銅貨一枚で買った宿屋
異世界に来て三日目、僕は銅貨一枚で宿屋を買った。
売り手がつけてきたのは、死亡免責書だった。
「ここにサインを」
冒険者ギルドの猫耳受付が、契約書を僕の前に押し出した。
紙は厚かった。
免責条項だけで三ページある。
以前、ゲストハウスを二年管理していた。普通の宿泊契約は、どこで吸ってはいけないかを教える。この契約は、どこで死んでも構わないかを教えてくる。
建物の倒壊、魔物の襲撃、食中毒、井戸の異常生物、および「予見不能だが、現地の常識に照らせば予見すべきだったあらゆる危険」は、すべてギルドの責任ではない。
「最後の一文は、どういう意味ですか」
「書いていないことが起きても、ギルドは知りません、という意味です」
「契約を書いた人は、僕の世界でも生きていけそうだ」
彼女は聞き流し、職業的な笑顔を保った。
契約書のいちばん上に、宿屋の名前があった。
|旧風笛亭。|
場所は青麦鎮の北三十里、魔物の荒野の南部。
現状欄は正直だった。
屋根の一部欠損。
井戸にスライムがいる疑い。
暖炉は点火不能。
近隣には長牙兎、岩背猪、迷子のオーガがたまに出る。
長所は四字だけ。
|敷地が広い。|
裏面には小さな字で、こうあった。取引に含まれるのは駅舎本体と周囲五畝のみ。駅舎機能を回復した場合、買主は『辺境開拓法』により範囲の拡大を申請できる。
「今から撤回は間に合いますか」と僕は聞いた。
「間に合います。銀貨一枚の契約破棄料をいただければ」
「宿屋は銅貨一枚ですよ」
「だから、たいてい誰も撤回しません」
もっともだった。
ポケットから最後の銅貨を出し、カウンターに置く。
「成立で」
腰の長剣が、すぐ震えた。
「反対する」
猫耳受付が剣を見下ろす。
耳がぴくりと動いた。
「これ、話します?」
「残念ながら、します」
剣は鞘の中で、ひどく不満げに唸った。
「言い方に気をつけよ。吾は暁の刃、星々の証人、かつて魔王の王冠を断った伝説の聖剣——グランセル・オルヴィア・フォン・カスティリオンである」
受付は真面目に聞き終えた。
「登録名は?」
「アラン」と僕は言った。
「絶対にだめだ!」
受付は携帯品欄に書いた。
|長剣、アラン、会話可。|
「次の方」
僕は天野陸。二十五歳。
三日前まで、新幹線の駅で遅延列車を待っていた。
放送は二十分の遅れだと言った。
仕事の返信を打ち、顔を上げると、ホームも列車も人も消えていた。
足元は、青い風鈴草の原っぱだった。
空には月が二つ。
遠くには竜もいた。
飛び方は遅かった。
僕はしばらくそれを見て、航空会社の新しい塗装ではないか確認した。
女神は現れなかった。
スキルを授ける声もなかった。
信号のない携帯、半分残ったビスケット、水一本、そして道端の石に刺さり、誰も話しかけてくれなくて自分から声をかけてきた剣。それだけだ。
アランは、運命が僕を選んだと言い張る。
僕は、当時十里四方に僕しかいなかったのだと思っている。
転移前、僕はチェーンのゲストハウスで二年、店長をしていた。
怒鳴りながらチェックアウトしようとする客を、まず座らせて水を出すのは得意だ。午前二時に、どの部屋の空調が漏れているかを見つけるのも得意だ。
いちばんの問題は、「融通ききませんか」と聞かれると、つい頷いてしまうことだった。
無料延長。
客の車代の立て替え。
定員オーバーも、まずは泊める。
店は三ヶ月連続で赤字になり、本部が閉店を決めた。
エリア責任者の評価は一行だった。
|人はいい。会計向きではない。|
だから僕は、二度と宿屋はしないと決めていた。
その決意は、三日持った。
理由も単純だ。
町でいちばん安いベッドが、一晩銅貨五枚。
僕の持ち金は一枚だった。
ギルドが、ついでに乗れる牛車を見つけてくれた。
代価は、残り半分のビスケット。
夕方、御者は荒野の路口に僕を下ろした。
「この道をまっすぐ」草のあいだに白石の小径がかすかに見えた。「いちばん歪んだ家が、旧風笛だ」
「近くに、他の家は?」
「昔はあった」
「今は?」
「潰れた」
御者は手綱を振る。
牛車は速かった。
僕はその場に立ち、夕日の魔物の荒野を見た。
風が、人の背ほどの草を撫でる。
翼のある白鹿が遠い丘を跳び、着地のたびに光る虫が散った。
土と野花と、夕食前の涼しさ。
草むらで時々光る目さえ無視すれば、保養地の宿屋に向いている。
「今なら牛車に追いつける」とアランが言った。
「伝説の聖剣だろう」
「だからこそ、勇ましく進むべき場所と、戦略的撤退をすべき場所がわかる」
