(13) 氷解
「おええええ……‼ おえぇ、お、おええ……‼」
急いで男子トイレの個室に逃げ込むや、弘海は便器に顔を突っ込んだ。
「おええぇ……‼ うう……」
吐き気に身を任せて胃のなかの物を吐き出していく。昼間に食べたランチなどが吐瀉物に紛れて便器の用水に流されていく。
嘔吐感は割とすぐに収まった。元々衝動的なものだったのだろう。
誤解のないよう言っておくが、楠木誠人に実害を向けられたことは一度もない。
あの教室で彼はただの傍観者で、見て見ぬ振りをしていただけだったのだ。ぜんぶわかっている。ちゃんとわかっている。
これは自分の弱さが原因なのだ。
いくら中学の頃のトラウマが呼び覚まされてしまうとはいえ、かつて学び舎を共にした顔ぶれに会うだけでこんなにも身体が恐怖に支配されるなんてどうかしている。きっと過去に背を向け続けたツケが返ってきているのだろう。
「惨めだな……ほんと」
また先輩に恩ができてしまった。
この溜まった恩を返せる日はいつになったら来るだろうか。弘海は大仰にため息をつき、とりあえず早く戻らなければと個室から出る。
すると目の前に人が立っていた。
「え……」
目を疑う。
立っていたのは、まさか、誠人だった。
「よ、よう、弘海……」
「な、なんで……」
「その、おまえの先輩に言われて、さ…………あはは」
下手な笑みを浮かべたかと思うや、誠人は勢いよく頭を下げた。
「すまん……‼ 俺、弘海が今もこんなに苦しんでるって、知らなくて‼」
一体、なにがなんだかわからなかった。
弘海は呆けたように立ち尽くす。
それでも、
「……安藝先輩に、なにか、言われたのか?」
なんとなく、そうではないかと思った。
口端から漏れるような小さな声で訊くと、誠人くんは小さく頷いた。
「ああ……あの人は弘海の事情、知ってるみたいだったから。たぶん、俺があの頃見て見ぬふりしてた卑怯者だってことも、気づいてたんだと思う」
「……」
「俺、てっきり怒られるもんだと思ったよ。なんでそのとき、弘海を助けてやらなかったのかって。でも違って……あの人、俺の話を最後までちゃんと聞いてくれてさ……」
――これからは小鳥遊くんの助けになってあげて。
「って、言われてさ」
(先輩が、そんなこと……)
「だから、ごめん‼ 今さらかもしれないけど、それでも、ごめん……‼」
悲痛なほどの声が男子トイレに響き渡る。
深々と下げられた誠人くんの頭部を、弘海は静かに見下ろす。
「…………」
なんだろうか、この気持ちは。
ここまで反省の意を示してくれて、律儀に頭まで下げてくれて……そんな彼には申し訳ないけれど、目の前の謝罪に対して、弘海は不思議なくらい、なにも感じていなかった。
ただ弘海の頭を埋め尽くしていたのは、安藝先輩のあの優しい微笑みと、言葉では説明しづらいような、温かな感情だった。
「……謝ってくれて、ありがとう。誠人くん」
**
「うし、じゃあ二次会はカラオケだ! みんなでアニソン歌いまくんぞぉ‼」
ファミレスを出ると外はもう暗かった。ショッピングモールの照明が駐車場まで明るく照らしている。夜空は雲が目立って星も見えず、時おり月が雲間から顔を覗かせていた。
「はる陽ちゃんたちも、とーぜん一緒に来るっしょっ?」
「え? ああ、うん……」
梅木くんに満面の笑みを向けられ、弘海は反射的に頷きかける。
——くい。
だがそのとき、制服の裾が小さく引っ張られた。
見やると、俯いた茜谷さんが白い腕を伸ばしている。裾を引っ張る力には遠慮が見られたが、桜色のネイルが施され指先は強く制服に食い込んでいる。その手は、微かに震えていた。
「ご、ごめん! やっぱり行くのはやめとくよ。あんまり遅くなるといけないしさ」
「うぇ? なんで? これからが本番なのに」
「ごめんね、ほんと……」
——ぐいぐいぐい……‼
いよいよ引っ張る力に遠慮がなくなり、弘海は慌ててその場を去ることにした。
「ま、誠人くんも、またね!」
最後になんとか力を振り絞って旧友に手を振ると、そのまま茜谷さんに強引に引きずられるように、夜の街に消えていった。
「あ、茜谷さん……先輩が、まだなんだけど……」
ショッピングモールから離れてもまだ弘海はリードに繋がれた飼い犬のように茜谷さんに手を引っ張られていた。
黙々と足を進める茜谷さんだが、だんだんと駅からは離れていっている。
目的地などは考えていないのだろう。ただ一心にあの場から離れたい気持ちが伝わってきた。
「いったん止まろう、茜谷さん?」
「……」
「ねぇ、茜谷さん」
「……」
「茜谷さんってば!」
もう片方の手で手首を掴むと、ようやく彼女は足を止めてくれた。
自動車の往来が激しい車道と、ガードレール一つ挟んでつくられた細い坂道のうえで、弘海は少し見上げる位置にある少女の背中を眺めた。
街灯が制服姿の華奢な身体を照らし、遠慮ない速度で自動車が横を過ぎるたび、鮮やかに染められた長い金髪を風が揺らす。
「……ちがうもん」
微かな呟きは、行き交う車の騒がしさのなかでも、しっかり聞こえた。
「いい作品だもん……『コトノハ』は、いい作品なんだもん……」
「茜谷さん……」
「なんでわかんないのよ、みんな!」
堰を切ったかのように茜谷さんは感情を吐き出し始めた。
「マジむかつく! 話薄いとかつまんないとか好き勝手言ってさ! 意味わかんない! 最後まで見たらわかるって何度も言ってんのに、一話見たらわかっちゃうとか……なにそれそんなわけないじゃん!」
叫びながら振り向く。輝く金髪が翻る。
茜谷さんは大きな目元を赤くして涙を浮かべていた。
「他のヤツらもなんで笑ってられるわけ……あんなヤツ自分の話をしたいだけなのに、笑って持ち上げようとしてバカでしょバカ‼」
「……」
「小鳥遊くんもそう思うわよね? あいつらおかしいよね⁉」
茜谷さんの気持ちは……痛いほど理解できた。
ちゃんと見てもいないくせに。
なにも知らないくせに、大好きな作品を馬鹿にされて笑われて……ただ一方的に評価を押し付けられて、なにを言っても取り合ってもらえなくて。
そんなふうにされることを、その痛みを、弘海はよく知っていた。
(でも)
でも、それは。
「……じゃあ茜谷さんは、どうなの?」
「は? な、なんの話……」
「先輩の家で話をしたときだよ。先輩の好きな作品に対して、茜谷さんが言ったことは、同じことなんじゃないの?」
「……」
一体なにを言われているのだろう?
