声
アリス・ツゥ・ヴァリスヘイム――ヴァリスヘイム公爵家の三女である彼女は幼少期、今では考えられないほどにおてんばな子供だった。
三女というのは簡単に言えば婚姻政策のための道具だ。
自分の好きな人間と結ばれるなどということはまず考えられず、基本的には父に言われた人間と、父に言われたタイミングで結婚することだけが求められる。
アリスはそんな風に与えられた自分の役目が、嫌でたまらなかった。
けれどそこから抜け出すことはなかなかに難しい。
何か自分にできる方法で、自分の運命を克服する術はないか――。
幼い故にそこまで真剣に考えていたわけではないのだが、当時のアリスにはこのままではダメだという切迫感だけがあった。
それ故彼女は何かに突き動かされるように、行動をし続けた。
そのうちの一つが、隣国であるリンドナー王国への旅行である。
「うわあ、きれー……」
馬車の中から見える景色は、見たことがないほどに綺麗なものだった。
濁っていない水を勢いよく噴き出す噴水に、どこからか聞こえてくる鐘の音。
下水上水がしっかりと分けられているためか匂いも少なく、道ばたに糞が落ちているようなこともない。
異国情緒とはこういうことを言うのだろうかと、幼いアリスは景色に魅せられ、窓ガラスに張り付いてしまっていた。
彼女は帝国の公爵家という立場の人間だ。
王国の貴族家に嫁ぐようなことはまずないだろうが、その立場を捨てて新たな生計を立てていくのなら、リンドナー王国という選択肢もなかなか悪くない選択であるように思える。
リンドナー王国の王都スピネルは、風光明媚な都だった。
帝国の帝都ゴッドバルトは良くも悪くも活気に満ちあふれている。
都会にやってきて冒険者として一旗揚げようとする若者や、歌劇団のプリマヴェーラを目指してやってきた若い女の子。いかがわしい店や怪しい薬に犯罪組織、そしてほのかというほどに隠れていない暴力の香り。
人が集まることで活発に経済が動き、それを呼び水にして更に人が集まる。
雑多で、統一性もなく、それ故にただただ市場原理に突き動かされる。
そんな帝都と比べるとこのスピネルは活気という点では劣るかもしれない。
けれどその分だけ、調和と美しさがあった。
雑然としているわけではなく、全体的なバランスがいいのだ。
住んでいくのならこちらの方がずっと良い街だろう。
そんな風に思っていたアリスは、そのまま王都観光を楽しんだ。
そして王都を見て回りしながら並行して調べ物もしていく。
見て回ると、物価も帝都より安かった。
いっそのことこのまま王国で暮らせたらと思い提案してみたが、当然ながらそんなことが許されるわけもなく、即座に却下されてしまった。
それならばと、彼女はお付きの執事やメイド達の目を盗んで王都を回ることにした。
人の目というものにまだ慣れていなかった彼女は、一人で王都を満喫したかったのだ。
そして彼女はそこで、運命の出会いをすることになる――。
「はあ~ぁ、もう終わっちゃうのかぁ」
何事にも始まりがあれば終わりがある。
本来の日程も終わり、少しだけ滞在の延長を許してもらえたのはいいが、その期限もそろそろ近付いてきている。
そのことを思うと憂鬱で、気が滅入ってしまう。
落ち込みそうになる気分を上げるために、足下にあった石ころを蹴飛ばした。
するとなんとなく楽しくなってきて、如何に石ころをなくさないように蹴り続けるかという思考が頭の中を埋め尽くすようになる。
――アリスは王国に来てからというもの、毎日のように人目を盗んで抜け出し、一人で街を練り歩いていた。
もっとも子供のやることなのでそこまで手が込んでいるわけではない。
メイド達も皆、わかっていて見逃してあげていたのだ。
帝国というものを知っており、今後の自由のなさを理解しているからこそ、まだ身軽でいることができる今くらいは、アリスの好きなようにさせてあげようと皆が思っていたのである。
ただ流石にそのままの格好では目立ちすぎるということで、アリスは街の人間が着ているような一般的な麻布の服に着替えさせられていた。
もっとも服だけ変えたとしても、これでも彼女の高貴さは完全に隠しきれはしない。
まったく焼けていない肌に、傷一つない腕、そして柔らかく力仕事をしたことのない手のひら。
アリスという少女は、後ろ暗い連中からしてみれば絶好の餌でしかなかったのだ。
ただそれでも容易に手出しをすることはできない。表通りでは人の目があるし、何より街を練り歩く衛兵はエリート揃いだ。
故に男達は機会を窺い続けていたのだが……そんなことが幼いアリスにわかるわけもない。
「あれ……ここ、どこだろ?」
