第27話 祝宴
「ああ、ごめんフレデリカ。主賓はもちろん君だよ。初めまして、僕はジュリアン・ド・リュリ・サヴォイ。サヴォイ大公家の、不肖の嫡男だ。君に会えるのを、ずっと楽しみにしていたよ」
サファイアを溶かし込んだような瞳が、眩いほどの親愛を向けてくる。あら、ジュリアンに助けられましたねお父様。彼が割って入らなければ、あなたの引きつった笑顔は今頃、修復不可能なほどに崩壊していたでしょうに。
でもね、まだ少しだけ続けさせていただきますわ。腹の底で渦巻くこの苛立ちは、一刺しの嫌味程度では到底収まりきらない。何もしなかったら、今夜はあなたと出会った不快感で一睡もできそうにないもの。
「ご丁寧に恐れ入ります、ジュリアン様。お目にかかれて光栄ですわ。私はフレデリカ・ド・ベルゼ・バランシエール。……愛する父より、至らぬ娘と折り紙付きの教育を受けております公爵令嬢にございます」
「そ……そんなことはないさ。君も十分素晴らしいと聞いているよ。その、とても聡明な子だって」
「左様でございますか? 父からは常々、皇都で暮らす妾の息子にも劣る、出来損ないの人形だと叩き込まれておりますの。私のような『汚点』は、高貴な皆様の前では常に口を噤み、影のように控えていなければなりませんわ」
「……え、えっと、それは」
ジュリアンが言葉に詰まり、視線を泳がせる。お父様の顔はもはや土気色を通り越し、額には青筋が浮かんでいる。隣のお母様は、いつ私が取り返しのつかない爆弾を投げ落とすかと、生きた心地もしない顔で扇子を握りしめていた。
まあもう落としてしまったのだけど。ふふ、この辺にしておきましょうか。あまり追い詰めすぎると、お父様が理性を失って、子供のように本気で怒り出しては困るもの。
それで二度とこの家に近づかなくなるのは構わないけれど、私の『計画』にはまだ、この男の社会的地位が必要なの。
「冗談ですよ、ジュリアン様。少し自分の緊張をほぐそうとしただけですわ。……それよりも、聞き及んでおります。大公息殿下は、神の指先を持つと称されるほど、素晴らしいピアノを奏でるのだとか」
「あ、ああ、うん。……あはは、光栄だな。でも、僕の自慢みたいになっちゃうね。ごめん、今日は君が主役なんだ。僕のことなんてどうだっていい。それより、君がチェロを選ぶって本当かい?」
私の楽器がチェロであるという情報は、隠そうとしても隙間風のように社交界へ漏れ出す。その選択が、帝国の貴族社会において『眉をひそめる行為』であることは理解している。
公爵家の令嬢ならば、ハープやバイオリンといった、美しく、かつ伴奏を従えて輝く『主役の楽器』を選ぶのが鉄則だ。チェロを選ぶということは、音楽の夜の土台に徹し、他者を輝かせるための脇役に甘んじることを自ら宣誓するようなもの。
それは本来、生活のために合奏の端に加わる下級貴族の役回りであり、公爵家の娘が選ぶ道ではない。おかげでお母様を説得するのも少し難儀した。
「左様でございます。よくご存知ですね、ジュリアン様」
「う、うん。その……皇都でも、ちょっと『変わった子』がいるって噂になっていたから。伝統を重んじるバランシエール公爵家で、あえて低音を望む令嬢がいるって」
「公爵領からは一歩も出たことがございませんのに、そのような風評が? 光栄なことですわ」
「えっと、はは……まあ、そうだね。個性的でいいと思うよ」
三歳児が足から血を流すまでダンスの練習に没頭し、序列第二位の大公家以外に上に立つ貴族がいない、名門公爵家の令嬢でありながら、わざわざ『伴奏の奴隷』とも揶揄されるチェロを手に取る。
