第50話 運命の転機
そうだ。花だ。花が好きだ。
職業が目覚める以前は王都で花屋を開くことを夢見ていた。
ほんの数年前のことだが、ジェシカにとっては遠い昔の記憶のようだった。
たくさん勉強した。
ありふれた野花はもちろん、珍しい種類も、魔草も。
自分の職業が聖剣士と知った時は興奮したものだ。力があれば秘境に咲く特殊な花だって危険を恐れず手にできる。
しかしジェシカの気持ちとは裏腹に、家族や親しい人たちは彼女に純粋な戦闘能力を求めた。
それなりに名の知れた温泉街。観光客も多い。けれどクハナなどの王都近隣の街と比較すると、活気があるとは言い難かった。
心身の疲れを癒す、落ち着いた穏やかな街。余計な喧騒は不要。
そうやって築いてきた歴史と文化。
とはいえ都の発展とともに流行が加速する中で、温泉だけを売りにするのは時代遅れなのではないかという声も少なからずあった。
そんな折に、矢面に立ったのがジェシカだった。
温泉街出身の聖剣士。それも史上最年少の天才だ。
ネームバリューとして利用するのに、これほど都合のいいものはない。
冒険者として大成して温泉街を宣伝する。
それこそが大人たちが求めたジェシカの役割だった。
親の言いつけで仕方なく始めた冒険者業は最初こそ新鮮で楽しかったものの、いつしか見えてしまった人間の下心に絶望し、戦うことが苦痛になった。
誰も自分を見ていない。
みんなジェシカという人間を透かして、聖剣士という稀有な職業を見ている。
両親ですら、その目は欲と大義で染まっていた。
人に失望してから故郷を出るのに時間はかからなかった。
誰にもなにも言わず家を出て、自分の実力と名前だけでいくつもの拠点を点々とし、そして出会ってしまった最悪の敵――聖剣士狩り。
うんざりだ。
人間なんて嫌い。誰の顔も見たくない。
だがジェシカは思い出してしまう。フレッドの顔。先ほどの冒険者の顔。
ジェシカの素性を知らない人間は、だからこそ一人の人間として彼女を見る。
ジェシカと対等に話し、時に相談し、助けられたら素直に感謝する。
欲もしがらみもなく、純粋に恩義を感じてジェシカに笑顔を向ける。だからこそ、ジェシカは自分を見てくれる人間を蔑ろにできなかった。
「ああ、くそ」
頭を振って意識を敵に集中する。
よそ見をしていて勝てる相手ではない。
無視することはできた。それでも首を突っ込んだ。
これは自分の選択であり、自分に与えられた試練だ。
今更になって冒険者たちを恨むようなことはしたくない。せめて助けでも呼んでくれと願うこともおこがましいと切って捨てる。
「やってやるさバカやろう!」
何体目かもわからないゴーレムを沈黙させて、ジェシカは空元気で叫ぶ。
フラッと緩む手が危うく剣を手放しそうになるが、歯を食いしばって力を込める。肉体はすでに限界一歩手前だ。
ジェシカは聖剣士としては火力に乏しい。
普通の聖剣士は武器や両手に聖なる力を宿すが、ジェシカは脚に力を宿す。
自身の未成熟な肉体の不利を理解しているからこそ、俊敏性を底上げすることで自己防衛に特化したのだ。
もちろん武器に聖なる力を込めることは可能だ。しかし他の聖剣士と比べると、そこまでの威力はない。
今回はその火力不足が仇となる形だった。
巨大な斬撃でも放つことができれば自分を囲むゴーレムを根こそぎガラクタにできただろう。
もう少し火力を上げる鍛錬をしておけばよかったと、ジェシカは今になって後悔する。
頼りの俊敏性も、疲労で震える脚では期待できない。
巨躯のゴーレムの片割れがジェシカを踏みつけようと足を上げる。
その動作こそ遅いものの、動くことすら億劫な今のジェシカには十分な脅威になった。
「くっ」
横に跳ねて攻撃を躱すと、砕ける地面から飛来してくる石礫がいくつも体に当たる。
腕を交差して顔を守ると、転がってすかさず態勢を立て直す。
周囲を見ると、一向に数の減らないゴーレムたちが四方八方から襲い来る。
まだ戦える。
構えて迎え撃つ姿勢をつくるものの、足が地面から離れてくれない。
ジェシカは慌てて足元を見下ろす。何もない。あるのはただ、今にも折れゆく枝のような、細い自分の足。
「あ、れ……」
動かない。まるで重い鎖に縛られたように、全身の自由が効かない。
――こんな時に。
あまりに悔しくて、ジェシカは目を瞑る。
限界だった。
幾度も啜った雀の涙はついに底を尽きた。ジェシカにはもう歩く体力すら残っていない。
結局、なにもできなかった。
冒険者たちは無事だろう。ここまで足止めしたのだ。きっと助かる。
しかしフレッドはどうだ。あんなに息巻いて約束を交わしておいて、迷宮で命を落とすなんて笑いものだ。
明日の待ち合わせの時間、自分の姿がなかったらフレッドはどう思うだろうか。
『あの女は嘘つきだった』と非難してくれるか。それとも……『自分のせいで死んでしまった』と悔いてしまうか。
ここにきてジェシカが考えるのは、決意を抱いたフレッドが迷宮に潜り込んでゴーレムの大群に襲われる姿だった。
出来もしない約束なんて、したくなかった。嘘つきにはなりたくなかった。それじゃあ自分も、《《あの》》大人たちと一緒だ。
だめだ。嫌だ。
あるはずない。それでもゼロではない。最悪の可能性ばかりジェシカの脳裏に流れる。
今にもゴーレムが数の質量でジェシカを押し潰そうとする。
死を覚悟したジェシカは考え得るだけの痛みを想像し、ただその瞬間を待つしかなかった。
「――あら? 聞いた通り面白いオモチャがあるわね」
大きくはない。
けれど透き通って鮮明に耳に入る声。
いつまでも訪れない苦痛にも疑問を抱いたジェシカは、目を開いて状況を確かめる。
ピタリと一斉に停止するゴーレムの群れ。
まるで世界の時間が止まったようだと、漠然とした思考でジェシカは思った。
いまだに言うことを聞かない体だが、なんとか視線だけを声の主に向ける。
そこにいたのは、漆黒の眼帯をつけた女性。
まるで散歩でもしているような緩やかな歩み、柔和な笑みは街で花屋でも営んでいそうな親しみやすさで。
微動だにもできないジェシカには目もくれず、巨躯のゴーレムを見上げる女性は心底嬉しそうに微笑む。
「素敵な退屈しのぎになりそうね」
ドクン、と心臓が跳ねるのをジェシカは感じた。




