番外編~美人の定義 第14話~
私たちは今、駅地下のファミレスで向かい合って座っている。
あの後、茫然と立ち尽くして動けなかった私の手を引き、ナオは改札口を出ると、我が物顔で歩き始めた。そして、気づけばファミレスに入っていて今に至る。
どう見てもイケメンの部類に入るナオと、実家に帰るために薄化粧にした不細工な私との組み合わせは、否応なく人目を惹く。ファミレスに入るという選択肢に異論はない。
くすんだ青地のワイシャツにダークグレーのスーツを着たナオは、宛ら社会人のように見える。暖房が効いていて暑くなったために弛めた首元から覗く喉仏が、彼が飲み物を飲むのに合わせて上下するのが艶かしい。
当時はカッコよくても幼さのある雰囲気だったのに、いつの間にかナオはちゃんと大人の男の人になっていた。
止まっていたと思っていた時間はちゃんと動いていて、それは私たちの上にも平等にあったということに、改めて気づかされる。止まっていたのは、私の心だけだった。それも既に動き始めている。
「ねぇ、どうして私に声をかけたの?」
ここに来るまで一言も発しない彼に、私は迷いながら訊いてみる。昔も確かにナオは口数が少なかったが、ここまで酷くはなかったのに。
ストローから唇を離したナオは、私を黙って見つめた。その瞳は複雑そうに揺れている。
「もう、私と話したくないの?」
いつまで経っても返答をくれないナオに嫌味混じりの質問を投げると、ナオは目を大きく見開いて首を横に振った。
「違う!」
低くて掠れた声に乗るのは、明らかな焦りで。それは昔となんら変わらない気がして、私は笑みを溢していた。
「相変わらずだね、そういうところ。…でも本当に何で?私のこと、嫌いでしょう?」
外見を偽って、彼を騙していたのは私だ。好かれているはずがない。
ナオはまた黙り込むと、今度は俯いてしまう。大きく呼吸をしたのか、肩が上下した。
「ナオ?」
「…嫌いになんか、なるわけないだろ」
「え?」
予想外の返事に、私は思わずナオを凝視してしまう。
嫌いになんか、なるわけないって…そんな、まさか。
有り得ない。有り得ないのに、私の耳には確かにそう聞こえた。
ナオは顔を上げて、戸惑う私を睨み付ける。真っ直ぐすぎて怖いくらいの視線に、体がぶるりと震えた。
「嫌いになったのは、お前の方だろ。俺を捨てたのは、多江じゃないか!」
ざわざわとした店内だから、少しぐらい声が大きくなっても誰も咎めない。事実、私の耳にも小さな声が届いたくらいのはずなのに、その言葉だけはやたらとはっきり聞こえた。
俺を捨てたのは、多江じゃないか…
「は?」
ここ最近、私は相手の感情の機微を読み取るのが下手だと思う瞬間はあった。世間一般には鈍感だと言われる部分が自分にあることも、重々承知している。
けれども、今ほど相手の言葉の意味が分からなかったことはない。
なんで、私がナオを嫌いになるの?
理解ができなさすぎて、開いた口が塞がらない。
よほど間抜けな顔をしていたのだろう。目の前の怒りを含んだ表情が、だんだんと訝しげなものに変化していく。
「…俺が多江を好きなの知ってて、わざと隠してスズナとして俺と付き合ってたんじゃないのか?簡単にスズナに溺れた俺を馬鹿にしてたんじゃ…」
スズナ、というのは私が当時使っていた偽名だ。久々に聞いたから違和感があるが、化粧で化けた私はスズナとだけ名乗っていた。
「…って、ナオはすっぴんの私が好きだったの?」
今の話を信じるならば、そういうことになる。
ナオと私は同じ高校に通っていた。接点はあったし、委員会が一緒だったから、会話をしたこともある。
けれども、そんなそぶりは一度も見たことがないし、地味で不細工な私のどこに好かれる要素があったのか不明だ。
そんなまさか、とナオの顔を見ると、ナオの顔は驚くほどに真っ赤になっていた。首や耳まで赤くなっている。
「ナオ!どうしたの?」
「んなこと、わざわざ聞くな!」
「聞くよ!体調悪いの?」
暖房が効きすぎだから、体調が悪くなったのだろうか。
ナオの顔を覗き込んだ私の右手を、ナオが捕まえて握りしめる。
「悪くねぇよ…!何でそうなる。多江を好きなのがバレて照れてるとか、思わないのか?昔から、多江は俺の言うことスルーするけど、本当に気づかないのか?」
