(11) イジけないで、五百蔵さん
「…………え?」
無意識に声が漏れたのは、学校の昼休みのこと。
今月から始まった安藝先輩とのお昼ご飯タイムのため、今日も今日とて本校舎とは別棟にある文芸部室へと訪れた弘海はそこで聞かされた話に思わず耳を疑った。
「すみません。今なんて」
「五百蔵さんが、退部届を出したわ」
テーブルを挟んで対面に座る安藝先輩が、まるでいつもと変わらぬ調子で言う。
「昨日のことよ。部活が終わってすぐ、職員室に行って提出したらしいの」
「な、なんで」
「わからない。わたしもついさっき小野原先生に聞かされたばかりだから」
(五百蔵さんが……退部……?)
あまりに突然の話に、弘海はまだ頭が追いつかない。
開いた口が塞がらない弘海の前で、そのとき安藝先輩がふっと視線を落とした。
「昨日の部活が、原因かもしれないわ」
「……? なにかあったんですか?」
「ええ。みんなが揃ってから、いつものように活動を始めたのだけれどね。途中から五百蔵さんは、なぜだか急に怒った様子で立ち上がって、そのまま部室を出て行ってしまったの」
「……」
「わたしたちのなにかが、期待に沿えなかったのかもしれないわ」
(期待……)
だとしたら、なにが期待に沿えなかったのだろうか。その場にいなかった弘海には、わかるはずもなかった。そういえば前に猪熊部長が言っていた気がする。どうして五百蔵さんはうちの部に来てくれたのだろう、と。あのときの疑問の答えを弘海はまだ知らなかった。五百蔵さんは一体どうして……。
険しい顔で考え込む弘海。しかし対面する安藝先輩は一度目を閉じると、「……さて」と気を取り直すように微笑んだ。
「そろそろお昼ご飯にしましょうか」
「え? あの……」
「今日は小鳥遊くんの好物に挑戦してみたの。ぜひ食べてみてほしいわ」
学生鞄から青い風呂敷に包まれた弁当を取り出し、それをテーブルのうえに置きながら、安藝先輩はまるでなにごともなかったかのように話を次に進めてしまう。
「ちょ、ちょっと待ってください。先輩」
「……? どうかしたかしら?」
「どうかしたか、じゃないですよ。五百蔵さんが退部しちゃったんですよね? じゃあどうにかしないと」
「どうにかって……?」
「そ、それはわかりませんけど。でも今はその話をしないと」
「話なら、今したのですべてよ」
「ですから。ちゃんと戻ってきてもらう、ため、に…………」
そのとき安藝先輩は、いつものあの『女優の微笑み』を浮かべたまま、静かに小首を傾げた。
「本人が退部したいと言うなら、それを止める権利はわたしたちにはないでしょう?」
「っ……」
弘海は息を呑む。
その言葉がショックだったからじゃない。
先輩がそれを本気で言っているのだと、伝わってしまったからだ。
「小鳥遊くん?」
「おれ今から会ってきます。五百蔵さんに!」
居ても立っても居られなかった。
椅子を倒してしまうくらいの勢いで立ち上がった弘海は、そのまま足早に部室の出口まで駆けていく。…………が、途中で思い直し、テーブルのところまで引き返した。がしっ、とテーブルのうえの青い風呂敷を掴む。
「お弁当、あとでいただきます!」
「えっと、小鳥遊くん」
「明日洗って返しますから!」
安藝先輩の言葉を待たずして弘海は急いで部室を発った。
部室を飛び出した弘海はすぐに教室へと向かった。五百蔵さんは朝から登校して午前中はずっと授業を受けていたから教室にいるはずだった。
「え、早退?」
しかし教室の淡島くんたちから聞かされたのは予想外のことだった。
「そーそー。保健室行って戻ってきたら、すぐ荷物まとめて出てったんだよ。ちなみに話しかけたら無視されました。そりゃもう華麗にな……!」
「なんか熱あったぽいでー。あの子」
「走ったら、まだ間に合うかもな」
口々に説明してくれた三人に「ありがとう」と弘海は頭を下げて、今度は下駄箱のほうへと走っていった。どうやら五百蔵さんは一人で歩いて帰ったらしい。
五百蔵さんは住んでいる方面は違うが、弘海とおなじバス通学のはずだ。この時間なら、確か次のバスはあと十数分程で近くのバス停やってくるだろう。
その前に会う必要がある。弘海は急いで走った。
早々に下駄箱に着くと五百蔵さんの靴箱を確認する。彼女の靴はすでにない。弾かれたように玄関口から校門までの道を眺めるが歩行者の姿もない。もう校門を出たのか。
「小鳥遊くん、ですか?」
「あっ、部長」
振り向くと、そこには驚きの表情を浮かべる猪熊部長が立っていた。
「どこか行くんですか? たしか朱鷺子ちゃんと部室にいたはずでしたよね?」
「えっと、早退した五百蔵さんを追いかけてて……。部長も聞いてますよね? 五百蔵さんのこと」
「それは……」
猪熊部長は視線を泳がせる。やっぱり退部の件は聞いているらしい。けれどその表情はあっけらかんとしていた安藝先輩とは違って、どこか気まずそうだった。
