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第16話-1

 ハルの意識が戻ったのは、それから数十分ほど経った頃だった。


 ハルがユーシスの存在に気づいたときの反応は傑作だった。頭を強く打ったせいか、気絶する直前の記憶は曖昧だったが、おれと話すうちにだんだん思い出したようだった。


 ユーシスが助けに来てくれたこと。命拾いはしたが、もう次の救助は見込めないこと。俺たちの力だけで脱出するしかないこと。俺の話からそれらを理解したハルは、ユーシスに誠実な眼差しを向けた。


「本当に……ありがとう、ユーシス。おかげで食い殺されずに済んだみたいだ。君がいれば、こんなに心強いことはないよ」


 微笑むハルに、ユーシスは仏頂面で鼻を鳴らした。


「足手まといにはなるなよ、アルフォード」


「あれ、僕の名前。覚えてくれていたんだ」


 ハルが目を丸くすると、ユーシスは居心地悪そうに顔をそらす。


「……シンクレアとのランク戦は、俺も観ていたからな」


「うぇっ、恥ずかしい!」


「見るところはあった」


 ユーシスは俺とハルを交互に見て、一つ咳払いをすると言った。


「俺たちには経験も準備もない。……だが、俺とナツメは既に下手なウォーカーより強い。剣士、盾持ち、煉術師……即席パーティーにしてはバランスも悪くない。各々が役割を自覚して動けば、どんなモンスターが相手でも勝負になる」


 ユーシスの言葉に、俺は強く頷いた。


「そうだな。前衛は任せてくれ」


「でも、いくら戦力が増したからって、闇雲に動いてちゃどんどん消耗するだけだよ。必死に歩いた結果密林の最奥部に着いちゃいましたじゃ笑えない」


 ハルの意見は冷静だ。ユーシスは考えがあるとばかりに頷いた。


「出口は分からないが、俺は煉素の濃い方角と薄い方角なら見分けることができる。煉素濃度の薄い方を選んで進んでいけば、母国に近づけるかもしれん。少なくともフィールドの危険度は下がるはずだ」


「なるほど!」


「それは、名案だね」


「ただ、お前たちが交戦した例のグレントロール。奴には常に警戒しろ。臭いと熱源を頼りに、今も俺たちを探しているはずだ」


 隣でハルが、生唾を飲み込んだ。確かにあのバケモノは別格の強さだった。


 だが、今は俺の体も癒えているし、強力な剣もある。何よりユーシスもいるのだ。


「出くわさないに越したことはないけど、もし見つかっても望むところだ。白薔薇の部隊を二度も壊滅させてる新種を、俺たちだけで倒したとあれば、一気にウォーカーとしての箔がつくぞ」


 俺の言葉にハルは顔をしかめたが、ユーシスは不敵に笑った。


「お前ならそう言うだろうと思っていた。ウォーカーは実績を上げてなんぼだからな。より難易度の高い任務クエストを任されたり、活動圏を広げるためには、功績を上げて信頼を勝ち取らなければならん」


「ぼ、僕は別に、わざわざ死ぬ確率の高い任務クエストを受注できる立場に出世したいとは思わないけど……」


「どのみち、出くわしたら逃げ切れるとは限らねぇんだ。いざというときのために、腹はくくっとけよ」


 ハルは時間をかけて小さくうなずいた。俺たちは、行動を開始した。


 ユーシス、ハル、俺の順で隊列を組み、赤い密林を歩く。ユーシスはその目で煉素濃度の薄い方角を見分け、進路を決めた。


 とはいえ、煉素の濃さはそれほど狭い範囲で変わるものではない。半分以上は勘で見当をつけるような感じだった。しばらく歩いてから、やっぱり煉素が濃くなってきて引き返す、なんてことを繰り返しながら、数時間も黙々と進んだ。それだけ歩いても、スタート地点と比較して煉素濃度は若干薄くなった程度だった。


 ハルは道中、木に片っ端から目印をつけていきながら、時折足を止めて目を閉じ、何やら考え込んでは、羊皮紙に地図を描いてどんどん拡大していった。紙がいっぱいになると新しい羊皮紙に書き足す。