目の前にある石ころを蹴飛ばしていくうちに、まったく見知らぬ裏路地に入り込んでしまった。
スピネルは治安はいいけれど、それでも裏手に行ってしまえば監視の目を逃れた悪者も多い。
だからそちらには行かないようにという世間話を、メイド達はアリスに聞こえるくらいの大音量でしてくれていたのだが……目の前の石ころの摩訶不思議な動きの前では、その忠告は役に立たなかったらしい。
「戻らなくちゃ……」
少し先に見えている石は名残惜しかったけれど、それよりもメイド達がしてくれた忠告の方が大切だ。
そう思ったアリスは急いで踵を返して大通りへ向かおうと小走りで駆け始める。
けれど彼女が再び日差しの差し込む目抜き通りへとたどり着くよりも、その小さな手を何者かに引っ張られる方が早かった。
「げへへっ、いけない嬢ちゃんだなぁ」
「――いたっ!?」
腕が引きちぎられたかと思うような痛みが発したかと思うと、アリスの右腕は思いきり引かれていた。
力任せに引っ張られ弾かれるように向かっていた先には、下卑た笑いを浮かべている男の姿があった。
禿頭で頬がこけていて、瞳だけが爛々と輝いている。
破かれたのか右と左で長さの違うジャケットを着ていて、舌なめずりしながらアリスのことをねっとりとした粘質な視線で見つめてくる。
「ひい――むううっっ!?」
一目見ただけで恐怖から喉がひくつき、声にならない声が出る。
けれど彼女が叫び声を上げるより、男が布をアリスの口元に巻き付ける方が早かった。
人生で一度も嗅いだことのない饐えた匂いにえずいていると、横からまた新たな人影が二つ。
やってきたのは背の高いショートカットの男と蛇のように長い舌をちろちろと動かしている男だった。
二人ともその手に錆びたナイフを握っている。
「いやぁ、助かったぜ。まさか護衛の騎士すらも連れねぇで来てくれるとは」
「これで身代金をきっちりとぶんどれば、俺達もこんなところとはおさらばってわけだな」
どうやら男達は、ずっとアリスをつけてその足取りを追っていたらしい。
入念に下調べをしてからの、計画的な犯行のようだった。
「ちいっとくらい味見をしたって……」
「ザイガス、前から言っていただろう。味見はなしだ、身代金をせしめても、殺されちゃあ意味がねぇ」
「それにガキすぎんだろ。相変わらず悪趣味だなぁ、おめぇ」
何を言っているか、音としては入ってくるが、それを意味のある単語として理解することができない。
それほどまでにアリスはパニック状態に陥っていた。
動こうとするとひたりと、首筋に何かを突きつけられる。
禿頭の男が握っているそれは、キラリと光るダガーだった。
首筋に当てられると、抵抗しようという意思の炎は一瞬にして消えてしまった。
身がすくみ、頬がひくつき、身動きが取れない。
逃げなければいけないことだけはわかっているのに、身体はまったくといっていいほどに動かない。
身体がこわばっている間も、状況は悪化の一途を辿る。
腕を後ろ手にして紐か何かでグルグルと巻かれ、次に頭に何かを被らされる。
それは大きなズタ袋で、アリスはあっという間に袋の中に入れられてしまう。
網目がかなり荒く袋自体もボロボロのため小さな穴はあるが、そこからではわずかな範囲しか見ることができない。
ほとんどの視界が茶色く変わり必死になって動こうとするが、蓑虫のように這おうとしたところを男達に捕まえられてしまう。
「んんーーーっっ! んんーーーっっ!!」
「あっひゃっひゃ、叫んでも助けなんかこねぇよ、バーカ!」
「ハイハイできて偉いでちゅね~~」
バカにしてくる男達の嘲るような声を聞くと、目尻に涙が溜まった。
馬鹿なことをしてしまったと思ってももう遅い。
気付けばアリスは担ぎ上げられ、どこかへ連れて行かれようとしていた。
必死になって身じろぎをしても、大柄な男達に押さえつけられてびくとも動かない。
自分が逃げようとすればするほどに、男達を喜ばせるだけだった。
ゲラゲラという乾いた笑い声が袋の中に何重にも反響して、まるで全方位を敵に囲まれているかのようだった。
溜まっていく雫がとうとう自重に耐えきれずに、こぼれ落ちる。
少女が流した純真な涙は、ポトリと落ちて袋の小さなシミになるだけだった。
(誰か……誰か助けてっ!)
口を塞がれ言葉に出すこともできず、またくぐもった声を出しても男達が喜ぶだけ。
絶望的な状況で、アリスは心の中で祈る。
それは本来であれば、聞き届けられるはずのない願いであった。
けれど――奇跡は起きる。
「おいお前ら、そこで何をしている」
【しんこからのお願い】
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