皇都の連中からすれば、私はさぞかし滑稽な奇人変人の類に見えるのだろう。
この幼さで、それをストレートにぶつけず、必死に言葉を選んでフォローしようとするジュリアンは、本当に賢い子だ。そして、吐き気がするほど優しい。
その優しさが毒に変わることなく、ずっと純粋なままであったなら、私も一度目の人生でこれほど狂わずに済んだのでしょうね……。
「……ジュリアン君」
あら、あれほど公衆の面前で嫌味を叩きつけて差し上げたのに、まだ会話の主導権を奪い返そうとするのね。いい加減に黙れと念じても、残念ながらこの場で最大の権威を持つのは、公爵であるお父様だ。
私はその威厳のある父の声に、煩わしさを覚えた。
「はい、何でしょう、公爵様」
「良ければ、娘の不恰好な演奏に、君のピアノで花を添えてやってはくれないかな。……うちの娘は何を血迷ったか、チェロを弾くなどと言い出してね。私が皇都での公務に追われている間に、妻も感化されて認めてしまったようだ。これではあまりに娘がかわいそうだ。名門の令嬢が、一人で重苦しい音を立てるだけではね」
「あなた、それはあまりに——」
「お母様。……お父様、とても素晴らしいご提案ですわ。是非ジュリアン様と音楽を共に奏でることができれば、私にとってもこれ以上の誉れはございませんことよ」
お母様が遮ろうとした言葉を、私はさらに上から塗りつぶした。正直、ここまでプライドを傷つけられたお父様なら、私を舞台に上げることすら拒むかと思ったけれど。
そう。どうしてもジュリアンをぶつけることで、私の評判を地面の底まで沈めたいのね。牙は隠すものだ。必要な瞬間にのみ、致命的な一撃として振るえばいい。
無闇に晒せば、獲物に余計な警戒を抱かせるだけ。そんなことは、死に物狂いで学んだ前世で嫌というほど理解している。
戦略的に考えれば、ここでお父様の挑発を受け流し、平穏に誕生祭を終えるのが正解だ。今の私なら、いくらでも慇懃無礼に断る方法を持っている。
けれど、ダメなのよ。
喉元までせり上がったこの苛立ちが、二度と誰にも見下されたくないという業火が、私の理性を焼き尽くしている。ふふ、私のプライドの高さは、相変わらず救いようがないわね。
一度目の人生では、その傲慢さゆえに全てを失って断頭台に昇ったというのに、私は何一つ懲りていないらしい。
「フレデリカ、考え直して。ジュリアン殿はあの大公家の麒麟児なのですよ。彼のピアノと並んで、あなたのチェロがどう聞こえるか……」
「お母様、案ずることはありませんわ」
「いいえ、母にはあなたが分かっているとは思えないのです。あなたのチェロは、何というかその……」
お母様は苦虫を噛み潰したような顔で言葉を濁す。どうしたのかしら、まるでお腹を下した子供を見るような目をして。私のチェロが、この数ヶ月でどれほど異常な上達を見せたか、お母様もご承知のはず。
私の音から、お母様が危惧しているような『拙い不協和音』はとっくに消え去っている。
純粋な技巧の積み上げでは、確かにジュリアンに一日の長があるでしょう。けれど、私にはこの魂に刻まれた怨念と、共鳴するグラディウスがいる。
「……それなら、僕が別の楽器を持とうか? ピアノだと音が立ちすぎてしまうかもしれない。バイオリンでも、フルートでも、君に合わせるよ」
ジュリアンのサファイアの瞳に、憐れみにも似た色が混じる。
『僕のピアノは、君のチェロを台無しにするほどに完璧すぎる』
無自覚な傲慢さが透けて見えるその申し出は、私の心に冷たい炎を注いだ。ジュリー。あなた『また』その言葉を言ったわね?
