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番外編~美人の定義 第9話~

カランカラン、と扉に付いたベルが鳴り、私は音の方向に目を向けた。

店内に入ってくる姿は観葉植物が邪魔をしてよく見えないけれど、黒いスラックスと茶色の革靴が視界に入ってくる。

背を反らした美景さんにはその人物がはっきりと視認できるのか、ひらひらと手を振り、そして手招きをした。

人影がだんだん近づいてきて、私にもその姿を捉えることができるようになる。男性の顔を見た瞬間、私は思わず息を詰めていた。

「秋野さん…」

さっき、美景さんが秋野さんを呼んでいると話したことや、気軽に手を振ったことから、入ってきた人物が秋野さんだと分かっていたのに、実際に目にするまで信じられていなかった自分がいる。

秋野さんは美景さんを一瞥し、向かいに座る人間に視線をずらした。そして、あからさまなくらい硬直した。

「宮藤さん…何でここに」

喘ぐように漏れた言葉が、何よりも彼の本心を表している気がした。恐らく、いや確実に、美景さんは私がこの場に来ることを秋野さんに教えていなかった。…私に秋野さんが来るのを教えなかったように。

美景さんを見れば、悪戯が成功した子どもみたいな顔をしている。

私は静かに息を吐き出し、ゆっくりと瞬きをした。その動作で、自分の中でスイッチが切り替わったのが分かった。

「秋野さん、こんにちは。お久しぶりです」

できるだけ綺麗に唇が弧を描くように意識する。

薄氷に覆われた、感情の見えない冷たい微笑み。この笑みを美しいと評する人は多いが、きっと秋野さんはそんな風には評価しない。きっと、拒絶されたと思うのだろう。

それでも私は表情を崩さない。

美景さんの言うとおり、秋野さんが私を好きなのかもしれない。

けれどもそれはあくまで、かもしれない、なのだ。

もしもその予想が違っていたら、私も秋野さんも不幸になる。

それならば、ここできちんと道を別たれた方がお互いのためなのだ。

秋野さんは言葉を発することもなく、ただ私を見つめている。

美景さんから聞いていたが、痩せて一層シャープになった顎のラインや、目の下の隈、険しい表情は以前には無かったものだ。

それを目にすると、胸がチクチクと痛み、求められていなくても手を差しのべてしまいたくなる。


「私、帰るね」

どれだけ見つめ合っていたのだろう、ガタガタと椅子が動く音がして私は我に返った。それは秋野さんも同じだったらしく、はっとした様子で美景さんを見た。

美景さんは既に荷物を手にまとめ、立ち去る準備ができている。

「これから英史と会うの。あとは二人でしっかり話し合って」

にっこりと笑った美景さんは可愛い。

自分が可愛いことを理解し尽くして作った笑顔を振りまき、秋野さんを押し退けるようにして席を離れた。

「じゃ、またね」

ひらひらと手を振り、呆気にとられる私たちを残して美景さんは去っていった。

「…嵐みたいな人」

ぽつりと呟くと、秋野さんも困ったように微笑み頷いた。

「昔からああなんた。英史はよく付き合ってるよ」

久々に見た、幾分か解けた表情に、ほっとする。

表情は崩せないけれど、何故だか泣きたくなった。


秋野さんは向かいの席に座り、はぁ、と大きな溜め息を吐く。タイミングよくやってきたウェイターにアイスコーヒーを頼むと、ジャケットの前を寛げた。

「久しぶりだね。…元気にしてた?」

落ち着いた低音がふわりと耳に届き、私は暫し考えた後、首肯する。

「それなりに」

愛想のない返事に、秋野さんは目元を緩めた。以前のような、木漏れ日みたいな笑顔には遠い、退廃的な匂いのする笑顔だったが、柔らかい表情だ。

私は思わず安堵の息を漏らしたが、同時に、陰りのない温かな雰囲気が雲ってしまっていることに、胸が締め付けられる。


秋野さんの中で何かが大きく変化した。


その現実を突き付けられた気がする。

もう前には戻れないこと、これがきっと最後の逢瀬なのだと、本能的に察した。


「…俺は元気ではいられなかったよ。全然平気じゃなかった」


だから、秋野さんの返答の意味が、私には全く理解できなかった。

自嘲的な笑みを意味も、平気じゃなかったという言葉の真意も。

秋野さんは目線を少し下げ、机の上で指を組む。

