(9) ワンダーエッグ・クオリティ(二)
というわけで代表者不在のまま、集まりは次の段階に移った。
「じゃー、ちゃっちゃと読んでこっかー」
「まいるちゃんの作品、楽しみだなぁ」
「右に同じく」
大きなダイニングテーブルには五百蔵さん以外の全員がついている。以前とおなじく、テラスのほうで持田家の愛犬、ニューファンドランドのベニーちゃんと遊んでいるイヴちゃんだけは唯一の例外だったけれど、持田さんたちがなにも言わないので、弘海たちもなんとなく触れないでいた。
さて、各々の前には印刷された分厚い用紙の束が並べられていた。持田さんはデータを受け取ったらしくパソコンを開いている。どれもおなじ、猪熊部長の作品だ。
「この文量なら十分もかからないかしらー?」
「とわ子ちゃんはいいよねぇ。僕速読は全然できないから羨ましいよ」
「右に同じく」
顔合わせ、と言いはしたけれど、わざわざ休日に機会を設け、またそれなりの距離を歩いてきて、単なる顔合わせだけで終わるわけもなく。まして相対するは作家の卵たちであるからして、自己紹介にはそれ相応のやり方がある。
アニ研としても慣れたこと。合評会だ。
各自、じぶんのペースで作品を読み出す。その間、部長はかなり表情を強張らせながらそれを見守っていた。弘海もあらためて部長の作品を読んでいく。
部長の作品はもちろんライトノベルのジャンルに準じた軽快なコメディだ。タイトルは『御香様の言ふとおり』。その内容は他人の気持ちに疎い鈍感な主人公、中橋裕太と、彼に歪んだ愛を向ける幼馴染の美女、九重御香の織り成す、まさしく王道をゆくラブコメだった。
「うん」
およそ十分後、読み終わったらしい持田さんが頷く。
「清々しいほど下品なラブコメねー」
清々しいほどの作り笑いだった。
「わかってくれますか! 持田さん!」
「どうして喜んでるの? この人ー」
「すみません。部長は下ネタに情熱を捧げている、少し変わった人なので」
「変態です。よろしくお願いします」
活き活きと頭を下げられ、持田さんは「やばー」と笑顔の奥で引いていた。
「小鳥遊くんのご紹介もあり、現在は母親の三鷹嵐子先生にご教授いただき、日夜下ネタを磨いているところです」
(頼むから創作を教えてもらってくれよ)
「へぇ。三鷹先生のお弟子さんなんだねぇ。どおりで質が高いと思ったよ。一見勢いばかりのギャグコメディに見えて、文章はかなり読みやすいように配慮されてるしさぁ。まだ読み切ってないけど」
比良坂さんが感想を述べると、毛利くんが同意するように小さく頷く。
「ことあるごとに彼の貞操を付け狙うヒロインと彼女の愛情につけこんで他力本願に振る舞う怠惰な主人公のふたりは、一見して歪な依存関係ですが、そこをあえて軽妙に描くことでうまくコメディの枠に閉じ込めているように見えます。所感ですが」
「光成くんがここまで語るなんて珍しいね~」
「ありがとうございます……!」
ふたりから賞賛の言葉を受け、猪熊部長は表情をほころばせた。
それに比べて、持田さんは「んー」と困ったように頬に手を当てる。
「関心がないせいでしょーけど、この手のギャグってピンとこないのよねー。ちょっとテンションが高すぎて気後れしちゃうし、むしろ読みづらく感じちゃうってゆーか」
「ああ、それわかります」
弘海は、その言葉の続きを引き受けるように。
「とくにアニメとかだと顕著になりますよね。小説はまだ目で読むだけですけど、アニメはほら、声優さんの声がつくしBGMもつくから。ちょっと間違うと、かなりくどく聞こえるときがあるっていうか」
「耳で小説を読む人は、ちょっと辛く感じるところはあるかもねぇ」
