番外編~美人の定義 第10話~
秋野さんと晴れて恋人同士になってから、私の生活は至って平穏だ。
美景さんにはあの後すぐに連絡をし、お付き合いをすることになったと報告した。美景さんはとても喜んでくれ、また詳細を教えてくれ、と笑い混じりにせがんでいた。
秋野さんとの交際は、付き合う前と変わらず驚くほど穏やかで、ただ一緒にいるだけで温かい気持ちになれた。
もちろん好きな人といるのだから、ときめかないことはないのだが、今までの自分の交際遍歴と比較するまでもなく、居心地が良い。ドキドキするのに安心する、なんて不思議な感覚がくすぐったくて仕方ない。
秋野さんは秋野さんで、順調な生活を送っているらしい。忙しそうに働いているが、その合間を縫って私と会うのが楽しみで、全然苦にならないとのこと。
そんなある日、私と秋野さんはいつものように、件の喫茶店『twilight』にいた。
元々常連ではあったのだが、あれ以来、秋野さんとの待ち合わせの場所として頻繁に利用するようになっている。
マスターの計らいで、大抵は店の一番奥の席に座るのだが、今日も例に漏れず一番奥の席だ。衝立もあり、ここは恋人たちのスキンシップが多少あっても目立たない。
いつものように私はオリジナルブレンドのコーヒー、秋野さんはミルクたっぷりのカフェオレを飲み、ゆったりと午後の一時を楽しんでいる。
「そういえば、多江」
頬を僅かに赤らめて私の名を口にする秋野さん。名前で呼ぶようになってからしばらく経つのに、未だに気恥ずかしいのか、毎回こんな調子だ。
そんな初心なところも可愛くて、きゅっと胸が甘く締め付けられる。
「どうしたの?」
二人して照れていても、と気を取り直して尋ねれば、何故か彼は視線を左右に彷徨わせ、そして真剣な顔をする。
「今年は年末年始、実家に帰るの?」
「実家?何で?」
予想外の質問に目を丸くして問い返すと、秋野さんは少し唸ってから、ぽつりぽつり話し出す。
「いや…この前、実家に全然帰ってないって言ってたから。今年はどうするのかなと」
「あぁ…」
実家のことを忘れていたわけではないが、敢えて考えないようにしてきたから、こうして改まって問われると返事に詰まる。
返答に困って、間の抜けた声を出した私に、秋野さんは眉をひそめた。
「今まで、踏み込んだ話をしても良いのか迷っていたけど、やっぱりきちんと多江のことを理解したいと思うんだ。
家族とうまくいってないの?」
黒みの強い茶色の瞳が、私のことを心配していると痛いほど伝えてくる。
やっぱり、言わなきゃダメだよね。
どう答えたら良いのか自分の中で言葉を整理し、私は唇を軽く舐めた後、口を開いた。
「家族、というよりも、あの街に帰りたくない理由があるの。それが理由で、大学も遠い場所を選んだのだし」
帰りたくない理由、という言葉に何を想像したのか、秋野さんの表情が険しくなる。
「秋野さんに、私の過去を話したこと無かったよね。そもそも大学からの知り合いは誰も知らないけれど」
「過去に、何かあったの」
彼の口調は最早疑問ではなく断定だったけれど、私は肯定も否定もせずに、曖昧に微笑む。
これから告げる過去が、どんな風に彼に映るのか、考えただけで悪寒が走る。心臓が早鐘を打ち始めて、気を抜けば泣いてしまいそうだ。
自分のしてきたことが、自分の首を絞める。
自分の過去を、これほどに呪ったことはないだろう。
こくり、と喉が鳴って、私は異常なほど緊張している自分に気づいた。
漂う静寂は、決して心地よいものではない。いつ決壊するのか、その瞬間を息を潜めて待っているような感覚だ。
「私、高校の時、何人もの男の子と、とっかえひっかえ付き合ってたの。もちろんプラトニックな関係の人もいたけど、体の関係をもった人もいる」
沈黙を破った声が、他人のものに聞こえる。
どこか遠い、自分には関係ない場所の話みたいに錯覚しそうだ。
自分のことを語る自分の唇や声帯も、まるで他人のもののようだ。
