、俺は息を潜めながら周囲を警戒していた。
俺の名前は田中聡。
警視庁捜査一課に所属する二十七歳の刑事だ。
追っているのは、世間を震撼させている連続殺人事件の容疑者。
黒髪のロングヘアが印象的な、一人の美しい女。
その美貌とは裏腹に、複数人を殺害した疑いがかけられている危険人物だった。
生ぬるい風が屋上を吹き抜ける。
雨の匂いがした。
……いない。
逃げられたのか。
そう思った、そのときだった。
ガンッ。
階段の向こうから、硬い足音が響く。
誰かが勢いよく駆け上がってくる。
反射的に身構えた瞬間、その足音は屋上へ出ることなく止まり、今度は一転して階下へ駆け下り始めた。
「待て!」
俺はそう叫ぶと同時に階段へ飛び出した。
鉄骨の階段を一段飛ばしで駆け下りる。
手すりを掴み、身体を振りながら一気に距離を詰める。
踊り場で、黒い長髪がふわりと揺れた。
見つけた。
紫色のワンピースを着た女は振り返ることなく逃げ続ける。
俺はさらに速度を上げ、その細い右腕を掴んだ。
「逃がさない!」
女の身体が大きくよろめく。
抵抗する隙を与えず腕を押さえ、そのまま屋上まで連れ戻した。
俺は女の腕を背中へ回し、腰の手錠へ手を伸ばした。
「連続殺人の容疑で逮捕する――」
そう告げながら、銀色の手錠を女の手首へとかけようとした。
「やめて…私は何もやってない」
か細い声だった。
周辺の音にかき消されそうなほど小さいのに、不思議と俺の耳にははっきり届いた。
「何もやってない?嘘をつくな」
俺の言葉に女はゆっくりと顔を上げる。
汗で濡れた黒髪が頬に張り付き、瞳は、どこか悲しげだった。
「やめてくれたら……なんでも言うことを聞くわ」
囁くような声。
挑発とも懇願ともつかないその一言に、俺は思わず息をのんだ。
「なんでも……?」
自分でも信じられない言葉が口をついて出る。
女は何も答えず、ただ静かに俺を見つめ返していた。
沈黙が二人の間に流れる。
俺はしばらく女の目を見つめたあと、小さく息を吐き、手錠を腰へ戻した。
金属の音が静かな屋上に響く。
そして、女の腕から手を離した。
女は逃げようとはしなかった。
女はゆっくりと俺の正面へ向き直り、まるで最初からそうするつもりだったかのように微笑む。
その笑みは妖しく、それでいてどこか儚い。
女の黒髪は艶やかに肩へ流れ、白い肌との対比が息をのむほど美しかった。
思わず見惚れてしまう。
刑事として何人もの容疑者を追ってきた。
だが、こんな感覚は初めてだった。
危険だ。
そう頭では理解している。
それなのに、俺の視線は彼女から離れなかった。