耳で読むというのは、本の文字をじぶんのなかで音にして読んでいる読者のことを言っているのだろう。もしかすると、持田さんはそういうきらいがあるのかもしれない。
部長が「ふむ」とメガネのレンズを指で上げる。
「文章を一度音に出してみると、さらに新しい発見があるかもしれない、ということですか」
「じぶんとしては、キャラクターがかなり魅力的に感じるので、そこをさらに伸ばしてくれると嬉しいかな、とも」
「……ありがとうございます。勉強になります」
「わたしは単純に下ネタが苦手なんだけどねー」
笑いのセンスこそ千差万別で、好き嫌いが大きいところだろう。以前合評会をしたときは、五百蔵さんもそこに難色を示していた気がする。まあこればかりは好みの問題だから、なんとも言えないけれども。
「下ネタが苦手なのに、どうやって人付き合いをしているんですか?」
「なにその質問。怖いんですけどー」
「そこまで初心な方とも思えませんが。なんとなくドSっぽいですし」
「なんの話なの?」
じっ、と部長は持田さんの顔を見つめる。そして「つかぬことをお聞きしますが……」と切り出して、
「まさか持田さん。処女ですか?」
「は、はー⁉」
「この反応……やはり図星ですか。男を手玉に取るような手腕は見事ではありますが、やはり人は見た目に寄らないといいますか。いえ。これもギャップ萌えということでしょうね。うん。かわいいです。持田さん」
「なーに納得してんの! 違うし! そんなわけないしー!」
毎晩ヤリまくりだし! と投げやりに持田さんが叫ぶ。どこか負け惜しみっぽく聞こえるのは気のせいだろう。たぶん。おそらく。
「べつに恥じることではありません。わたしも朱鷺子ちゃんも処女ですし」
「あなたはもっと恥を知ったほうがいいわ。まいる」
安藝先輩がにこりと微笑む。
あれはたぶん、というか絶対怒っていた。そりゃそうだ。
「ま~、うん。猪熊ちゃんがどんな子かなのかは、すごくわかったよ」
「み、右に同じく」
男子陣も顔を赤らめている。なんて気まずい。そんななかで部長だけはわけもわからず真顔で小首を傾げている。
部長って、ほんとうに凄い人なんだ。弘海は痛感した。
そして一度休憩を挟んだのち、
「さてー。時間あるし安藝ちゃんのもやっちゃおっかー」
進行役の持田さんがそう言った。
——来た。
いや。この場合は来てしまった。と言ったほうがいいだろうか。
弘海は唇を引き結ぶと、額を流れる冷や汗を手の甲で拭った。
「これはまた、ずいぶんなボリュームだねぇ」
「凄いです」
比良坂さん、毛利くんの目の前にそれぞれ積まれた用紙の束。実に二百枚に迫る枚数の分厚いそれは、言うまでもなく安藝先輩の作品である。
そう。先輩の処女作にして、超大作にして、かなりの問題作でもあるそれが今、テーブルには並べられていたのである。
「この量は骨が折れそーねー」
「はい。ですからとりあえず第一章まで読んだ段階で、みなさんに感想をいただければと思います。朱鷺子ちゃんも、それでいいですよね?」
「ええ。構わないわ」
(おれは構うよ……)
部長とは違い、安藝先輩にかぎっては体験入部、というよりほぼ見学のような立ち位置のため、その作品の合評をおこなうかどうかは、当日にどれくらい時間の余裕ができるかで決める予定だった。ゆえに、弘海はそこに期待していた。
しかし蓋を開けると、部長が持ってきたのは合評でも取り扱った短編作品であり、速読に自信のある持田さんはもちろんのこと、活字に慣れている比良坂さんや毛利くんも思ったよりすぐに読んでしまった。結果、それはもうたっぷりと時間が余った。余ってしまったのだ。
(先輩が傷つかないよう、おれがフォローしないと……)
今日は無理を言って参加させてもらった。その本来の目的を思い出し、弘海は内心気を引き締める。
