(13) 週末なにしてますか?
リビングに通された弘海はとりあえずソファーに座って辺りを見回した。
五百蔵さんは着替えのために一旦自室に戻っている。リビングには今のところ弘海しかいなかった。大きな液晶テレビと木目調の長テーブル、キッチンの向こうはバスルームに繋がっているようだが、そんなことよりどこにも人の姿がない。五百蔵さんが一人暮らしなんてことはないだろうに、これは一体どういうことだろうか。
「親ならいないわよ」
やがて現れた五百蔵さんはオーバーサイズの黒パーカーに黒と青の混じったツートンカラーのボブカットと、いつもの格好に身を包んでいた。弘海は首を傾げて問う。
「いないって、どこかに行ってるの?」
「パパは会社の寮で、ママは今日は友達の家」
要するに現在、五百蔵さんはこの家で一人らしい。それはなんだか寂しい気がしたが、本人は慣れているのか気にしたふうもなくキッチンへ向かっていく。
「珈琲はインスタントだけど、我慢してね」
「あ、お構いなく……じゃなくて。ごめん、おれ珈琲は飲めなくて」
遠慮する弘海に、五百蔵さんはなぜか難色を示した。
「あんた、今日はあたしの一日に付き合うんでしょ?」
「う、うん」
「それって、あたしの行動に全部付き合うってことよね? だったら飲み食いするものも同じものにするべきでしょ」
「いや、べつにそこまでしなくても……」
「やるなら徹底するべき。中途半端は許さないわ」
というわけで。
ふたりはくの字のソファーの両端に座ってティータイムを始めた。
可愛い見た目に似合わず五百蔵さんはブラック派らしい。足を組んで座りながら、ミルクも砂糖も加えず湯気立つマグカップに口をつける姿は妙にカッコいい。弘海はシュガースティックの中身を全部入れてマドラーでかき混ぜながらそわそわと視線を泳がせた。
「……今日の予定だけれど」
カチャ、と五百蔵さんがマグカップをテーブルに置いて口を開く。
「昼から集まりがあって、あたしもそこに行くから。そのつもりで」
……集まり、か。
それが五百蔵さんの言っていた『予定』というやつなのだろう。「それって一体なんの集まりなの?」弘海は気になって訊ねた。
「ネットの知り合いよ。中学のときにつくったの」
「友達はつくらないんじゃなかったの?」
「つくらないわよ。めんどいから。でもネットは別。都合がいいときに話せるし距離感だって丁度いいし。……それに、あたしが求めてたのは友達じゃなくて仲間だから」
それはどう違うのか。弘海は疑問に思うが「……ああ」その答えにはすぐ思い至った。
「もしかして、作家志望の」
五百蔵さんはこくりと頷いた。
「人の数だけ表現がある。研鑽を積むにはそれを擦り合わせるのが一番。でも同じ学校で作家目指すやつなんて早々いないから。ネットで集めることにしたの。……SNSって凄いわよね。投稿サイトで募集をかけたら、すぐに沢山集まったわ。まあそのうちほとんどはいなくなっちゃったけど」
「それはどうして?」
「あたしが間引いたから」
(ま、間引いた……)
「作品を読んだり実際に一人一人会話したりして、そうやって人となりや熱意を知って、やる気のない奴は即刻排除してやったわ。だから今グループに残ってるのは、作品に対して本気で向き合っている人たちだけ」
「そのグループの人たちと、今日は会うってこと?」
「ええ。偶然だけど近くに住んでるやつが多かったから。だったら実際に会って、各々の作品の感想でも言い合おうってわけ」
へえ、と感心したように相槌を打っていた弘海だったが、そこではたと気づく。
「んん……待って? 五百蔵さんがそこに参加するってことは、もしかしておれも?」
「当然でしょ。今更気づいたの?」
「そんな」
いやいやいや……。
「おれみたいな奴がそんな所に行っても場違いなだけじゃないか」
「なによ怖気づいちゃって。べつに煙たがられたりしないから安心しなさいよ」
「安心できないって! 知らない奴が急に混ざってきたらさすがにみんな迷惑だろ!」
