第237話:野望の終焉
西郷との死闘を終えた本丸御殿で、新八は首謀者たちの姿がないことに気づく。
包囲された城から、彼らはいかにして逃亡を図ったのか。
西郷隆盛との死闘が終わり、本丸御殿の大広間には静寂が戻りつつあった。
家茂(大統領)閣下が、自らの陣羽織を西郷の背中にかけたその時。俺は、ふと、ある者たちの姿が見えないことに気がついた。
(……大久保と岩倉は、どこへ行った?)
西郷が一人で広間に立ちはだかっていたということは、あの二人はすでに逃亡したと考えるのが自然だ。
だが、本丸の周囲は大和軍(北海道軍)によって完全に包囲されている。表門からも裏門からも、ネズミ一匹逃げ出す隙間はないはずだ。
「……トシさん。近藤さんは?」
俺は、傍らにいた土方さんに小声で尋ねた。
そういえば、先ほどまで俺と西郷の決闘を見守っていたはずの近藤さんの姿も、いつの間にか消えていた。
「ああ、局長なら……『ネズミ捕り』に行ってるぜ」
土方さんは、ニヤリと笑って、御殿のさらに奥の方角へと顎をしゃくった。
「ネズミ捕り?」
「この江戸城にはな、将軍や幕閣だけが知る、いざという時のための『秘密の抜け穴』がいくつも隠されてるんだ。……旧幕閣からの情報でな……近藤さんは、その抜け穴の構造を知悉している」
なるほど、そういうことか。
大久保や岩倉が、その抜け穴の存在を知っていたとしても不思議ではない。彼らは、かつて幕府の中枢に食い込んでいた時期もあるのだから。
そして、近藤さんは、彼らがその抜け穴を使って逃げることを、最初から予測していたのだ。
「……俺も行きます」
「いや、俺が行くからお前はここで休んでろ。右腕、かなり無理しただろ」
土方さんの言う通り、西郷の剛剣を受け止めた俺の右腕は、今も微かに痙攣している。
「それに、これは……近藤さんと俺の『落とし前』をつけるための戦いでもあるからな」
土方さんの言葉に、俺は黙って頷いた。
◇
その頃、本丸御殿の地下深く。
冷たく湿った空気が漂う、石造りの隠し通路を、二つの影が慌ただしく進んでいた。
「急げ、岩倉殿! 出口はもうすぐだ!」
「分かっておじゃる! じゃが、この金塊が重くて……!」
大久保利通と岩倉具視。
新政府の頂点に君臨し、日本を意のままに操ろうとした二人の男は、今や泥にまみれ、息を切らしながら暗い地下道を逃げ惑っていた。
彼らの手には、逃走資金となる大量の金塊や、諸外国との密約を記した重要書類が抱えられている。
「まだだ、まだ終わらん……!」
大久保は、血走った目で前を睨みつけながら呟いた。
「薩摩と長州には、まだ我々に味方する部隊が残っている。それに、英国のパークス公使も、我々を見捨てることはないはずだ。……一度国元へ戻り、体勢を立て直す。そして、必ずやあの忌々しい大和軍を打ち破ってやる!」
大久保の頭の中には、すでに次なる反撃のシナリオが描かれていた。
彼にとって、この敗北は単なる「一時的な撤退」に過ぎない。自らの野望を達成するためならば、何度でも這い上がり、どんな手段でも使う。それが、大久保利通という男の執念だった。
「見えた! 出口の光でおじゃる!」
岩倉が、歓喜の声を上げた。
長く暗い通路の先に、外の光が差し込む四角い出口が見えてきた。あそこを抜ければ、江戸城の外堀へと通じる隠し船着き場に出られるはずだ。
「よし、一気に駆け抜けるぞ!」
二人は、重い荷物を抱え直して、出口へと向かって走り出した。
しかし。
出口の光を遮るように、一つの巨大な影が、音もなく立ちはだかった。
「……逃がさんぞ」
低く、地を這うような声。
逆光を背に受けて立つその男の姿に、大久保と岩倉は、まるで雷に打たれたように足を止めた。
「な……貴様は……!」
大久保の顔が、驚愕に歪む。
「近藤……勇……! 馬鹿な、貴様は死んだはず……!」