「あら」
ふと気づくと、先輩の後ろに熊のように大きな影が。真っ白な巨体にふわふわの毛並みの大型犬が、わふっと鼻息を荒げながらそのとき安藝先輩の胸に抱き着いた。
「かわいいわね。名前は、なんと言うの?」
「ベニーちゃんよー。珍しいわねー。この子がこんなに懐くなんてー」
「突然犬がへこへこと腰を振ってきた場合は、なるべく大きな声を出さずに離れるのが得策らしいです。ちなみにこの行為はマウンティングと言って性的興奮以外にも」
「聞いてないわよ。まいる」
ベニーちゃんは安藝先輩に抱き着きながらふるふると尻尾を振っている。その巨体に先華奢な身体が埋もれそうだが、先輩はなすがままにされていた。動物に好かれやすい体質なんだろうか。
こそっ、とその隙に弘海は持田さんに耳打ちする。
「あの、ほんとうにやるんですか? 先輩の合評」
「んー? なんかまずいことでもあるのー?」
「い、いえべつに。ただボリュームも凄いですし、中途半端になるぐらいだったら、また日を改めてからでも」
「えー。めんどくなーい?」
ダメだ。話を聞いてくれそうにない。
「ふたりでこそこそして、どうしたの~?」
「なーんか。フツメンくんが合評に乗り気じゃないみたいでさー」
「へぇ、なんかあったの?」
「ああ、いや」
不思議そうなふたりからじっと見つめられ、弘海は視線を泳がせる。どうしよう。
弘海が悩んでいると、突然「朱鷺子ちゃん……!」部長の小さな悲鳴が響く。みんないっぺんに顔を向けた。
視線の先では……なんと安藝先輩が襲われていた。正確に言えば、先輩がベニーちゃんの巨体に覆い被されたまま、その顔面をべろべろと舐められているところだった。それはもう。容赦なく。
「ダメですヨ! ミスベニー!」
どこから現れたのか、イヴちゃんも必死にそれを引き剝がそうとする。「ああ、朱鷺子ちゃんのファーストキスが!」悲壮な声もあがるけど、部長、そういう問題じゃありません。
結局、小柄な少女だけでは巨体はびくともせず。比良坂さんと毛利くんの手も借りて、ようやくベニーちゃんを引き剥がした。
「あんなの初めて見たわー。とゆーかわたしより懐いてなーい? 気のせい?」
「気のせい……ですよ。きっと」
ふごふごと鼻息を荒げ、なおも先輩に突撃しようとするベニーちゃんを、男子陣がなんとか押さえつける。安藝先輩はその綺麗な顔をねちゃねちゃとした唾液塗れにしながら微笑んでいた。凄い絵面だ。
「朱鷺子ちゃん。まずは顔を洗いにいったほうが」
「ええ。そうね」
「お、おれが案内します」
これ幸いと、弘海は席を立った。
以前お邪魔した際に、洗面所の位置は把握してある。ベニーちゃんのことはいったんみんなに任せ、あられもない姿に成り果てた先輩を急いで案内する。
「あんなに必死に舐めて。美味しいのかしら?」
冗談めかしたことを呟いてから、安藝先輩は水で顔を洗い始めた。
「大丈夫ですか? 先輩」
「問題ないわ。ふふふ、身体は大きいのに、ずいぶん人懐っこい子なのね」
「だれにでもあんな感じではなさそうですけど」
持田さんも初めて見たと言っていたし。
「すぐに戻りましょう。みんなを待たせるわけにはいかないわ」
「べつに、そんなに急がなくてもいいんじゃ」
「わたしの作品を見てもらうのに、わたしがいないのではダメでしょう?」
「い、いやでも、ほら? 犬の舌って雑菌だらけって言いますし。肌が弱い人だとけっこう負けるって聞くし、やっぱりもっと念入りに洗ったほうが」
「わたしはとくに肌が弱いわけではないわよ?」
うぐ、と弘海は小さく唸る。
安藝先輩は持田さんに「使っていいわよ」と言われたフェイスタオルで顔を包みながら、弘海の苦し紛れの提案を受け流していく。