「いいえ、ジュリアン様。是非、その『神の指先』でピアノを。私のチェロが、あなたの音を汚さぬよう努めますわ」
私は、心の中が燃え上がりそうなほどの最高の殺意を込めて微笑んだ。
「でも、これは君の誕生日だろう?」
「いいえ、ジュリアン様。私が聞きたいのは、あなたの真実のピアノです。バイオリンなど、嗜み程度に触れたことはあっても、一度も真剣に弾いたことなどないのでしょう? そんな、魂の籠もらぬつまらない音楽を私に聞かせないでくださいな」
「つまらない?」
「ええ、ピアノでお願いしますわ。音楽には常に真剣であるべき。……大公家の嫡男として、その程度の矜持はお持ちなのでしょう?」
「……も、もちろんだよ。ごめん。そうだよね、君の言う通りだ。わかった。……じゃあ、手加減なしに真剣に弾くけれど、本当に、後悔はしないんだね?」
「はい。是非、その最高の音色で私を導いてくださいまし」
一度目の人生での私は、何も知らない無垢な子供だった。ジュリアンの放つ光り輝くような旋律と、私の平凡な音楽が合わされば、私の音もまた至高の領域へと昇華される。そんな甘い幻想を抱いていた。
だが、現実は残酷だった。大人たちの鳴り止まない拍手は、私に向けられてなどいなかった。私への賞賛を全て食らい尽くし、舞台を独占するジュリアンの影で、私はただの不格好な背景に成り下がっていたのだ。
お母様は、誕生日の度に募る周囲の嘲笑に耐えかね、私への当たりを余計にきつくしていった。いつしか私は自分の誕生日が嫌いになった。
自分が母を苛立たせ、大人たちが公爵令嬢である私の無能を嘲笑する理由を理解してからは、尚のこと、この日が呪わしく思えてならなかった。
「おや、何のお話ですか? とても楽しそうですね」
鈴を転がすような、けれど凛とした声が響いた。この一触即発の状況で、他の貴族が割って入ることなど万に一つもあり得ないはずだが、私は反射的に声の主を振り返った。
そこには、フードを深く被った、私より少し背の高い少女を連れた一人の貴婦人が立っていた。
会場の喧騒が、潮が引くように静まり返った。人々の視線の先、お父様とお母様が顔色を変えて最敬礼で迎えるその先に、アトラス帝国の国母、皇妃パトリシア様が立っておられた。
絹のように滑らかな肌。蜂蜜色の美しい髪は、夜会の主役である私に配慮してか華美なティアラを排し、緩やかにまとめられている。
そこには皇家の紋章を刻んだ小さな銀の髪留めが一つだけ、慎ましく、確かな権威を帯びて輝いていた。
その装いは最小限に抑えられているが、皇妃様がそこに立つだけで、空間そのものが浄化されるような圧倒的な存在感が際立つ。
それだけに、皇妃様の背後に隠れるようにして立つ皇女エルフレイドの姿は、異様の一言に尽きた。深いフードに全身を包み、周囲の光を極端に避けるその佇まい。
なぜ、私のような公爵令嬢の誕生祭に、今まで人目に出てきたことがない皇女が姿を現したのだろうか。
「これはこれは皇妃様。……何でもない、子供同士の他愛ない約束事をしておったのです」
お父様との言葉遊びも、これで終わりね。皇妃様は、前世において私が見限られるギリギリの瞬間まで、慈悲深く味方でいてくれた唯一の大人だ。さすがにこの時点から『可愛げのない小娘』などという印象を持たれたくはない。
「皇妃様、本日はご来臨賜り、身に余る光栄にございます。……それと、初めましてエルフレイド様。私は――」
「フレデリカね」
意外にも、私の言葉を皇女が先に口にした。フードの奥から響いた声は、驚くほど透き通り、それでいて確かな熱を帯びている。私は一瞬、気勢を削がれた。
「は、はい。私の名を知っていただけているなど、恐悦至極に存じます。本日は私のささやかな誕生祭にお越しくださり、心より感謝申し上げますわ」