しかも作品づくりに関してはド素人も良いところの弘海だ。そんなどこの馬の骨とも知らない奴が割って入ってきたらきっと嫌な顔をされるに決まっている。
「あたしのこと……知るんでしょ」
しかし五百蔵さんはそのとき、ぷいと顔を逸らして呟いた。
「え……?」
気づけばその端正な横顔がほんの少しだけ赤くなっている。真一文字に引き結ばれた赤い唇がむずむずと微かに動いて落ち着かない。
「……」
「……」
なぜか妙に気まずい沈黙がやってきた。まるでお互いの出方を窺うような間。
しばらくして弘海は再び口を開こうとする……が、それよりも先に五百蔵さんが突然、ぐびぐび……ッ‼ とマグカップをあおった。
「い、五百蔵さん?」
「よし。じゃあ行くわよ」
「いやお昼はまだ先じゃ」
「そっちじゃない。目覚ましのランニングよ。毎朝やってるの」
「ええ……」
色々と急すぎる。少しは落ち着かせてくれないだろうか。
「あの……おれ今ちょっと疲れてるんだけど」
「いいから黙ってついてきて」
「……ハイ」
**
数分後、運動用の服に着替えた弘海は五百蔵さんとともにマンションを発った。体操服を持ってこいと言っていたのはこのためだったらしい。
それからしばらくはふたりでひたすらランニングだった。住宅街を出て近くの小高い丘を登っていき、丘の上まで辿り着くと休憩も挟まぬまま、またすぐ走って家まで戻っていく。
五百蔵さんはこの街にやってきてから毎朝、このルートを走っているらしい。朝の運動は幼い頃からの日課のようで、着慣れたランニングウェア姿で坂道を登っていくさまは軽快で、走るフォームも綺麗だった。
「あんた、あまり疲れてないわね」
「まあ。テニス部で鍛えられてるし」
「ふ、ふぅん。まああたしも疲れてないけどさ」
丘の上での小休憩中、五百蔵さんは決まりが悪そうにそっぽを向く。強がっているのは明らかだった。そういえば秋葉原のときもすぐに足が疲れていたし。運動は好きだけど、体力は運動部レベルではないらしい。
「そういえば、なんかすごく目が冴えてきたような……」
「カフェインが効いてきたんじゃない? さっき飲んだでしょ」
「なるほど」
そういえば運動する前にカフェインを摂取すると様々な良い効果が得られると母親から聞いたことがある。そのための珈琲だったのか。
「戻るわよ」
有無を言わさぬ口調で言って五百蔵さんが颯爽と坂を下っていくのを、弘海は慌てて追いかけた。
運動から帰宅するとシャワーで汗を流し(おれもシャワーを使わせてほしいと頼んだらめちゃくちゃ嫌な顔をされた)、弘海は体操服から元の私服に着替えた。
かなりラフな服装で家を出ようとしたら、珍しく早起きしていた風香にダメ出しされて強制的に着替えさせられてしまったのは今朝のことだ。今は薄いグレーの開襟シャツに白のカットソー、黒のスキニーパンツという無難な仕上がりである。弘海にはなにが良いのかわからない。
「昼まで時間があるから、これ読んどきなさいよ」
と言って手渡されたのは、ご丁寧にプリントアウトされた分厚い用紙の束である。思わずこれはなんだと訊ねると、
「グループの一人が書いたやつ」
なんと昼間に会う予定の一人が書いたオリジナル小説らしい。
「さっさと読んで、ちょっと感想を言えばいいだけよ」
「え? でも今からだと二時間くらいしかないよね?」
「余裕じゃん。二時間あったら」
「おれそんな短時間で小説なんか読んだことないんだけど……」
「じゃあ気合でなんとかして」
横暴だ。
しかしそれまでほかにやることもなく。残された時間は少ししかないので弘海は慌てて受け取った用紙の束を一枚ずつ読み進めていった。
その間五百蔵さんは隣で文庫本サイズの小説を静かに読んでいた。読むだけなら自室でもできるだろうに、わざわざリビングで一緒に過ごしてくれているのは、やはり一緒に時間を過ごせという風香の言葉を守ろうとしてくれているのだろう。こういうところに関して五百蔵さんはかなり殊勝な人だ。