期せずして生まれたハーフタイム。ここでできるだけ足止めして時間稼ぎをしてやろうという弘海の魂胆だったけれど、そんな後輩の気持ちなんて知るべくもない先輩にはまったく通用しない。どころか「ふふふ、どんな感想をもらえるか楽しみね」と呟く始末だった。
「楽しみって、ほんとに言ってるんですか?」
「ええ。もちろん。……どうかしたの? 小鳥遊くん?」
「ああ、いや」
もう。呑気というかピュアというか。
これからじぶんがどんな目に遭うのか、想像していないのだろうか。まあそれなら、それでかまわない。それをどうにかするのが、今日の弘海の役目だ。
「そういえば、小鳥遊くんは作品を持ってこなかったのね」
「え? ああ、おれのはべつに、見てもらってもしょうがないし」
「そうかしら? 見てもらえば、きっと楽しいと思うけれど」
……この人は。
「先輩は、怖くないんですか? じぶんの作品を、みんなに見てもらうのが」
「怖い? どうして?」
「どうしてって。……だって、嫌じゃないですか。つまらないとか、才能ないとか、もしもそういうことを言われたら」
「そんなことを言う人たちには、見えなかったけれど」
フェイスタオルを胸に、安藝先輩は目を瞬かせた。
「だから、もしもの話ですよ。そう言われたらっていう、仮定の……。それにそこまでひどい言葉じゃなくても、間違ってるって指摘されることは、きっとたくさんあるはずでしょ?」
「そうね。まあわたしも素人だし、けっこう勢いで書き殴ってしまったところもあるしね。……でもそれならそれで、真摯に受け止めればいい話でしょう」
「そこまで割り切れる意味がわかりません」
安藝先輩は顎に指を添えて思案顔をつくる。「割り切れているわけでもないけれど」と呟き、ふたたび微笑んだ。
「まあ、書くのが楽しかったから、でしょうね」
「え?」
「お恥ずかしい話だけれど。書いているときは、ほんとうに子供みたいな気持ちで、どこまでも夢中になれたのよ。感動したわ。こんなに楽しいことがあるんだって。それで最後まで書き終えたときは、すごく充実した気持ちになったの」
安藝先輩はリップを取り出すと、大きな洗面鏡を見ながら唇に塗りだした。
「だから、後のことはあくまで副産物というかね。こういうことを言うのは、ほんとうはダメなのでしょうけれど……けっこう、どうでもいいのよ」
「どうでもいいって」
「みんなには内緒ね」
とくに五百蔵さんにはね、とお茶目に微笑んで、
「それにもしかしたら、おもしろいって、言ってもらえるかもしれないじゃない?」
「それは……」
「そこまでは望めなくても、また読んでもらう約束ぐらいは、してもらえるかもしれないわ。それって素敵なことじゃない? わたしの生み出したものが、みんなとの繋がりになるなんて」
鏡に映る先輩の眼差しは今にも輝き出しそうなほど、高揚感に満ちていた。
弘海はそれ以上なにも言えず。
結局ふたりはあっさりと洗面所を出た。
(先輩ってこんなに無邪気な人だったかな……)
もしくはなにかが彼女を変えたのか。
どちらにせよ、弘海は先輩ほど無警戒にはなれない。意外なことに、以前はあの五百蔵さんも想像以上の高評価を下した安藝先輩の作品だけれど、ほかの人たちもきっとおなじように褒めてくれる、だなんて。そんなのほとんど絵空事じゃないか。
「お待たせしたわ。…………あら?」
やっぱり中止させよう。無理やりにでも。
そんな弘海の静かな決意は、結果として無駄となった。なにせリビングに戻ったふたりを待っていたのは、ダイニングテーブルで先輩の作品を黙読する持田さんたちの姿だったのだ。
「朱鷺子ちゃん。持田さんたち、もう読んでくれていますよ」
「そう」
(遅かった……!)