なのに、胸の痛みだけはやけに鮮明で。
これは幻影などではない、と現実に引き戻される。
「化粧すると、綺麗でしょう?だから、男の子が寄ってきた。本当にびっくりするくらい。
…あの時の私、浮かれてたのよ。普段は不細工で誰にも相手にされないのに、化粧をすると今まで見向きもしなかった人たちが愛を乞う。それが嬉しくて、自分は特別だと思ってた」
目を閉じれば、今でも鮮明に思い出せる。
浮かれた自分と、それに寄ってきた男の子たちを。
「けれど、そのうち不安になった。本当に私は、こんな風にちやほやされる価値があるのかって。好きだと言ってくれる目の前の彼は、本当に私を好きなのか…とても怖くなった。
だから、素顔を曝したの。そうしたらね、彼は冷たい目で私を見た。それはそうよね、私は彼に嘘を吐いていたんだもの。案の定、その後すぐに別れを切り出された」
彼の褪めきった目は、今も私を責める。一緒に砕け散った心の悲鳴も、未だに消えてはくれない。
「馬鹿よね、私。それまでは彼に本当に愛されていると、心のどこかで思っていて、自分を受け止めてくれると信じていたの。
…それからは、全てが怖くなって、私は逃げた。志望校を変えて、ここまで逃げてきた。
私は本当の恋…普通の恋をしてこなかった。歴代の彼氏は皆、私をお飾りで隣に置きたかっただけだし、私は自分の自信の無さを払拭したかっただけ。外見ばかりが綺麗な、中身がスカスカの、張りぼての恋しか知らなかった。
彼らの望む姿を保てない私は、要らなくなった人形と一緒で捨てられる運命にある。そう気づいたのは、秋野さんに出会ってから。それまでそんなことにも気づけなかった。
そんな私がどんな顔して地元に帰ったらいい?」
塞き止められていたものが溢れ出すように、私は一人で勝手に自分の過去を暴露していく。秋野さんは黙ったままで、そのことがまた、私の舌を滑らかにさせた。
自分の中で溜めてきたことを口に出してしまえば何のことはない、浅ましい自分が浮き彫りになり、言い訳をして過去を正当化して逃げた自分がそこにはあった。
そう、私は逃げた。
環境からも自分からも逃げて、現実と向き合うことから逃げた。
そして、秋野さんと出会ってからは、向き合ったふりをした。
相手も悪いけれど、自分も悪い。
そう言いながらも、どこかで運が悪かったと思っている自分がいたのも事実だ。
「今だから言えるけど、私ね、最初は秋野さんの言葉を信じられなかった」
それは自分の今までを根底から覆すものだったから。
「素顔を可愛い、と言ってくれた。化粧した顔を綺麗だと言ってくれた。どちらの私も否定しないでくれたから。だから、とても戸惑って…嬉しいのに、怖かった。ううん、今も怖いという気持ちは私の中にある」
本当は今、夢を見ているんだと感じている。目が覚めたら、元の私になっていて、本心から愛されたいと足掻く毎日が待っている。そんな風に考えている。
魔法が解けた眠り姫が目を覚まして現実を知ったように、何かの弾みで私の魔法が解ける未来は、いつでも日常と背中合わせに存在する。現実に還った後、待っているのは偽りだらけの毎日だ。
話し終えた私が感じたのは、悲しみでも苦しみでもなく、虚脱感だった。
いつかしなければいけない話なのは分かっていたけれど、本当はもっと秋野さんと一緒に時間を過ごしてからが良かった。
そうしたら、きっと。
「多江が、そんなに苦しんでいたなんて、俺は知らなかった」
ぽつりと落ちた言葉に、私は目を開けた。
同時に、怖いくらい真剣な目をした秋野さんがいて、唇をきつく結んだ姿が飛び込んでくる。
「多江が恋愛経験が豊富なのは分かってたよ。だって前に自分で言ったじゃないか…私はモテるって。それに、こんなに綺麗で可愛いんだから、彼氏がいなかったなんて言われた方が驚く。
もちろん、キミが他の男に抱かれたことがあると聞いて、冷静ではいられないし、正直腸が煮え返りそうだ。…けれども、全て含めて、今の多江なんだから。俺はそれを受け止めたい。