そう詰られても、何に気づいたら良いのか。埴輪と言われ、様々な男に、体しか用はないという態度を取られ続けたのは私だ。
「だって、この顔だよ?地味で不細工で、勉強しか能のなかった私のどこに好かれる要素があったの?」
化粧をして綺麗になったから、ナオだって振り向いた。なのに何で今さらそんなことを言うのだろう。
ナオは深く息を吐き、そして私を見据えた。
「あのな、俺は高校の時、誰から何と言われようと多江が好きだったんだ。でもフラれるのが怖くて言えなかった。そんな時にたまたま友達との賭けに負けてスズナをナンパすることになった。なり行きで付き合うようになったから、余計に何も言えなくなったんだ。
そのうち、スズナの表情や仕草が多江と同じなのに気づいて、可愛いなと思うことが増えた。スズナに惹かれていって、本当に好きになれると思ったのに…お前、素顔を見せるから。
あぁ、これはきっと俺なんか興味ない、って言うための盛大な騙しなんだと知った。だから、別れたんだ。俺は多江にもスズナにもフラれたんだから、しがみついても仕方ないだろ?」
「嘘…」
そんな風に思っていたなんて知らなかった。
「…なんで、言ってくれなかったの?そうしたら、私は…」
もしもこれが本当ならば、どうしようもない誤解から生まれた、笑えない別れだ。
ナオは眉をしかめ、そしてぎこちなく笑う。
「そうだよな。言えば良かったんだ。『なんで騙したんだ』って。そうしたら、こんな辛い思いを抱えずに済んだんだ。
結局多江は遠くの大学に行って、もう会えなくなって。後悔だけが俺に残った」
過去の私は何て、自分を守ることに精一杯だったのだろう。周りの人の気持ちを慮ることもせず、自分だけが全てだった。
自分だけが可愛くて、自分が世界の中心だった。悲劇のヒロインになったつもりでいた。
「ごめんなさい…」
「多江」
「私はナオのこと、ちゃんと好きだった。初恋だったんだと思う。だから、私のことを受け入れてもらいたくなったの。多江としての私も、スズナとしての私も」
たくさんの人と付き合った。でも本当に好きにはなれなかった。
体を許しても、心は許せなかった。
ナオだけが、当時の私にとって光だったのだ。
私はナオの手を解くと、その鼻に指を押し当てた。それは当時の私たちの秘密の合図。
『バイバイ』
「私たち、逃げずにもっとちゃんと話せば良かったね。そうしたら、きっと今も一緒にいられたのに」
淡く微笑んで、鼻を押し上げる。きょとんとした表情はどこか間抜けで、それは当時は知らなかった彼の顔だ。
ナオの弱さを見ようとせず、輝いている部分だけを見ていたかつての私では、きっと見つけることなどできなかった。私の弱さ、本当の自分に向き合えたからこそ、こうしてナオの姿にも向き合えている。
「ナオのこと、一度も忘れたこともなかったよ。昔よく歌ってくれた歌も聴いてる。でもね今、愛してる人がいるの。どんな私も好きだと言ってくれる人なんだ。私も、彼のどんな姿も受け入れられる自信がある」
ナオとのことがあったから、私は秋野さんを愛することができた。だから、全てが間違っていたわけじゃないと信じている。
ナオはふっと力なく笑うと、背凭れに体を預けた。
「そっか…。多江にとって、あの頃は過去なんだな」
「うん。やっと過去にできたよ」
ゆっくりと指を鼻から離す。くしゃりと歪んだナオの顔を、しっかりと見つめたまま。
これが、本当に最後だ。私たちはもう出会うことはないだろう。
「ありがとう、ナオ。私はあなたのお陰で成長できた。あなたを好きになれて、とても幸せだった」
私は財布から千円札を出して机に置くと、席を立つ。そしてぐっと彼に顔を近づけた。心得たように、ナオが私の鼻に指で触れる。
「多江、本当に好きだった。幸せになれよ」
「ありがとう。ナオもね」
離れていく指が微かに震えていたことに、私はもう何も言わなかった。
ナオと別れて電車に乗った私は、母からの包みを開けることにした。中身次第では実家に送り返さなければいけない。
今時、風呂敷って…と思いつつ結び目を解くと、繊細な装飾のある小箱と、小さな弁当箱が入っていた。
「なんだろ…」
私は弁当箱を隣の席に置き、まずは小箱に手をかける。
ぱかりという音の後、中に見えたものに、私は言葉を失った。
どうして。