「部長はなにか知ってるんですか? 五百蔵さんが、部を辞めたことについて」
「い、いえ。理由は聞いていません。……でも、その」
猪熊部長の反応はぎこちない。……聞いてはいない。が、なにも知らないわけでもなさそうだった。
部長は妙にもじもじとしながら言葉を吟味している。だが弘海はすぐに待っていられなくなった。
「すみません部長。急いでるんで失礼します」
「あ、はい。こちらこそお引き止めして……」
部長をその場に置いて、弘海は靴を履いて校舎を発つ。
学校を飛び出した弘海は長い坂を下り、バス停を目指して通りを走った。
やがて目的地に近づくにつれ、やっと探していた少女の姿を見つける。
バス停の屋根の下、ベンチに一人で座り込んでいるのは、制服姿の五百蔵さんだった。
「五百蔵さん……‼」
「え?」
近づいてくる弘海に気づいたか、五百蔵さんはわずかに目を見開く。
「あんた。なんでここに…………」
「いっ、五百蔵さんをっ……おっ、追いかけて……っ‼」
「…………大丈夫?」
やっと追いつくことができた弘海はその場で膝に手をつきながら、ぜえぜえ……、とひとまず乱れた呼吸を整えることにした。五百蔵さんはやや困ったように弘海を見上げている。
「すごい汗じゃん……そんな必死に追いかけてきたの? なんで?」
「いっ、五百蔵さんが……っ、アニ研を辞めちゃうって、聞いたから……」
「……ああ」
そのとき。
気のせいだろうか。そのとき浅く息をついた五百蔵さんの表情が、とても退屈そうなものに見えたのは。
「本当なの? 退部するって」
「ほんとよ」
ただ短く、簡素なだけの返答が、弘海をいっそう不安にさせる。
「なんで、そんな」
「べつに。間違ってただけよ。根本的に」
「なにが……。いや、やっぱり昨日、なにかあったんだね?」
「昨日……だけじゃない。あたしが間違ってたのは、たぶんここに来てからずっと」
「それって……どういう」
屋根の影に隠れて気づかなかったが、ベンチに座る五百蔵さんの目元には薄くクマができているようだった。弘海がそれに気づいてハッとしたのと同時、五百蔵さんはすくっと音もなくベンチから立ち上がると「……語る側じゃない」いつも以上に険のある視線を向けてきた。
「あたしは、作る側になりたいの」
(っ…………‼)
——どうして、だろう。
そのとき、心のどこかで、なにかが決定的になってしまったかのような。
全身の毛穴が開くような熱量と、心臓から身震いするような薄ら寒さとを同時に感じて。……気づけば鳥肌が立っていた。
「そ、それっ……て、そ……ぁ」
唇が震えて上手く声が出なかった。
まるでこの先に踏み出すのを身体が拒んでいるかのよう。
それでもこのまま話を終わらせるわけにはいかない。
弘海は懸命に喉を動かしてその意味を訊ねようとした。
だが、そのとき突然、五百蔵さんの上半身がぐらりと揺れた。
「五百蔵さん……⁉」
糸が切れたように重心を失った五百蔵さんはそのまま、ばたり、とベンチのうえに崩れ落ちた。突然の出来事に弘海は慌ててベンチに駆け寄る。
寝転ぶように倒れ込んだ五百蔵さんの顔が仄かに赤く染まっている。「うう……」呼吸も荒く、表情には苦悶の色を浮かんでいた。もしやと思い弘海がその額に手のひらを当てると、案の定五百蔵さんの汗ばんだ肌は熱を持っている。
「きゅ、救急車」
「やめて。そんなヤバくないから」
「いや。そんなこと言ってる場合じゃ」
「親に迷惑掛けたくないの……だから、マジで……」
喋るのも億劫そうな五百蔵さんだが、それでもなけなしの気力で医者を拒絶する。
どうしたものか、と弘海は取り出したスマホを所在無さげに揺らしたが……やがて「だ、だったら——」と液晶画面を操作して、とある連絡先に電話をかけるのだった。
**
「……………………んん」
ベッドで仰向けに寝ていた少女が、ゆっくりとまぶたを開く。
「あっ、起きた? 五百蔵さん」
ベッド脇で様子を窺っていた弘海は、少女が目を覚ましてくれたことに安堵の表情を浮かべた。
「……ここ、は?」
「おれの部屋。うちまで車で送ってもらったんだ。母さんに」
五百蔵さんはまだ状況を理解できていないのか、不思議そうな表情でパチパチと瞬きを繰り返しながら真っ白な天井を見上げている。
「覚えてる? 五百蔵さん、バス停で熱出して倒れたんだよ」
「ああ、そういえば……」
事の経緯を説明されてやっと思い出したらしい。まだぼーっと天井を見つめていた表情から「……ん?」と眉根に皺を寄せて険しい表情をしたかと思えば、次の瞬間、カッ‼ と両目を大きく見開いて飛び上がるように上身を起こした。
「か、帰る!」
「え? いやダメだよ。もう少し安静にしてないと」
「だっ、男女七歳にして寝床を同じゅうせず……‼」