…今、こんなこと話したら嫌われるって思ってたでしょ」
「うん。…だって、こんな女だって分かったら、普通は嫌いになるもの」
色んな男を知っている身体、恋を遊び道具にしてきた幼さ、どれをとっても好意をもたれる要素など存在するわけがない。
身体だけの相手なら、それもありかもしれないが、真剣に交際したいなどと、誰が思うだろうか。
俯いた私に、秋野さんは大きな溜め息を吐き出した。
「あのね、俺の気持ちを見くびりすぎ。
俺は今の多江が好きなんだよ。器用だけど不器用で、打算的なふりをするけど実は優しくて、臆病なキミが好きだ」
真っ直ぐな想いが、落ち着いた声が、強張った心を解していく。
「ひかりへの想いを恋だと勘違いして動けずにいた俺に、キミだけは手を差しのべてくれた。誰もがそんな不毛な恋、諦めろと言ったのに。
それは打算ありの行動だったのかもしれない。すべて計算づくだったのかもしれない。でも、キミに利益なんか全く無かったはずだ。俺はキミに贈り物どころか、奢ったりもしなかったんだから。それなのに、付け入るどころか真面目にアドバイスをくれて、俺と一緒にいてくれた」
その言葉に顔を上げると、穏やかで温かな眼差しとぶつかった。
秋野さんは悪戯っぽく微笑み、 私の顔に手を伸ばす。そして何を思ったのか、頬を柔く摘まんでくる。
「…っ!秋野さん!」
驚きで目を見開くと、目の前の笑みがさらに深くなる。
「俺のことを信じていない多江におしおき」
ふにふにと頬を引っ張ってくる秋野さんは、いつもと変わらない様子で笑っている。その姿に自分の肩から力が抜けていくのを感じた。
「俺だって、ひかりを好きだと言いながら、勧められるまま他の女の子と付き合ったことあるし。でも結局恋が何なのか分からなくて、ひかりへの気持ちを異性へのそれだと勘違いしてて。
そもそもさ、ひかりを好きだと思ってたのに、多江を好きになった俺のが不誠実じゃない?二股じゃないけど、そんな気の多い男、信じられないって言われたって仕方ないことしたんだ」
「秋野さん、」
「つまり何が言いたいかって言うと、俺も自慢できるような過去をもってるわけじゃないってこと。
俺は今が好きだ。毎日が輝いて、楽しくて、幸せなんだ。でもそれを感じられるのは、恋が何か分からなくて、ひかりを恋の対象だと誤解して、悩んできた過去があるからだ。だから、俺は過去も嫌いじゃない」
頬を摘まんでいた指が、そっと頬を包む。羽箒のようにふんわりと撫でられて、自分の頬が熱をもち出す。
「そう考えると俺たちって、案外お似合いだと思わない?」
胸を撃ち抜かれる、というのはこんな衝撃なのか。
数瞬…心臓が、時間が、私のもつすべてが止まった。
そしてまた緩やかに動き出す。
知らぬ間に握り締めていた拳を解き、もどかしそうに頬を滑る指に手を添えた。
いつだってこの人は、私のマイナスをプラスに変えてくれる。
だから、私は自分ときちんと向き合えるのだ。
ありのまま在ることを認めて、寄り添ってくれるこの人がいるから。
「そんな優しいこと…言われたら、私…秋野さんにもっと夢中になっちゃう」
くすっ、と思わず笑うと、秋野さんも同じように息を吐き出し、ぐいっと身を乗り出してくる。
「もっと夢中になってよ。そうしたらもっともっと甘やかせるから」
冗談とも本気ともつかない返事は、軽やかな口調に乗せられる。口調に反してほんの少し、目の前の黒みの強い焦げ茶の双眸が甘く揺れたのはきっと気のせいではない。
「…ばか」
言うに事欠いたとはいえ、馬鹿はないだろう。そう自分に呆れながら、口から滑り落ちたその言葉が睦言のように艶を含んでいることに、らしくもなく照れてしまう。
敬語を使わなくなり、互いに触れることにも慣れてきたからか、最近は恋人らしさが増してきた。それがふとした瞬間に現れ、私はその度に戸惑う。それこそ過去の経験など皆無に等しいくらいに。
