(8) ワンダーエッグ・クオリティ
洒落た外観の一軒家が建ち並ぶ、高級住宅街の一角だった。
広々とした清潔な通り、その脇にひっそりとたたずむ素朴なバス停はやや浮いている。
そして今、一台のバスがそこで停車した。ぷしゅ、と音を立ててバスの昇降口が開かれる。ほどなくして一人の美女が艶やかな黒髪を翻しながら、ふわりと舞い降りた。
「今日も寒いわね」
冷たい冬の風が吹く。
美女はねずみ色と群青色で編まれたマフラーに顔を埋め、けれど朗らかに微笑んだようだった。ひらりと黒のフレアスカートの裾が揺れ、長い髪が艶めく様子は昼下がりの陽光を身にまとうかのよう。実際にまとうはブルーブラックの大人っぽいガウンコート、下にはグレー色のオーバーニットと、まるで女性誌の表紙を飾るモデル顔負けの圧倒的な存在感の美女がそこに立っていた。というか安藝先輩だった。
続いてバスから降りてきたのは、冴えない顔つきの弘海と、ほかの部員たちだ。
「また来ることになるなんて……」
「あんたはなんで落ち込んでんのよ」
今日も今日とて髪の毛を青く染めてきた五百蔵さんは、到着して早々肩を落とす青年にあきれた眼差しを向けている。私服はいつものだぼっとした黒パーカー、けれど下は珍しく黒のスキニーを穿いて、素足を見せていない。さすがにこの冬に短パンは無理があったか、それでも十分寒そうな服装で、大きなカバンと黒のキャップを手に持っている。
「気をたしかに持ってください小鳥遊くん。かく言うわたしもこの高級住宅街のリッチな雰囲気に先ほどから足が竦んでいはいますが、あまり気を抜くのも危険です。庶民は狩られますよ」
「狩られんわ」
裕福な街並みにあてられてか、小動物みたく警戒して縮こまっている猪熊部長は白のボアジャケットに白のパンツと、こちらは対照的に真っ白な服装だ。桜色の花柄ベレー帽を目深にかぶってキョロキョロとあたりを見回す姿はかなり不審者じみているが……、言わないでおくのが吉だろう。
「あんたたちさ……ちょっとは安藝先輩を見習いなさいよ。こんなに堂々としてるじゃないの」
「それはそうだけどさ」
先輩は堂々としているのが平常というか、むしろデフォルトじゃないか。
ふふふ、とそんな先輩が不意に微笑む。
「田舎者だとバレては終わりなのよ」
「おい」
先輩も虚勢だった。
この部員たちの体たらくに、「はぁ」と五百蔵さんは深くため息をつく。
「これから顔合わせだってのに。無駄にビビッててもしょうがないっての」
——顔合わせ。
と五百蔵さんは言った。
それがどういう意味を持つかと言えば、もちろん初対面の人と顔を合わせるわけだ。もっと言えば、五百蔵さんの属する作家志望のグループに、部長が入るための場が、ちょうど二月に差し掛かった本日設けられるという意味である。
先日、部長の悩みのことで五百蔵さんに打診した日から、あれよあれよという間に話が進み、暦が変わったタイミングで早くも機会が訪れた。そのこと自体は、当然ながら喜ぶべきことだった。
(来てしまった。今日が)
喜べないのは、同伴者の存在だ。
具体的には我らがアニ研の年長者にして、弘海の恋人にして、あのとんでもない作品を書いた張本人、安藝先輩の存在だった。
「あら小鳥遊くん。どうかしたかしら? そんな情熱的な眼差しを向けて」
「してませんから。そんな眼差しは」
気恥ずかしげに頬に手を当てる安藝先輩に、弘海はげんなりとした表情になった。
五百蔵さんが歩き出す。
「持田さん家はこの先よ」
持田さん、と言えば五百蔵さんの属するグループのなかでも一際目立っていた記憶のある、あのミステリアスな美女。持田とわ子さんのことだ。去年弘海が出会ったときは、その清楚な印象とお嬢様然とした立ち居振る舞いから、安藝先輩に似た雰囲気を覚えたものだ。
そして、その住まいもまた先輩とおなじく豪邸だった。安藝先輩の家は詫び寂びを重んじた広いお屋敷であるのに対して、持田さんの家はリゾート地の別荘を思わせる洋館風の邸宅なので、豪華の意味合いもまた違うけれども。
「……ここに、今から入らなければならないのですか?」
持田邸のモノクロに仕上がった美しい外壁を見上げ、部長が戦々恐々と呟く。
「そんな、お化け屋敷にでも入るみたいな」
「入らなきゃいつまでも外で待機よ。この寒空の下で一人放っておかれるのが嫌なら、さっさと覚悟を決めることね」
「そのときはまいるにこのマフラーを貸しましょう」