察しの良いウェイターがそっとアイスコーヒーを机に置き去っていくのを待った後、彼は口を開いた。

「宮藤さんと最後に会ったあの日から、俺はひかりのこと、宮藤さんのこと、どう思っているのか。ずっと考えてた」

疑問で溢れた苦悩が、淡々とした口調に滲んでいる気がして、その重みに私は閉口する。

秋野さんは私の答えを期待していないらしく、話を続けていく。

「ひかりのことは好きだったけど、他の人に奪われても仕方ないと諦められた。離れれば淋しいけどそれだけだった。

なのに、宮藤さんは違う。他の人に笑いかける姿を見るだけで、胸が捻れそうなくらい苦しくなる。理由をつけてでも傍にいたくて、隣で笑っていてほしくて」

ゆるゆると顔を上げた秋野さんの視線が、戸惑いを隠せていない私の視線と交わる。

「やっと気づいたんだ。


俺は宮藤さんが誰よりも愛しくて仕方ない。大切にしたくて、笑顔にしたくて…俺の隣にいてほしい。


だから、ごめん。宮藤さんと友人でいるのは無理だ。本当は初めて出会ったあの日から、友人として見ることなんかできなかった。


俺は、宮藤さんが好きだ」


水気を多く含む真っ黒な双眸が、私をただ真っ直ぐに見据えている。

揺らぐことのないその色は、嘘を言っているようには見えなくて。

「なんで、なの。なんで私?」

頬を次から次へと伝う熱をそのままに、私は辿々しく問いかけていた。もう取り繕った仮面などどこかへ消え去っていた。

秋野さんは身を乗り出し、指で私の頬を拭うと、照れ臭そうにはにかむ。

「出会った時から宮藤さんの一つ一つの表情が、とても綺麗で可愛いと思ってた。再会してからは、宮藤さんの仕草や雰囲気に惹かれた。一緒にいると温かな気持ちになって、ずっと一緒にいられたら良いと思った。

会わなくなって連絡をしなくなってからは、宮藤さんのことばかり思い出して。苦しくて苦しくて、何度も会いたくなった。

それで分かったんだ。…俺はひかりのこと、異性として好きなわけじゃなかったんだって。

誰かを想う優しい気持ちも、譲りたくないって激しい感情も、宮藤さんにしか感じない。それって、宮藤さんに恋をしてて、好きで堪らないって証拠じゃないかな」

飾らない告白が、私の心を満たしていく。

触れた指が驚くほどに優しくて、そこから秋野さんの想いが伝わってくる。

「俺は、宮藤さんを笑顔にしたいのに、いつも泣きそうな顔をさせる。とうとう今日は泣かせてしまった。

本当にごめん。これが最後だから。俺は宮藤さんのことを忘れられないと思うけど、追い縋ったりしないから」

溢れて止まらない涙を何度も拭いながら、彼は検討違いも甚だしいことを言い募る。

私は頬に触れている指を掴むと、小さく何度も首を横に振った。

「最後、なんて、言わないで…!何で、何でっ、私の気持ち、聞かないの…っ?」

泣きじゃくりながら詰るから、言葉は細切れだ。秋野さんはそれをじっと聞き、そして顔を歪めた。

「宮藤さんの気持ち、聞きたくない。嫌いだと、友人としてしか見られないと、そうキミに言われたら俺は」

その後の言葉は続かない。

私は掴んだ指を強く握り締めると、涙でぐちゃぐちゃな顔のまま秋野さんを見た。

鏡が無くても、今の私の顔は酷いことになっていると分かる。けれども大切なのはそんな外見のことではなく、大きな勘違いをしている、大好きな彼に自分の想いを伝えることで。

「私も、秋野さん、が、好き…。なのに、最後なんて、やだぁ…っ、そんな、こと、言わないでよぉ…!」

幼児が駄々をこねるような響きに、自分でも呆れてしまう。

冷静で落ち着いた仮面の下には、自分すら知らなかった子供のままの自分がいた。…きっとそれは、高校時代に押し込めてしまった私自身なのだ。

やっと心のままに想いを伝えられて、長く凍りついていた時間が動き始める。

歪んだ視界を空いている手で拭うと、秋野さんが目を丸くして、私を見つめていた。信じられないという風な表情はやがて、泣く寸前みたいな笑顔に変わっていく。

秋野さんは私の手からするりと指を抜き、逆に私の手を握り込んだ。


「だったら、傍にいて。俺の隣にいて、笑って。もっと俺を頼って。俺は宮藤さんが好きだよ。澄ました顔のキミも、幼いキミも、好きだ。もっとキミを知りたい。もっと俺を知ってほしい。俺にキミを大切にさせて。