けれども、それが少し嬉しい。ちゃんと恋をしている、そう実感できるから。
気づくと、秋野さんは頬から指を離し、私の指に自分のそれを絡めて机の上に置いていた。触れたところから温もりが伝わって、知らず冷えていた指を暖めてくれる。
秋野さんは真剣な表情を作り、息を小さく吸う。
「前にも言ったけど。もっと俺を頼って。もっと甘えて。多江一人を受け止めることくらい、何てことないんだから。
俺、多江に告白したとき、多江のすべてを受け止める覚悟をしたんだ。重いって言われるだろうけどね。そのくらい真剣に、多江と付き合ってる。だから俺を信じて」
秋野さんの言葉はいつだって、私の心に真っ直ぐに届く。回りくどさのない、ありのままの飾らない想いは、思惑や過去や虚勢などが複雑に絡んだ棘のような心に、光を与えてくれる。
絡まった指に力を込めると、彼が照れ臭そうに笑う。
怖いくらいの殺し文句をあれだけ平然と並べられるくせに、こんなことくらいで照れる彼が分からない。けれどもそれすら愛しい。
「もう、秋野さんたら可愛い」
自然と口元が緩んで、笑いが込み上げてくる。
「何ではぐらかすかなぁ…真剣に言ったのに。しかも可愛いって、なんか複雑」
くすくすと笑う私に、秋野さんは不満げに顔をしかめた。それがへそを曲げた少年みたいで可愛らしく、私の笑いは収まらない。
「俺からしたら、そうやって笑ってる多江のがよっぽど可愛いんだけど。今、すごく可愛い顔してるって気づいてる?」
絡めた指を離し、頬杖をついた秋野さんは私の顔を上目遣いに見る。本人は不服だと言いたいのだろうが、残念ながら頬が赤いせいであまり伝わってこない。
私は笑顔のまま、秋野さんと同じように頬杖をつく。顔の距離が一気に近づいて、互いの吐息が聞こえそうだ。
「だって秋野さんの前だもの。好きな人の前で可愛いのは当たり前でしょ?」
「…多江……っ!」
言葉に詰まった秋野さんの顔が真っ赤になり、その様子は年上の男の人には見えない。
そんな姿を見られるのが、願わくば私だけでありますように。
昔なら、馬鹿けていると一蹴した願いを心の裡に宿し、私はぶつぶつと文句を吐いている愛しい恋人の様子を眺めることにした。
いつかこの関係に終わりが来るとして、その時、築いてきた思い出が両手から溢れ出るほどたくさんあったなら、私はその思い出に縋って生きていける気がするから。
秋野さんのいう覚悟を信じないわけではないけれど。それを盲目的に信じるには、私は多くの別れを経験してきた。いつかの、まだ見えない未来の結末のために、私は彼を瞼に焼きつける。
今はまだ、隣にいられる。
その幸せが胸に沁みて、じんじんと痛くなった。
幸せって、切なさと似ている。そう考えながら、私は微笑む。
「ねぇ、秋野さん」
秋野さんのことを今も名字で呼び続ける理由は、きっと彼には分からない。その歪さを薄々感じているかもしれないけれど、決定的な『何か』は見つけられないはずだ。
だってそうでしょう。
関係が変わって、距離が近くなって、お互いの情報が増えた今も、この関係が続いていくことを私が信じられていないなど、きっと思わない。
でも私は臆病なのだ。秋野さんのことが本当に大切で愛しいから、失ったときのことを考えずにはいられない。
「私、あなたといられる今がとても幸せよ」
だからまだ、傍にいてね。そして私に甘く微笑んで。
いつかの未来に立ったとき、私が私でいられるように。
秋野さんは目を何度も瞬かせ、そして恥ずかしそうに微笑んでくれた。
多江はクールなふりをしてますが、実はかなり臆病な小動物タイプの思考回路をしています。そのくせ現実主義でもあるから、悩めば悩むほど動けなくなってしまうのです。…まぁ、大人ぶってる彼女もまだ大学生。悩みの多いお年頃ということでしょうか。
これで少しずつ話が進んでいきますので、しばらくお付き合いください。