(なんで入らない前提なんだ)
首元に巻いたマフラーを安藝先輩は活き活きと差し出そうとする。この人はこの人で変なテンションになっている気がした。「……ん?」すると、それを見た五百蔵さんがなにかに気づく。
「つーかさ……先輩のマフラー。あんたとおなじよね?」
「ああ、それは」
「朱鷺子ちゃんが編んだんですよ。恋人同士でお揃いなんて、素敵ですよね」
あらたまって「恋人」と呼ばれると、なんだか背中がむず痒くなってくる。
まだ交際して数か月ほど、初めての恋人という響きに耳が慣れないのはしょうがないとしても、どこかで「そういえば、恋人だったんだ」と弘海が我に返っていたのは、かなりなさけない事実だっただろう。安藝先輩には絶対に言えない。
「え? は?」
それはそうと。
「恋人? 恋人ってなによ?」
人知れずパニックに陥っている少女が一人、いた。
「あれ? ご存じなかったんですか? ふたりは年末から付き合ってるんですよ。……小鳥遊くん。五百蔵さんに話してなかったんですか?」
「というか、まだだれにも言ってなくて」
進んで明かすのも気恥ずかしくて、交際についてはだれにも話していなかった。当然のように部長が知っているのは、ほかならぬ安藝先輩が報告したからだろう。
「ふたりってなに? 部長と先輩が?」
「わたしたちは女の子同士ですよ。……ふふふ、珍しいですね。五百蔵さんが冗談を言うなんて」
「わたしが交際を申し出て、小鳥遊くんがかなり悩んだ末に渋々、いえ不承不承ながらオッケーを出してくれたわ」
「そんなに嫌々頷いてましたか、おれ」
たしかにかなり格好のつかない受け止め方ではあったけれども。
ショックを受ける弘海の前で、五百蔵さんもまた、違ったベクトルで衝撃を受けたようだった。みるみる間に顔から血の気が失せ、ふらふらと後ずさり、そのまま持田邸の門扉によりかかってずるずると座り込んだ。
「い、五百蔵さん! 突然どうしたんですか!」
しっかりしてください、と部長に肩を揺すられるも、五百蔵さんは意気消沈とばかりに項垂れたまま反応がない。空いたままの口からは魂が抜け出ているようにも見えた。
「きゅ、救急車とか、呼んだほうが」
「やめておきなさい」
慌てて緊急電話を試みかけると、安藝先輩にやんわり制止された。
「大丈夫よ。これは、そういうのではないでしょうから」
「そういうのって……」
先輩はいつも通り、表情をぴくりとも動かさぬまま、じっと五百藏さんを見下ろしている。わけもわからず弘海は小首を傾げた。
憂うような先輩の眼差しは、それでも決して同情ではなく、むしろ一歩引くような厳しさを帯びている気もする。感情は複雑で、迷路のように入り組んでいて、弘海には一言で言い表すことができなかった。
「みなさん。いらっしゃ~い」
家に迎い入れてくれたのは、意外にも比良坂さんだった。
比良坂将平さん。作家志望のグループの一人で、マイペースな草食動物を思わせる一つ年上の青年だ。柔らかく垂れ下がった糸目や癖っ毛のある色素の薄い茶髪、無害そうな顔立ちはカピバラっぽくもあり、反して弘海よりも頭一つ分背が高いところや、長い手足はキリンっぽくもある。親しみやすい青年だ。
「なんで比良坂さんが出迎えなんですか?」
「とわ子ちゃん、動くのメンドいんだってさぁ。だから代わりに行ってこいって」
「ナチュラルに使われてる……」
自己紹介も早々にリビングへと通される。道中、「絵に描いたような糸目の人です……!」と部長がひそかに衝撃を受けていた。ひどくわかる。弘海も初対面はまったくおなじことで驚愕したものだ。
以前会ったグループのメンバーたちは、すでにほぼ全員が集まっていた。
家主である持田とわ子さんはリビングのソファーに、なぜか白いアイマスクで両目を隠して座っていた。暖房の利いた部屋にいるからか、ストライプ柄の黒パンツに袖のあたりがボリュームのある濃い青色のトップスと、ややカジュアルな服装に身を包んでいる。
そして比良坂さんが戻ってくるや「将平。早くー」と彼を呼びつける。「は~い」比良坂さんはそそくさと駆け寄り、さっきまでもそうしていたのか、持田さんの両肩を揉み始めた。
「……使用人、かしら?」
「むしろ召使いですね」
それでいいのか、比良坂さん。
「あらー? この声はフツメンくんねー?」
おひさー、と座ったまま手を振る持田さん。
「数か月ぶりかしらー? 相変わらず見事なフツメンねー」