つい手で顔を覆ってしまう。
急速に気が張り詰めた。図書館の一角のような静けさに、凍るような緊張が追いついてくる。とてもじゃないがまともに立っていられない。聞こえるのはページを繰る音と、マウスを動かす音のみ。ごくり、という固唾を呑む音が、やけに響いた。
「……グッ」
ゆえに、その小さな吐息もすぐに耳が拾った。
耐えきれないといったふうに声を漏らしたのは持田さんだった。かすかに両肩を震わせる。よく見ると唇も震えているようだ。
そして我慢の限界は早々に訪れ、「グッ、フフ……‼ フフフッ……‼」口元を両手で押さえるも意味はなく「あ、あはは……‼ はははははっっ……‼」なんとも愉快そうに、大声で笑い出したのだった。
「あ、あははーっ……‼ ヤバいっ、とまんな、い……‼」
お腹を抱くようにして大笑い。
そうしてひとしきり思う存分笑ったのち、「ふぅ……」持田さんは指先で涙を拭いながら言った。
「安藝ちゃん。あなた作家の才能あるわよー」
(えっ?)
「ほんとう、かしら?」
「もちろんよー。ここまで書けて才能ない人なんていないわー」
まさか。
あの毒気の強い持田さんが、こんなに素直に褒めるなんて。
「ちゃんとじぶんの世界持ってるよねぇ。これたった数日で書いたってほんと~?」
「じぶんも。素晴らしいと思います」
比良坂さんも毛利くんも、口々に賞賛している。三人ともお世辞を言っている感じはしない。心からの本心を言っているようだ。
「う、うそ……」
思わず、弘海の口から声が漏れた。唖然として、空いた口が塞がらない。
「にしてもサプライズすぎるわよー。安藝ちゃんの雰囲気的に純文学でも書いたのかと思ってたら、これだもーん。ひょっとして安藝ちゃんって真顔でボケるタイプ?」
「僕も初心を思い出したよ。そうだよねぇ。やっぱり作品ってこうじゃなきゃ」
「良い刺激になりました」
「嬉しいわ。ありがとう」
想像以上の好感触に、安藝先輩もご満悦の様子。
しかし弘海は呆気に取られたまま、言葉を失っていた。
(なんで……どうして)
そんな馬鹿なと言いたくなる。ほとんど超常現象に出くわしたかのような心地で、わけもわからず立ち尽くした。それしかできなかった。
「次の作品の予定はあるのかしらー?」
「いえ。まだなにも」
「また書くんだったら、そのときも見せてよ~。僕興味あるし」
「右におなじく」
「また読んでもらえるなら。わたしからも、ぜひ」
**
「今日はこれで解散でいいかしらー?」
(……はっ)
持田さんの間延びした声を耳が拾う。それで弘海はやっと我に返った。
どうやらしばらくの間、茫然自失となっていたらしい。
どれぐらい時間が経ったのか。気づけば日が暮れ始めていた。時計の針はそこまで進んでいなかったが、冬は日が短い。安藝先輩の話もとうに終わって、いつのまにか談笑も一段落したようだ。場はすでに解散ムードになっていた。
「五百藏さん。起きましょう」
猪熊部長が、相変わらずソファーで寝転んでいる後輩女子を優しく揺り起こす。「んん……」ずっと眠っていたのか、五百蔵さんは小さく呻き声をあげると、ゆっくり目を開けた。
「……悪夢を見ていた気がするわ」
「ふふ、夢で良かったですね」
「……ええ。小鳥遊くんが先輩と交際を始めたっていう」
「それは現実ですよ」
がくっ、とふたたび五百藏さんが気を失った。「い、五百蔵さん!」部長が血相を変えてその肩を揺する。
弘海は弘海で半ば夢心地だ。ぼっーとする頭を振って起こす。
そのときだった。玄関のほうでチャイムが鳴ったのは。
「だれよー。こんなときにー」
「畑くんでは?」
「あ~。そういえば来てなかったね~」
「げげー」
持田さんは嫌な顔を浮かべたが、すぐさま対応に出ていく。弘海たちは各々テーブルのうえを片づけたり帰り支度を整えたりと動く。すると、途中で戻ってきたのか持田さんが角からひょっこりと顔を出し「一応言っとくけど、安藝ちゃんは隠れといたほうがいいよー」「忠告はしたからー」と一方的に告げていった。
(なんのことだろ?)