茜谷さんはまさにそんな表情だった。
それでも、いつの話をされているのかはわかっただろう、『合評会』のときのことを思い出すように、形のいい眉を少しひそめて、
「……ぁ」
小さく声を漏らした。
「つまんなくて一話切りしたって、言ってたよね」
「あ、あれはっ……だって、ほんとに……」
「なにがおもしろいかわからない、途中で寝ちゃって、あんまり覚えていない」
「うぅ……」
茜谷さんはバツが悪そうに視線を逸らす。
「先輩は、気にしてないって言ってた。こういうのは仕方ないことだって……でも、悲しくなかったわけじゃないと思う」
安藝先輩は好きなことを語るのが好きな人だ。
それをあんなふうに言われて、本当になんとも思わなかったなんて、弘海は思えなかった。
「今日茜谷さんが傷ついたみたいに、先輩だって、きっと傷ついたはずだよ」
「で、でもトキセンは、優しいし……」
「それはおれたちが仲間だからだよ。大好きなものを一緒に大好きって言える仲間になりたいって、そう思ってくれてるから、あんなふうに寄り添ってくれるんだ」
「……」
「先輩がどうして茜谷さんを選んだのか、おれにはわからないけど……、先輩はきっと茜谷さんのことを信じてるよ。……たぶん、部長だって」
夜闇のなか、スポットトライトみたく街灯に照らされる茜谷さんは俯き加減になって弘海の言葉を聞いていた。前髪が目元を覆いい、ここからは表情は窺えない。ただピンク色の唇が悔しそうに引き結ばれているのが、かろうじて確認できた。
「帰る」
茜谷さんはそう呟くと、弘海の横を通って去っていく。
歩道のうえで一人取り残された弘海は、大きくため息をつく。
「……はぁ~」
(ちょっと責めすぎたかもな……)
その胸のうちを満たすのは、後悔の念だった。
本当はこんな説教じみた話をするつもりはなかったのに。
明日からどんな顔で茜谷さんと会えばいいのか……憂鬱だ。
「見つけたわ、小鳥遊くん」
「うわ……‼ せ、先輩……‼」
振り返ると、先輩が夜闇に浮かぶように立っていた。音もなく現れたことと、その長い髪のせいで、一瞬幽霊かと思ってしまった。
「びっくりした……‼」
「探すのに苦労したのよ。まさかこんなところにいるなんて思わなかったわ」
「あ……! ご、ごめんなさい。ご迷惑おかけして……」
「気にしないで。まさか会計を手伝っている間に先に帰られていると知ったときは悲しくて涙が出そうだったけれど、なんとか見つけられたからいいわ。ええ、いいのよ。本当に」
「ほんとマジですみませんでした」
それはもう深々と頭を下げる弘海だった。
「いいわ。……それよりさっき茜谷さんとすれ違ったの。その顔が、どうもただごとでない雰囲気だったのだけれど、なにかあったかしら?」
「……まあ、少し色々と」
「そう。あなたたちも若い男女だものね。それは色々とあるでしょう、ええ……」
なんだか訳知り顔で「ええ、ええ」と頷く安藝先輩だけれど、たぶんとても的外れな想像をされている気がした。
(……というか)
「先輩、もう怒ってないんですか?」
「ん? なんのことかしら?」
「いや……そういえば、来るとき電車のなかで、少し不機嫌そうだったなあ、って……」
「…………ああ」
おずおずと訊ねると、先輩にしては困ったような顔でこめかみに指で触れて、
「申し訳ないけれど、できればそのことは忘れてもらえないかしら?」
「え? 忘れるって……なんで」
「わたしも、少し幼稚だったのよ。だからお願い。ね?」
「は、はあ……わかりました」
なんだかわからないが、先輩がそうしてほしいなら従うべきなのだろう。
「では弘海くん、一緒に帰りましょうか。もう遅いし」
「はい……」
先輩と肩を並べながら、弘海はようやく帰路に着くのだった。