そんなこんなで時間は過ぎ。
時刻は午後になった。
**
目的地まではバスで向かうことになった。
午後一時過ぎ。乗り込んだバスの座席に五百蔵さんとふたり、並んで座りながら弘海はなおも分厚い用紙の束を黙読していた。
ちなみに一度最後まで読み切ってはいる。お世辞にも活字に目が慣れているとは言えない弘海だったが、なぜかここ一番で絶大な集中力が発揮されて、二時間も経たずして読み終わることができてしまった。これに関して五百蔵さんはカフェインがどうとか運動がどうとか言っていたが、弘海の耳にはあまり入らなかった。一応ライトノベルの類は好んで読んでいたから、そのおかげもあるかもしれない。
ただ一度読んだだけでここはこうだと感想が思いつくものでもない。短時間で詰め込んだぶん内容も整理もできていない。ゆえに今度は流し見で大雑把に理解していく。幸い、最初のページに全体のあらすじが載せられていたので内容の把握には困らない。
タイトルは——『カミサマの境界線』。その下にはペンネームだろう、焼畑もえ、という名前が表記されていた。
一度読んだ上で内容を説明するなら、かなり暗い青春ミステリーという感じだ。
ある冬の日、主人公、渡辺優香が通う平和な高校に謎の転校生、笹倉泉美がやってくる。泉美は目鼻立ちのはっきりした綺麗な少女だったが、頬には大きな切り傷が刻まれており、校内を騒然とさせた。さらに噂では、半年前に学生間の殺害事件と学校のボヤ騒ぎで世間の話題を攫った不良高校、神前高校に彼女が在籍していたことが明かされる。物語はやがて過去に遡り、神前高校でなにが行われていたのか、泉美の身になにがあったのか、その真相に迫っていく。
といった内容だった。
(んん……やっぱり暗い……)
読み直してもやはり内容が暗く、どこか胃のあたりに重くのしかかってくるようだった。終わり方もハッピーエンドからは程遠いし、なにより文章が常時不安を煽るようで怖い。
ペンネームからして変わっているし、かなり暗い趣向の女性なのだろう。そんな相手にどんな感想を伝えればいいのか、弘海はほとほと困り果てる。
「でも……すごいな」
無意識に漏れた独り言は、長い時間をかけて書いたのだろう手元の作品に対してのものだった。最初から最後まで読んで、その力の入りようがわかる。なにもわからない弘海にしてみれば、この作品が普通に本屋で売っていても、なんらおかしいとは思わなかった。それぐらい、これはちゃんと『小説』だった。
(やっぱり緊張するな……)
漠然とした不安を抱えながら、弘海はバスの時間を過ごすのだった。
**
「…………え?」
目の前に佇む華やかな家を見上げ、弘海は思わずあんぐりと口を開けた。
華やかな家、なんていうのも陳腐な表現かもしれない。しかし根っからの庶民である弘海のボキャブラリーではそれが限界である。
それは洒落た一軒家がずらずらと立ち並ぶなかで、一際目を惹く洋風の豪邸だった。二階建ての洋館にも似た仕上がりの邸宅、その真っ白な外壁は昼下がりの陽光を反射していっそう光を放っている。朱色の天然石でつくられた階段とスロープから続く正面玄関は、つるりとした闇色の鉄製素材(たしかロートアイアンとか言うような)で洒落た模様の門扉が設けられ、なんの種類かまったくわからないほっそりとした品を窺わせる一本の木がそばに寄り添うようにして玄関周りに彩を添えている。
「ここは……リゾート地かなにか?」
「都内某所の知人宅よ」
「そんな馬鹿な……」
お金持ちの別荘のような黒と白で彩られた品格の高そうな豪邸を前に、弘海は唖然と立ち尽くすことしかできない。
しかし五百蔵さんはもう慣れたものらしく、玄関先に揃えられた多くの靴を見て「もうみんないるのか」と呟くと、ためらいなく玄関のチャイムを鳴らした。そしてスピーカー越しになにか短いやり取りがあったのち、まもなく家主がやってくる。
「いらっしゃーい。五百蔵ちゃん」
扉の向こうから現れたのは、驚くほど綺麗なご令嬢だった。