中には、黒真珠のピアスとそれの対になるブローチ、そして台座に大きなエメラルドが填まった指輪が入っていた。
それらは間違いなく、母が愛用していたものだ。指輪に及んでは、母が祖母から受け継いだ思い出の品である。こんなものをどうして母が私にくれたのだろう。
よく見ると、箱の蓋の裏側に紙が折り畳んで貼り付けられている。それを取り出して、素早く目を通す。
「お母様…」
ぽたり、ぽたりと紙の上の文字が滲む。私は目を擦ると、滲む視界のまま、今度はゆっくりと綴られた文字を読んだ。
『鈴江にガーネットの指輪、多江にエメラルドの指輪を。生まれた時からそう考えていました。あなたには、私が母からいただいたものをあげます。きっとあなたを守ってくれます。
黒真珠のピアスとブローチは、持っていても損はありません。くれぐれも捨てたりしないように』
ガーネットとエメラルド。それは鈴江お姉様と私の誕生石だ。まともに誕生日のお祝いをしてもらったことがなかったから、忘れられていると思ったのに。
流れるような文字からは何も読み取れないが、母にとって私は確かに娘で、今もそれは変わらないと伝えてくれた。
泣きながら手紙を元に戻して蓋を閉めると、今度は弁当箱を手に取って開けた。
中身を確認した瞬間、私の涙は止まらなくなっていた。口を塞いでも嗚咽が零れていく。
弁当箱には筑前煮とだし巻き玉子が入っていた。弁当には物足りない具だが、私にはこれが特別な意味をもつ。
筑前煮とだし巻き玉子は、私の好物だ。使用人がいるくせに、母は料理だけはきちんと自分で作る。その料理の中で、私はこの2つが好きだった。
今まで一度も言ったことはないのに。母はちゃんと知っていたのだ。
母は私を愛してくれていたのだ。それをこんな形で示されるまで気づけない、愚かな娘を愛してくれていた。
泣きながら私は筑前煮の人参を口に入れる。涙のせいでしょっぱいけれども、確かに母の料理だ。
下宿先の最寄り駅に着くまで、私は何度も泣き、そして昔を思い出していた。
改札口を出ると、私はとぼとぼと商店街を歩いて家路についた。終電だったから、人通りもほとんどない。
淋しい街並みを歩き、私は空を見上げた。
今日は本当に色々あった一日だった。
自分を清算しに行こうと思って出掛けたが、ここまで全てに決着をつけてくるつもりではなかった。
体にはかなり疲労が溜まっている。疲れた、なんて言葉では足りないくらい疲れた。けれども心は晴れやかだ。
私が考えていたよりも、私は愛されていた。私が悲観するほど、過去は暗くなかった。
怖いと思っていたものは、全て私の心が生み出していただけだった。
秋野さんとのいつかの別れに怯えていたのも、私が勝手に生み出したものだ。秋野さんのことを信じるということを忘れていた。
大切なのは、相手を信じること。
何をしたって結果は同じかもしれないけれど、その過程は全く異なる。相手を疑ってドキドキしながら一緒にいるよりも、相手を信じて一瞬一瞬を大切にいた方が幸せだ。
秋野さんがずっと示してくれていた愛情を、今なら素直に受け止められる気がした。
商店街を抜け、近くのコンビニを通り過ぎ、曲がり角を曲がる。アパートの階段を上り、自分の部屋へ急ぐ。早く秋野さんに連絡したい、それしかなかった。
階段を上りきって曲がると、私の部屋の前に人影があった。その人影はスーツを着ていて俯いていたが、私の気配に気づいたらしく顔をこちらに向ける。
「秋、野さん…?」
驚いて立ち止まった私に意を介さず、秋野さんは駆け寄ってくるとそのまま私を抱き締めた。
「多江!こんな遅くまでどこに行ってたんだ!連絡しても出ないし」
大好きな声が、耳元で震えている。どれだけいたのだろう。冷えきった髪が、私の頬を撫でた。
私は秋野さんの背中に自分の腕を回し、その体を抱き締める。
「連絡気づかなかった。ごめんなさい。…今日は、自分の過去を清算してきたの」
「過去の清算?」
「うん。思っていたよりも、私は幸せだったみたい。ちゃんと自分に向き合って、過去にけりをつけてきたの」
そう言うと体が少し離れて、訝しげに秋野さんが私を見た。赤くなった鼻に、心配そうな目。それだけで私を愛してくれているのが分かる。
温かくなった胸に笑みが零れて、同時に涙が滑り落ちた。
やっぱり私、この人が大好き。