「ああ、地獄から戻ってきた」
近藤勇は、ゆっくりと、腰の愛刀・長曽祢虎徹を抜き放った。
チャキッ、という冷たい金属音が、地下通路に響き渡る。
「お前たちの悪事を、裁くためにな」
近藤の瞳には、かつての温厚な「局長」の面影はなかった。
そこにあるのは、悪を絶対に許さないという、冷徹なまでの「誠の正義」。それは、彼が「影」として生きていた時代に培われた、真の武士の眼差しであった。
「ひぃぃッ!」
岩倉が、金塊の詰まった袋を取り落とし、腰を抜かしてその場にへたり込んだ。
「た、助けてくれ! 命だけは……命だけはお助けを!」
岩倉は、震える手で近藤にすがりつこうとする。
「金ならやる! この金塊、全部くれてやる! それに、地位もだ! お前を、新政府の軍務大臣にしてやってもいい! だから、見逃してくれ!」
なりふり構わぬ命乞い。
かつて、偽の帝をでっち上げ、国を意のままにしようとした男の、あまりにも惨めな末路だった。
近藤は、すがりつく岩倉を、汚物でも見るかのような冷ややかな目で見下ろした。
「……俺が欲しいのは、そんなものじゃない」
近藤は、虎徹の切っ先を、岩倉の喉元へと突きつけた。
「俺が欲しいのは、誠の正義だ。……貴様らが踏みにじった、多くの者たちの命と、そしてこの国の未来を、返してもらう」
「ひっ……!」
岩倉は、恐怖のあまり失禁し、白目を剥いて気絶した。
「……ええい、不甲斐ない奴め!」
大久保は、気絶した岩倉を蹴り飛ばすと、懐から小型の回転式拳銃を取り出し、近藤へと銃口を向けた。
「近藤勇! 貴様ごときが、私の邪魔をするな! 私は、この国を……日本を、西欧列強に負けない強国にしなければならないのだ! そのためには、多少の犠牲など……!」
「その『多少の犠牲』の中に、自分自身は含まれていないのか?」
大久保の背後から、もう一つの声が響いた。
いつの間にか、大久保たちの退路を断つように、土方歳三が立っていた。
彼もまた、愛刀・和泉守兼定を抜き放ち、大久保に切っ先を向けている。
「ひ、土方……!」
前門の虎、後門の狼。
完全に逃げ場を失った大久保は、銃を持つ手を震わせながら、近藤と土方を交互に睨みつけた。
「お前たちの言う『強国』ってのは、民を犠牲にして、一部の人間だけが甘い汁を吸う国のことか?」
土方が、冷笑を浮かべて言う。
「そんな国は、俺たちがぶっ壊す。……年貢の納め時だ、大久保、岩倉」
「くそぉぉぉぉぉッ!」
大久保が、絶望の叫びを上げながら、近藤に向かって引き金を引こうとした。
しかし、それよりも早く。
閃刃。
近藤の虎徹が、暗闇の中で一筋の光の軌跡を描いた。
「がぁッ!」
大久保の右腕が、手首から先を切り飛ばされ、拳銃ごと床に落ちた。
鮮血が噴き出し、大久保は激痛に顔を歪めてその場にうずくまった。
「……勝負あったな」
近藤は、血振りをして虎徹を鞘に納めると、土方に向かって頷いた。
土方も刀を納め、懐から捕縛用の縄を取り出す。
「大久保利通、岩倉具視。国家反逆、および睦仁親王弑逆の容疑で、捕縛する」
土方の冷徹な声が、地下通路に響いた。
大久保は、血まみれの腕を押さえながら、憎悪に満ちた目で近藤と土方を睨み上げていた。しかし、もはや彼に抵抗する力は残っていなかった。
岩倉は気絶したまま、土方によって容赦なく縄をかけられていく。
こうして、日本を裏から操ろうとした二人の男の野望は、江戸城の暗い地下通路の中で、完全に潰えたのであった。
地下深く、金塊と密約書類を抱え逃走を図る大久保と岩倉。
出口を目前にした彼らの前に立ちはだかったのは、彼らがとうに亡き者と考えていた近藤勇であった。
命乞いをする岩倉と、銃を向け野望に執着する大久保。
国を操ろうとした二人の首謀者は、ついに誠の正義による裁きの時を迎える。