安藝先輩と目を見合わせ、同時に首を傾げた。
まもなく玄関のほうからふたりぶんの足音が近づく。やがて艶やかな白スーツを着用した青年がリビングに現れた。
「おっす。やってかー? おまえら」
このグループの最後のメンバー、畑孝介くんだ。
「すまんな。ちょっとばかし遅れたわ」
「ちょっとどころじゃないと思うけどなぁ。……それにしても孝介くん。今日はまた大人っぽい服装だねぇ」
「朋絵さんがどうしてもって言うからな。一張羅をおろしてきた! どーだ? いいだろ?」
糊の利いたスーツを見せつけるように胸を張る。以前とは趣向の違う服装だが、デート相手によって変わるのか。あのときは野球部のような坊主頭だったのも、時を経て洒落たツーブロックの髪型に変貌していた。
「せっかくで悪いけど、もう解散するから帰ってもらっていいー?」
「相変わらず辛辣だなぁ、とわ子さん……。でもそこが素敵だと思うぜー。オレは。やー、つくづく惜しいよなぁ。年上好きのオレとしちゃあ、これであと胸さえ大きかったら、タイプど真ん中なんだがよぉ」
「早く死んでくれないかしらー」
持田さんの目が笑っていないが、畑くんはまったく意に介さず、
「んでー? 新しい女子が入るんだよなー? オレけっこー楽しみにしてたんだぞー。さあどれどれ……」
手をひさしにするようにしてキョロキョロとその場の顔ぶれを見回す。
「………………なっ」
その視線が、ダイニングテーブルのそばに立つ安藝先輩を捉えた瞬間、ぴたりと停止する。くわっ、と畑くんが衝撃に目をひん剥く。
「嘘だろ。こんな……」
戦慄に似た声を漏らした。ぴしりと妙な緊張が走る。幽鬼のごとくふらついた足取りで畑くんがにじり寄っていく。その間も二つの眼差しは先輩の肢体に縫い付けられたままだった。
「お、お名前は、なんと……?」
「……? 安藝朱鷺子よ。あなたは畑孝介くん。でいいのよね? よろしく」
「失礼ですが、ね、年齢は?」
「たしか、あなたの一つ年上だと聞いているわ」
「ッッ……‼」
一瞬にして、畑くんの目が充血した。あれは。人間の肉体的に大丈夫なんだろうか。今にも倒そうに見えるのだけれど。
なぜか先輩の年齢を知って打ちのめされたらしい畑くんは、それから血走った目で先輩の顔立ちから、ほっそりとした首元、華奢な肩、豊かな胸元、くびれた腰、形のいい脚まで、上から下まで思う存分遠慮かまわず観察していくと、突然決意を秘めた表情になって。
「あ、安藝さん! いえ、朱鷺子さん!」
「はい」
バサッッ、と音がつく勢いで頭を下げて、片手を差し出した。
「オレと、結婚を前提に付き合ってください……‼」
一世一代の男の叫びが、静かな住宅街に響き渡る。
(…………え?)
停止する時間。
冬の冷気も凍りつくような、長い長い、凪のような静寂。
永遠にも似た、そんな沈黙のなか、
「あーあ。だから忠告したのにー」
持田さんの素っ気ない声が、弘海の耳を流れていった。




