第306話
第306話です。
このまま時が止まれば、なんて思った事は人生で何度あるだろうか。来て欲しくない未来を拒みたくて、その過程でそう思ったことは何度もあるが、こんなに純粋な気持ちで、幸せな気持ちで止まればいいのになんて思ったのは初めてだ。
小さめの1LDKの一室。
テレビの中にはよく見知った顔の人がいる。あの人のあの真剣な表情を最後に見たのはいつだろうか。
もう何年も前。
時というのは油断すれば光よりも早くすぎていくもので、だから「光陰矢の如し」なんて諺があったりもするわけだ。
ふとテレビ画面を見ていると右肩に暖かい体温と重み、サラッとした髪の毛が当たる。
気持ちよさそうな寝顔。ほんのりと上気した頬は柔らかそうで、少しつついてみたくもなる。いや、欲求として表現するよりも、過去形で表現した方が正しいか。
つまりは、もう既にフニっとつつき終わった後だ。
「んにゃ……」
少し眉をひそめた後、すぐに「すー」と柔らかい寝息を立て始めた。すぐに起きるものかと思ったが、案外人というのはこの程度の刺激では起きないらしい。
ちょっとした発見を喜びつつ、サラリとかかっている髪の毛を除けると、頭を撫でた。
「本当に久しぶりだな」
もう一度テレビを見ながらそう呟く。
夜中の音楽番組。そこにゲストとして招待された彼女は、今では近くて遠い存在となってしまった。
触れられるのに、触れられないこの距離。そのなんとも言えないもどかしさに胸はキュッと苦しくなりながら、心臓はトクトクと鼓動を続ける。
「カオリさんはアーティストとして生きていくと決めたきっかけがあるそうですね」
MCがそう話を振る。テレビの中の先輩は少し照れた様子で、けれどいたって真面目な顔で大きく頷いた。隣で寝息を立てている先輩とは大違いだ。
「私にとって、とても大きくて大切な出会いがあったんです。その出会いが無かったら、今こうしてここにはいないと思います。それに、この2人とも会うことはなかったと思います」
「なるほど。大切な出会い、もう少し具体的にも聞いてもよろしければお聞きしたいのですが、どうでしょう?」
「具体的にですか。……そうですね、高校の時に授業をサボりに来た後輩の男の子との出会いが私にとって大きな転換期でした。当時の私は勉強というか、学校が嫌で、でも親にそんな事も言えるはずがなく、だから授業の大半は休んだりサボったりしてたんです。そしたら、そんな私と同じ悩みを抱えた後輩くんが来てくれた。それからです。学校に行く楽しみを見つけて、夢も改めて見つけて、こうなるまで背中も押してもらえて。だから、私にとってはあの日あの時の出会いが何よりも大切でそして後輩くんが何よりも大切な人です」
聞いているだけで顔が熱くなる感覚を覚える。
隣にいる人は呑気なものだ。今は完全に夢の世界。俺と同じこの恥ずかしさを受けることはない。
けど、大切な人と言ってもらえたのは素直に嬉しかった。俺にとっても先輩は何よりも大切な存在だから。
手を隣にもう一度伸ばしてサラリと髪を掬う。キューティクル抜群の髪は指の隙間から液体のように流れ落ちる。動く度にシャンプーのいい香りが鼻孔をくすぐった。
「一緒に見るんじゃなかったのかな」
そう思いながら俺は隣で寝続ける先輩をもう一度撫でるのだった。
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