「道治さん、私はどんなあなたも大好き。ずっと傍にいてね」
道治さん。
そんな風に呼び掛けたのは初めてだ。目を丸くする道治さんの顔が、やがて嬉しそうに綻んでいく。きっと、その意味は伝わったのだろう。
「多江。愛してる」
優しく甘く融けたその瞳に映るのは、幸せそうな私。
ずっとずっと欲しかったのは、自分を愛してくれる人だと思っていたけれど。本当はそれだけじゃなくて、信じることの意味と重みを教えてくれる人だったのかもしれない。
真っ直ぐに愛情を注いでくれる最愛の彼氏の顔が近づいてくるのを感じて、私はそっと目を閉じた。
おまけ~音楽を聴いてる二人~
スマホにイヤホンをつけ、道治と多江は一緒に音楽を聴いている。年齢の近い二人ではあるが、好みの音楽のジャンルが違うらしく、話が噛み合わない。
そこでお互いがダウンロードしている音楽を聴いて、曲名を当てようという話にまで発展し、今に至っている。
ここまで、多江は5問中1問の正解、道治は未だに一つも当たっていないという状態だ。多江の好みはクラッシックやオペラ、道治はジャズ。当たらないのもある意味当然といえる。
「あ、この曲知ってる」
不毛な勝負だったな、と多江が苦笑した時、不意に道治が嬉しそうな声をあげた。その声に我に返り、多江は耳に意識を向ける。
「あ…」
懐かしいメロディとともに、流れ込んでくるフレーズは、いつかナオが歌ってくれたあの曲のもので。
胸の奥からじわりと熱が広がった。
憂鬱な気持ちで 窓の外を見つめる
走り出したい衝動のまま 車に飛び乗って
貸し切りみたいな 高速道路を滑る
広がる二つの青と目の醒める緑色
昔流行った曲が 風に流れていく
一世一代の告白は あっけなく
すべて忘れて今は どこまでも遠くへ
壊れて砕けた恋は 夏の海に流してしまえ
そう笑う横顔に まだ近づけないけれど
あと少しだけこのまま
白い波が見えるまで
分かりきっていた結末に ため息ばかり
失敗したわけじゃない 好みじゃなかっただけ
一年も伸ばした 髪は切ってしまった
いつの間にか アップテンポな音楽に
隣で鼻歌うたう ふわふわ髪が揺れる
あの人とは全然似てない 何もかも
私を乗せてドライブ そんなところも
壊れて砕けた恋は 夏の風に流してしまえ
そう笑う横顔を 今は眺めているだけ
あと少しだけこのまま
砂の匂いがするまで
「一途だね」って言われるけど
本当は切り替えが下手なだけ
次の恋を始めるには
まだ時間が必要よ
ねえそれでも待ってくれる?
壊れて砕けた恋は 夏の音に流してしまえ
そう笑う横顔が 今日はとても眩しい
あと少しだけこのまま
潮騒が聞こえるまで
見上げた長身が くるりと振り返って
真っ直ぐ手を伸ばす その優しい瞳に
大きく鳴る鼓動 確かな予感
だから あと少しだけこのまま
あと少しだけ
「懐かしい…」
多江の呟きに道治がそっと彼女の肩を抱く。
緩やかに流れるサウンドはだんだんと遠くなっていき、多江は音楽を止めた。次いでイヤホンを外す。
「道治さん、曲名は?」
柔らかな声は少しだけ掠れている。道治は肩を抱く腕に力を込め、息をそっと吸った。
「『もう少しだけ』だろ」
「うん、正解…。有名な曲じゃないのに、よく知ってたね」
驚いたように体を離した多江が、道治の顔を覗き込む。道治は多江の頬にキスをして、くすりと笑った。
「初めてのデート…あのハイキングの待ち合わせの日。多江が口ずさんでたから。それで覚えてた。
あの時、俺は多江に見惚れてたんだ」
すれ違いだらけで行ったハイキングは、二人にとってほろ苦い思い出だ。しかし、それがあったから二人の未来が重なったのだ。
多江は頬を染めてはにかむと、道治の目を見つめる。
「今度、道治さんが歌ってくれる?そうしたらきっと、もっとこの歌が好きになれるから」
道治は黙って頷くと、多江の頭を抱き寄せる。そして多江の耳元に唇を近づけた。
「壊れて砕けた恋、忘れさせるから」
とりあえず完結。最後詰め込みすぎた感はありますが、放置するわけにもいかなかったので…うん、終わりよければ何とやらです。
余談ですがナオの本名は畑中直哉。結局出せませんでした。
次は瑞希の恋。じれじれじれじれ、っとする予定です。
ここまで読んでくださりありがとうございました。