「そっちの草の中は何だ」
「知らん」
「魔王を斬ったんじゃないのか」
「魔王は大きい。草の中の何かより見つけやすい」
長い枝を拾って、先を探る。
アランがまた震えた。
「なぜ僕を使わん」
「傷がつく」
「……理解し始めたな」
三十分後、旧風笛亭が道の先に現れた。
契約の絵より大きい。
歪みも、それ以上だった。
本館は三階建て、左の塔は半分崩れている。庭の林檎の木は真ん中から弓なりに曲がり、枝が二階の窓を貫き、反対側の窓から出ていた。
入口の木札は二字だけ残っていた。
|風 亭。|
真ん中は虫に食われていた。
大門を押す。
「きぃ——」
扉の軸が屋根を起こした。
数十匹の蝙蝠がばさばさと降りてくる。
アランが鞘の中で叫んだ。
「敵襲! 抜け!」
「蝙蝠だ」
「蝙蝠も柄を噛む!」
広間は厚い埃だった。
椅子は倒れ、階段は三段欠け、シャンデリアは鎖一本。カウンターの後ろで銅の鈴が伏せられ、かびた部屋札が散らばっている。
壁には何十年前かの献立が残っていた。
牛肉の煮込み。
蜂蜜の焼き菓子。
月光茸のスープ。
値段は、もう読めない。
広間を一周する。
荷重柱に、今のところ裂けはない。
厨房の煙道はある。
カウンターの下には、錆びていない釘が半箱残っていた。
「直せる」と僕は言った。
「鍋が漏れている」
「補修できる」
「窓がない」
「つけられる」
「屋根に穴がある」
顔を上げる。
夕焼けが三階から広間まで落ちていた。
穴、と呼ぶには遅かった。
吹き抜け、と言うべきだった。
「まずは一階に泊まる」
アランが黙り、少しして言った。
「リク」
「ん」
「お前は楽観的なのではない」
「じゃあ何だ」
「金がない」
剣をカウンターに置く。
「今夜は油を塗らない」
「先の言葉は撤回する。ここは将来性がある」
裏庭の井戸には、案の定スライムがいた。
青くて丸くて、頭に木桶の半分をかぶっている。
近づくと、井戸から透明な触手が伸び、錆びたスープスプーンを差し出してきた。
「どういう意味だ」
「家賃かもしれない」
「スプーンで水を汲め、かもしれない」
スライムはスプーンを、さらに僕の手へ押す。
受け取る。
嬉しそうに「ぽ」と鳴った。
「これからジェリーだ」
「ぽ」
「同意したのか」
「泡かもしれない」
ジェリーは井戸から上がり、広間までついてきた。
かびた絨毯を一口。
埃を二塊。
カウンターを舐めようとしたところで、間に合って抱き上げる。
「掃除は上手い。担当範囲は決めた方がいい」
「スライムを雇い始めたのか」
「お前より役に立つ」
「一度、雨戸を押さえさせてから言え」
古い材で破れた窓を塞ぎ、広間の中央で火を起こす。
火が安定したところで、外に雷が鳴った。
雲が荒野の果てから落ちてくる。
数分後、豪雨になった。
雨水は屋根の吹き抜けから、広間へ直接落ちた。
寝具を抱えてカウンターの陰に入り、いちばん酷い位置に木盆を置く。
雨戸が風に揺れる。
アランを横にして押しつける。
「吾は聖剣だ!」
「聖剣は重い」
「古代遺物への侮辱である!」
「明日、油を塗る」
「左がまだ漏れている。もう一枚」
ジェリーは青い薄焼きになり、戸の隙間を塞いだ。
少なくともアランより、自分から動く。
雷が屋根を転がる。
宿屋全体が、風の中で小さく鳴った。
契約書が倒壊を第一条に置いたのは、脅しではなかったのかもしれない。
そのとき、外でノックがした。
弱い。
すぐ、二度目が来る。
戸を押さえていた椅子をずらす。
アランがすぐに言った。
「先に誰か聞け。荒野でノックするものが、人とは限らん」
「誰だ」
外が、少し黙った。
疲れのはいった女の声が、雨風の向こうから届く。
「すみません……こちら、まだ旅人を泊めていますか」
扉を開ける。
豪雨の中に、灰色の長い耳を持つ十六人が立っていた。
背は低く、誰もが継ぎはぎのマントを着ている。先頭の女が赤ら顔の子供を抱き、後ろの老人は種と農具と濡れた布団を積んだ壊れた車を押していた。
全員、ずぶ濡れだった。
女は広間の盆と破窓と吹き抜けの屋根を見て、明らかに立ち止まった。
「もう閉店なら、馬小屋でも構いません」
自分の宿屋を振り返る。
無事なベッドは一床。
鍋は穴だらけ。
食べ物は水が半分。
暖炉はつかない。
灰色の耳が、この世界で人なのか、魔物なのか、追加登録が要るのかも、まだわからない。
経営の判断をするなら、受け入れる力はなかった。
だから、扉をいっぱいに開けた。
「泊まれる」
「最初の一晩は、無料だ」