 俺にはいつまで歩いても変わらない景色に思えたが、植物の知識を豊富に持つハルにとっては、違って見えるようだった。


「アルフォード。地図を作るのは結構だが、これほど木々の密集した樹海では方角の判別ができん。あまり役に立たんぞ」


「うん。でも少なくとも、スタート地点に戻るような失態は避けられるよ」


 アカネには磁力を帯びた石こそあるが、北極も南極もない。太陽や月などの天体も存在しないため、一体どうやって"真北まきた"を定めるか、先人たちは頭を悩ませてきた。


 その問題を解決したのは、幼い少女だったという。千年以上前、ひとりの少女があることに気づいたそうだ。


 この世界では、風向きが変わらない。


 それは大発見だった。アカネは24時間、365日、必ず決まった方角から同じ強さの風が吹き続けている。止むことも、風向きが変わることもない。大人たちは場所を変えて実験を繰り返し、その裏付けをとった。


 そして、周囲の地形の影響を受けない、高山の頂上で旗を掲げて風が吹いてくる方角を測定し、そこを"真北"と定義した。以来、真北から毎日吹き続ける不変の風は、《北極風ほっきょくふう》と呼ばれるようになった。


 北極風はただの風なので、当然、山にぶつかれば進路を変えたり消えたりするし、谷を横切れば吹き降ろす。そのため、いつでも向かい風に逆らって歩き続ければ北に進めるわけではない。ユーシスの言う通り、こんな密林じゃとても方位は測定できない。


 そもそも、俺たちが帰るべきルミエールが、ここより北なのか南なのかも俺たちは知らない。ハルがやっていることはあくまで気休め程度のものだ。だが、俺の分かっていないことをハルが分かってくれているというのは、それだけで少し安心する。


 背後に、猛々しい気配。


 背筋が察知するや否や、俺は弾けるように振り返った。低い獣の唸り声。直後、俺たちの辿ってきた獣道を巨大な影が横切り、急ブレーキをかけて俺の正面に躍り出た。


 二メートル級の巨体。熊……だろうか。黒い熊。ただし、カモシカのような下半身と比較して上半身が異常に発達している。アンバランスな逆三関係のシルエット。丸太のような両腕を前でついて総毛そうけを逆立て、吼える。


「ナツメ、下がれ」


 流石の反応で銃を構えたユーシスを無言で制し、俺は腰の剣に手をかけた。巨大熊は今にも両脚に蓄えた力を解放し、飛び掛かってくる。今は後退するどころか、剣を悠長に抜いている暇さえない。


「……棗一刀流なつめいっとうりゅう"居合いあい"--」


 全身に染み付いた剣の記憶を手繰り寄せるように、早口で呟いた俺の声を、咆哮がかき消す。熊が脚力を爆発させた瞬間、俺は親指でつばを弾き、剣を音高く抜き放った。


「【孤月こげつ】!」


 鯉口を滑った刃が閃き、跳躍した熊がガラ空きにした腹部を横一文字にかっさばいた。体の位置を入れ替えるようにして地を滑る俺の背後で、重い地響きを上げて巨体が沈んだ。


 大量の血液をぶちまけ、ピクリとも動かない。ユーシスに借りたこの剣、想像を超える斬れ味だ。鉄の剣となど比較にならない。


 【孤月】は、"どう"の極致きょくち。上段を狙ってくる相手の攻撃の瞬間に被せるようにして繰り出し、中段に生まれる隙を逃さず斬り伏せる。せん、いわゆるカウンター技だ。やむを得ず居合で繰り出したが、仕留めることができてよかった。


「……俺の出番はなかったな」


 銃を腰のホルスターに納め、ユーシスが長く息を吐いた。ハルはまだ生きた心地がしないような顔で、胸を撫で下ろした。俺は絶命した熊を指して、「こいつ食えるかな?」と笑った。


 ディポタスの肉を腹一杯食べ、全身の傷も癒えたからか、体があまりに軽い。ここら一帯の異常に濃い煉素が、俺を更なる境地へ押し上げてくれている感覚がある。


 その時、パッ、と、空の赤が消灯した。辺りは墨汁に漬けたような、真っ暗闇になった。


「お」


「あ」


「うわぁっ!?」


 このフィールドに来て二度目の、夜の到来である。

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