「見えてないのに勝手なこと言わないでください……」
「見てなくてもわかるもーん。わたしのイケメンセンサーが全然反応してないし」
この人はこの人で相変わらずだった。弘海は肩をすくめる。
持田さんのことを話すとき、五百蔵さんはしばしば彼女を「性悪女」と言い表す。そのことに関して賛成したことこそ弘海は一度もなかったけれど……少し、いやかなり思想が捩じ曲がった人であるという理解は初対面のときからしていた。
「……で。なにやってるんですか?」
「ホットアイマスクよー。ずっとPCとにらめっこしてると目が疲れちゃってねー。肩は凝ってないけど。ちょっと休憩ちゅー」
「じゃあ肩揉みは要らないんじゃ」
「男を顎で使うのがリフレッシュなのよー」
最悪だ。いろいろと。
そこへ先輩たちが挨拶を始める。
「このままで申し訳ないけれど、とりあえず自己紹介はさせてもらうわね。……お邪魔させていただきます。安藝朱鷺子です」
「い、猪熊まいると言います。こ、この度はよろしくお願いします」
「はーい。持田とわ子でーす。お二人のことは五百蔵ちゃんから聞いてるわよー。同い年なんだから、気軽に持田様って呼びなさいねー」
「き、気軽、ですか?」
のっけから上下関係を植え付けようとしていた。いや持田さんの場合、主従関係のほうかもしれないが。「ジョークがお好きなのね」と安藝先輩が微笑むけれど、そんな軽快な冗談じゃないのは明らかだった。
ほかのメンバー、夏休みにも部活で会った毛利光成くん、五百蔵さんの友達でイギリス人のエヴェリン(愛称はイヴ)のふたりもすでに到着していた。
縁なし眼鏡の毛利くんは一足先にテーブルについており、先輩たちが挨拶すると「……毛利です。どうも」とだけ返す。そのとなりでパソコンを興味深そうに覗いていたイヴは、ふたりに溌溂とした笑顔を向けて自己紹介を始めた。新しい顔ぶれに心を躍らせているようだ。
「ちなみに畑くんは彼女とのデートで遅れてくるわー」
「今日は土曜日だから朋絵さんかなぁ?」
しばらくしてホットアイマスクが冷めたらしい、ようやく素顔を露わにした持田さんは「捨てといてー」と比良坂さんにアイマスクの処分を命令する。比良坂さんはまったく物言わず従っていた。むしろ使われるのが板についている。絶対にああはならないでおこう、と弘海は固く決意した。
持田さんは小さな欠伸を一つすると、なんの気なしに弘海たちを見上げる。
「……あら?」
そして目を見開く。
ぱちぱち、と驚きを表すように瞬きが繰り返される。
「あなたー、ええと……安藝朱鷺子さん? って言ったっけ?」
「ええ」
やおらソファーから立ち上がる。
ひらりと水色のスカートを揺らして、持田さんはなにをするのかと思えば、安藝先輩に鼻先まで近づく勢いでその容貌を無遠慮に凝視した。じっと、注意深く。次いで、月の公転のごとく先輩の周りをじろじろ……と一周、最後にニットに包まれた豊かな胸を値踏みするように数秒観察して、一言。
「マズイわねー」
「なにか、いけなかったかしら?」
「んー。かなりいけないかもねー。まさに直球ど真ん中って感じ。ねぇ朱鷺子ちゃん。今お付き合いしてる人っているの?」
出し抜けな問いもなんのその、先輩は「いるわよ」と即答。
「あちゃー。こりゃ戦争ね」
安藝先輩ほか、猪熊部長も弘海も、持田さんがなにを言っているのかわからず、ただただ困惑していた。唯一後ろに控える比良坂さんは「なるほどたしかに」と理解した様子で頷いている。
「まー、どうでもいっか。わたし無関係だし。知―らない」
持田さんはやがて投げやりに言って顔を逸らすと、今度はだれかを探すように周りをきょろきょろと見回す。そして壁際で三角座りしている五百藏さんを見つけると「あ、いた」と呟いた。
「全然喋んないからいないのかと思っちゃったよー。五百蔵ちゃん」
「……」
「あれれー? どうしちゃったのー?」
五百蔵さんは黙って両膝の間に顔を埋めている。「ずっとこの調子なんです。なぜか意気消沈としていまして」部長が説明するや、持田さんの顔が華やいだ。
「えー? めずらしー! 将平、ちょっとスマホー」
メスを受け取る執刀医のごとき素早さでスマホを受け取り、
「大丈夫? 五百蔵ちゃん? 安心していいよ? 今日は気が済むまで、ここにいてくれればいいんだからねー?」
(動画撮りながら言っても説得力ないだろ……)
嬉々としてカメラを向ける持田さんだった。