俺の、彼女になって」


叶わないと諦めて、閉じ込めてきた願いが、秋野さんの口から紡がれていく。


私の中で次から次へと言葉が生まれて、認識する前に弾けていく。泡立った炭酸水のように、いつまでもそれは治まってくれない。

代わりに私の目からはまた涙が溢れ出していた。

こんなに泣いたことない、というくらいに泣いたのに、どこから溢れてくるのだろう。


「宮藤さん。お願いだから頷いて。俺だけのものになってよ」


返事を乞う秋野さんの声が震えている。

優しい、その声に促されて、私は大きく頷いた。






なんとも恥ずかしい告白劇を終え、普段の落ち着きを取り戻した私たちは、ゆっくりとコーヒーを飲んでいる。

もちろんだが、お手洗いに行って、最低限化粧は直した。…鏡の中の私はお世辞にも綺麗じゃなく、むしろ化粧が剥がれて大変なことになっていた。


それなのに、秋野さんは好きだと言ってくれた。


思い出すと、仄かに胸が温かくなる。

席に戻りしばらくして、ウェイターがスコーンと熱いコーヒーのお代わりを持ってきてくれた。なんでも、私たちがうまくまとまったことへのプレゼントらしい。

その時に客があまりに来ないことに気づいて尋ねたら、マスターが気をきかせてcloseのカードを扉にかけておいてくれたと、こっそりと教えてくれた。

こういうことをさらりとやってのけるから、小さな喫茶店なのに人気が絶えないのだろう。

後でお礼を言わなければと思いつつ、コーヒーを飲む秋野さんの顔に目を細めた。

「なんだか…やっぱり痩せましたよね」

元々細身な体躯ではあったのたが、服越しにもシルエットが細くなっているのが見て取れる。

秋野さんはコーヒーを飲むのを止め、首を軽く傾けた。そしてしばらく考えた後、合点がいったという表情をした。

「この数ヶ月、あんまり食べられなかったからかな。眠りも浅かったし」

「何でまた…」

「うーん…落ち込むと食べ物が喉を通らないことあるよね。まさにそれ。宮藤さんに嫌われたんだとか、俺が傍にいるの迷惑だったんだとか思ったら、自分でもびっくりなくらいヘコんでた」

軽い口調で答えてくれたから流してしまいそうだったけれど、よく考えてみると、それだけ私のことを想ってくれていたと告白されているのと同じだ。

思わず熱くなった頬を、水面下で温度調節するが、どんどん熱をもつのを止めることができない。

「ひかりへの想いが恋じゃないなら、たぶんこれが初恋なんだ。だからどうして良いか、よく分からない。経験不足すぎてごめん。でもそのお陰で、宮藤さんのことが大きな存在になっていることに気づけたから良い」

照れたのか頬を染めてはにかむ秋野さん。少年のような笑顔は本当に可愛くて、綺麗だ。

あばたもえくぼ、とはこのことを言うんだろう。かつて平凡だと評したその顔が、今は輝いて見える。

きっと、どんなに容貌が整っている人に告白されても、今の私は受け入れることはできないと思う。どんなに優れた人にもだ。


秋野さんの真っ直ぐなところ、不器用なところ、自分のことに鈍感で、他人じゃなく自分を傷つけてしまうところ。


良いところも悪いところも含めて、秋野さんの一つ一つが好きだ。


秋野さんの心が好きだから、その内面を表す、穏やかで優しい、目立つことのない外見も好きになった。


外見だけで全てを測ってきた今までの私なら、絶対に選ばない人。

そんな彼を好きになった私が、今、とても誇らしい。

「好きです。秋野さん」

心のまま、私は囁き、そして溢れ出す感情のまま微笑んだ。

取り繕わない、ありのままの自分。

ずっとずっとコンプレックスだった自分自身が、嘘みたいだ。

秋野さんは目を大きく見開き、私を凝視した。そしてゆるゆると表情を綻ばせ、満面の笑みを浮かべる。


「やっと、笑ってくれた。やっぱりその笑顔が一番似合ってるよ」


こんな風に受け止めてくれる人がいるから、私は変わることができた。

過去を振り返れば、自慢できるような人生ではなかったし、秋野さんに話すことも躊躇われる。そしてこれから自分が変わっていくことにも不安がある。

けれども私の心を融かしてくれた秋野さんがいるなら、私は前を向いていられる。そんな確信がある。


「ありがとう」


その言葉に、やっぱり秋野さんは不思議そうな顔をし、そして柔らかく微笑んでくれた。

とりあえず一段落。

でもまだ多江の過去の話が解決していないので、ここからはその話に入っていきます。

あと少しお付き合いください。

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