再びの王太子と公爵令嬢
お母様の亡霊に遭遇してから十日が過ぎた。
私はあの日からずっと考え込んでしまっている。
私が遭遇し続ける奇妙な出来事。お母様の警告。血塗れの王太子。前世の記憶。乙女ゲーム。悪役令嬢の私。そして、処刑される未来……。
何もかもが唐突でバラバラなのに、それでいてこの全てがどこかで繋がっているような予感がした。しかし、まだ何か欠けているような気がする。パズルのピースが揃わないせいで全体像が見えてこない。そんな気持ちの悪さ。
私は自身の部屋に備え付けられたドレッサーの前に座り、顔色の悪い自分の顔をじっと眺めた。
薔薇の彫刻が施された大きな鏡がついた化粧台。その中から、いつにも増して青白い顔をした少女が見返してくる。
メイドたちに着つけてもらったフリルがたっぷりとついたドレスを着て、華やかなメイクをし、髪も優雅に結われた私。黒い巻き毛は高めの位置で一つにまとめられ、後れ毛がうなじにかかる。頬紅の赤みと比例するように、青みがかった黒い瞳は不安に揺れていた。
私の斜め後ろから、ミーシャは心配そうに私の様子をうかがっている。
この頃ずっと顔色の悪い私を彼女は随分と心配している。
「お嬢様、ご気分はまだすぐれませんか?」
「ええ……まだちょっと……」
申し訳ないと思いながらも言葉を濁す私に、ミーシャは困ったように眉を下げた。
「王太子殿下がおいでになれば、お嬢様の気分もきっと良くなりますよ」
ミーシャは期待を込めた口調でそう言った。
お城に招待されてから十日。ロバート様から遊びに来たいという知らせを頂いたのが一昨日のこと。浮かない気持ちで、私はロバート様の到着を待っている。
「お二人でお庭でも散策なされたら、お嬢様のお気分も晴れるに違いありません」
私の悩みを知らないミーシャは、婚約者と会えば私の気分転換になると思っているようだった。
やけに確信めいた口調で断言するミーシャに私は苦笑する。むしろ、王太子殿下そのものが今の私にとっての悩みそのものなのに。誰にも告げることのできない思い煩いは、私の表情を暗くしていることだろう。
「そろそろロバート様がお着きのはずよ。行きましょう」
私は深く息を吐いて、不安にさざめく心を鎮めようとした。うまくはいかなかったけれど。
「マリー嬢! お久しぶりですね!」
きらきらと子犬のような笑顔を見せてくださるロバート殿下。友人に会えた喜びからか、年相応の少年のように笑いながら駆け寄ってきてくださるのを、私は緊張しながら待つ。午前のまだ白く明るい陽光が私たちのいるガーデンを照らす。初夏の日差し。私は眩しさに瞳を細めた。
「ロバート様、本日はご足労いただきありがとう存じます」
「いいんだ。それにせっかく友人になったのだもの。もっと気を張らずに接してほしいな」
かしこまる私に茶目っ気たっぷりに微笑んで、ロバート様がエスコートとばかりに私に右腕を差し出す。私はその腕にちょんと手をかけて、しずしずと歩き出した。
歩きながらロバート様が尋ねてくる。
「今日はヴォルフラム家の庭を案内してくれるんだって?」
「はい。先日はお城の大変美しいお庭を見せて頂きましたからそのお礼に」
「楽しみだなぁ」
わくわくと瞳を輝かせる王太子殿下には、なんら曇りも後ろめたさもない。何かを企んでいるようにも、私への悪意を隠し持っているようにも見えない。
けれど私の頭の中には、お母様が囁いた「王太子に気を付けて」という警告がぐるぐると渦巻いていた。いつものように朗らかな殿下の笑顔も疑わしげに見えてくる。
「お城の庭園ほど素晴らしくはないですわ」
「そうかい? ここも充分素晴らしいよ」
我が家の庭園を歩きながら、ロバート様はきょろきょろとあたりを見回す。前世で言う英国式庭園のような我が家の庭。あくまでも自然のままに生えているかのように計算されつつも、色彩はバランス良く配置され、小道に沿って背の高い植物が並び、緑の塀を作っている。その塀の間を私たちは歩いている。
公爵家の庭園内だからか、メイドも侍従も側にいない。高い塀に囲まれると二人きりなのが意識された。ざぁっと風が小道を通過する。雲が流れ、頭上に影ができた。
「……マリー嬢」
「はい……」
呼びかけられて、何ですか? と答えようと振り返った。そして息が止まる。
「マリー嬢? どうかしましたか?」
歩みを止めてしまった私に、ロバート様は不思議そうなお顔で首を傾げた。私とほとんど変わらない背丈の少年。先ほどまでの穏やかな光景は消えさって、私はすでに半ば予期していた光景を目の当たりにする。
彼の頭は斧で割られたようにぱっくりと割れていた。まるで無花果のよう。紅い血の合間に、薄桃色をした脳みそがはみ出している。
今までになく至近距離から見てしまい、私の胃から酸っぱいものがこみ上げてきた。唾を飲み込んで吐き戻しそうになったのを耐える。ぐるぐると気持ち悪いものが食道のあたりを行ったり来たり。
「ろばーとさま……」
「マリー嬢、もしや気分でも悪いのかい?」
漂う鉄錆の匂い。鈍い錆のような匂いと饐えた臭いが入り混じる。
困惑したような王太子殿下。しかしその表情も、血に塗れると何とも空々しく見える。キンと耳の奥が痛んだ。お母様の言葉が蘇る。
限界だった。突然これまで堪えてきたものが爆発したように、目の前の少年が薄気味悪いものに見えてくる。
私はとっさに彼から距離を取る。膝ががくがくと震える。今しかない。言わなければ。「王太子に気を付けて」というお母様の言葉。乙女ゲームでのマリーの処刑。婚約破棄。そう、未来に私は婚約破棄され、捨てられる。
「どうしたの? マリー嬢」
心配そうな翠の瞳。私の胸を嵐が通り過ぎた。
ロバート様。あなたのその心配そうな表情は本心なの?
血塗れの恐ろしい姿をしたロバート様。この少年には得体のしれない何か裏の顔があって、それを隠しているのでは。そう思い始めると私の中で辻褄が合うような気がした。
冷酷に婚約者のマリーを切り捨てる乙女ゲームのロバート様。その冷酷さとこの姿が関係ないなんて言えるのかしら?
本当はその優等生の仮面の下で、私への悪意を隠しているんじゃないかしら。
そう思い始めると、だんだんとその考えが正しいような気がしてきた。お母様の忠告が耳の奥で木霊する。
耐え切れなくなった私の唇から、このところずっと胸にあった言葉が零れ落ちる。
「ロバート様……私、婚約破棄したいです」
転がるような私の言葉。ロバート様の瞳が驚愕に染まった。