「いいえ、こちらこそ突然押しかけてしまってごめんなさいね。私は皇女エルフレイド。……フレデリカ、あなたと後で、どうしても少しお話がしたいの。お時間をいただけないかしら? もちろん、パーティーが完全に終わって、あなたの用事が全て済むまで、私、ここでちゃんと待っているわ」
「皇女殿下をお待たせするなど、臣下としてあってはならぬことだ。フレデリカ、今すぐ席を抜けて、皇女様のご案内をしてもよいのだぞ」
お父様が、優しい気遣いを見せてくる。だが、社交辞令であることは明白だ。今ここで主役の私が場を放棄すれば、誕生祭はどうなる。お父様は私を試しているのか、あるいは失敗を誘っているのか。
「まあ、それはよろしいの? じゃあ、すぐに――」
「これ、エルフレイド。誕生祭の主役を勝手に連れ出す子がどこにいますか。宴が終わるまで待つ、それが約束ですよ。……ごめんなさいね、フレデリカ。この子は普段、本当に外に出たがらないのだけれど、どういうわけかあなたとだけはお喋りしたいと言い出して聞かなくてね。後で少し、時間を割いてあげてくださる?」
「皇妃様のお言葉とあらば、いくらでも作らせていただきます。皇女様、少しばかりお待ちいただく不忠をお許しください」
「残念だけど待ちますわ」
あきらかにふてくされたような皇女様の声だった。このような性格の方だったのかと私は新鮮な気持ちになった。
「ふふ、公爵、貴方の娘はとても聡明で、誇らしい子ですね。よければエルフレイドの良き友人になってあげてください。この子は、この様子ですから全く友達がおりませんのよ」
「お母様! 余計なことを言わないでくださいまし!」
「ふふ、あなたがそれほど楽しそうで安心したわ。……それで、先ほどは何のお話をされていたの?」
皇妃様がそう問いかけた瞬間、会場を支配していた和やかな空気が、わずかに引き締まった。彼女は、先ほどまでのお父様と私の間の不穏な空気を、知らなかったとは思えない。
それほど鈍感では帝国の皇妃など務まるはずがない。おそらく私に助け舟を出してくれた。皇妃様は、いつだってこのように賢明で、慈愛に満ちた方だった。
この皇妃様ですら最後には私を見限ったのだけど、それでも私はこの人を嫌いになりきれないでいた。
「はい。私がこれから余興としてチェロを奏でますので、ジュリアン様にピアノで伴奏をしていただけないかと、お願いを申し上げていたところですわ」
「まあ……それは驚きました。公爵家の令嬢がチェロを、それもジュリアンのピアノと合わせるとは。……ふふ、わからずに言っているならまだしも、あなたの瞳には深い理解の色がある。全てを知った上で共演するなら、それはとても興味深いわ。是非、聞かせてくださるかしら」
皇妃パトリシア様の瞳に、期待の色が宿る。
「ああ、なら私もフルートを持ってくればよかったわ。フレデリカの隣で吹きたかった」
「そうね、エルフレイド。でも今日は我慢なさい。主役を困らせてはいけませんよ」
「……皇妃様、皇女様。どこまでご期待に沿えるかは分かりませんが、精一杯務めさせていただきます。……それではイメルダ先生。準備を、よろしいかしら?」
私が合図を送ると、いつの間にか背後に控えていたイメルダ先生が、音もなく一歩前へ出た。
「お嬢様。こちらに」
彼女が差し出したマジックボックスの中から、五歳になったばかりの幼い娘が持つには、あまりに巨大で、不釣り合いなほどに重厚なチェロが姿を現した。
それは私の身長を優に超え、漆黒の木材がシャンデリアの光を鈍く跳ね返している。
私はそれを、体内の魔力を指先に集中させ、宝物を扱うような手つきで受け取った。一ミリたりとも床にこすらせぬよう、細心の注意を払いながら。
「……それは、魔楽器ですか?」
皇妃様が、目を見開いて私を凝視していた。その場の貴族たちも、ただの子供用楽器ではない、そのチェロから放たれる異質な魔力波に、息を呑んだ。