「いや……それ寝床じゃなくて席だから」
まだ夢現であるらしい。やけに動転している五百蔵さんを弘海は制して落ち着かせる。
「それにまだ四時だから。そんなに急いで帰る必要はないよ」
ほら、と弘海に促され、五百蔵さんは部屋の窓ガラスへ視線を転じる。ベランダの向こうはまだ明るくて空も青かった。あれから三時間以上は経っただろうか。
「熱、どう? もう冷めた?」
「え? あ、ああ」
「少し看てみようか。ごめんね、触るよ」
「ちょ、ちょっと」
断りを入れてから弘海はやけにあわあわとしている五百蔵さんの白い額に手を当てた。ぽっ……と少女の頬が紅潮するが、手のひらから伝わる体温は正常なものだ。弘海は笑ってみせる。
「良かった。もう冷めたみたいだ」
「あ、あんたって……意外と、そういうところあるわよね」
「ん……? なにが?」
「……なんでもない」
妙にしおらしくなる五百蔵さんに、弘海は首を傾げた。
「あんた。学校はいいの?」
しばらくしていつもの調子を取り戻したらしい五百蔵さんが訊いてきた。弘海はぽりぽりと頬を掻きながら答える。
「まあ昼休みに抜け出してきちゃったからね。このままだと無断欠席ってことで、あとで先生に怒られるかもしれないな。ははは……」
「なに笑ってんのよ……だったら、今からでも学校に戻れば」
「言い訳なら明日するよ。今は、五百蔵さんのことが心配だ」
「…………結局あたしのせいじゃん」
ふん、と鼻を鳴らして五百蔵さんはなぜか弘海を軽くにらんだ。どうしてにらまれるのかわからない弘海は「……ん?」と首を捻るしかできない。
「やっぱり、お人好しよ」
付き合いきれないと言わんばかりに五百蔵さんはそっぽを向くと、今度はベッドに寝転んで小柄な身体を覆うように毛布に包まってしまった。
その後ろ姿に、弘海は静かに声をかける。
「ねえ、五百蔵さん。さっきの話の続きなんだけどさ」
「…………」
「作る側になりたいって、どういうこと?」
訊いておきながら、弘海はなんだか自分のことが白々しく思えた。
きっと彼女もそうだったのだろう。
「どういうことか、本当にわからない?」
まるで確信的な言い方で訊き返されて、弘海は観念するしかない。
「作家になりたい……ってこと?」
「わかってんじゃん」
——作家。
作品をつくる人のこと。またそれを生業とする人たちの名前。
意味は知っている。
知っていても、どうにもこう、腑に落ちてくれない。
その理由は弘海自身にもわからなかった。
「あたしは物心ついたときから作家しか目指してない。……いや、違うわね。たぶん生まれたときから、そうなるように人生ができてたの」
「そうなるように、生まれたときから……」
「だから今でも毎回、新人賞には作品を送り続けてる。勿論ほかの公募にもね」
「……なんか、すごいな。そういうの」
「べつに。あたしにとってはあたりまえのことよ。好きなように生きるために、今から努力してるだけ。……まあそう言っても、今のところ、せいぜい第三選考止まりだけどね」
定期的に小説を書き上げ、シーズン別にやってくる新人賞に応募する。
何年も、それを続けているらしい。
そんな話を、弘海は妙に圧倒されるような心地で聞いていた。
「あたしはいつか、絶対に小説家になる」
断言の形を取った少女の誓いが、狭い部屋に響く。
「なりたいじゃなくて、なるんだね」
「当然でしょ」
いつしか五百蔵さんはベッドのうえで上半身を起こした体勢で弘海をじっと見ていた。
その姿が、逆光でもないのにやけに眩しくて、弘海は目を眇めてしまう。
「最初に言っておけば良かったわね。そうしていれば、あたしもこんな無駄足を踏まずに済んだのに」
「無駄足……? それって入部したことを言ってるの?」
頷くことも首を振ることもせず、ただ五百蔵さんの眼差しは真っすぐ弘海を射抜く。その真っすぐさが、弘海にはなんだか羨ましかった。
「なあ、教えてくれないか。五百蔵さん」
「……」
「わからないんだよ。おれ。五百蔵さんが作家になりたいのはわかったけど、なんでそんなにうちの部に怒ってるのか、さっぱりなんだ」
言いながら見上げると、五百蔵さんはなんだか胡散臭いものを見るような目で弘海を見下ろしていた。なぜそんな顔をされるのかも弘海にはわからない。
——がちゃ。
と、そのとき部屋の扉が開き、ぼさっとした頭の風香が顔を覗かせた。
「話は聞かせてもらったわ!」
「か、母さん?」
「って言って登場するの、一度やってみたかったのよ。どう? 様になってた?」
どう、どう? と得意満面に訊いてくる風香。
しかしふたりを包む微妙な空気を感じ取ったのか、「……むぅ?」と眉をひそめると、風香はそれから腕を組んで思案顔を浮かべて…………ぽんっ、と手を打った。
「なるほど。修羅場ってやつね!」
「全然ちげえよ」




