第八話 カンナ・ヒイラギ-2
カンナたちが上がった湖面には、なにやらいい香りのする泡があちこちに浮いていた。そういえば、麻のシャツに着替えたカンナとマリアの髪からも同じ清潔な匂いがする気がする。
「シオン君たちも使ったら? 気持ちいいよ」
濡れた髪にタオルをかぶせたカンナが俺に差し出してきたのは、何やら小ぶりのヤシの実のような黄色い果実だった。受け取るとぬらりとした粘液でまみれており、危うく手から滑り落ちそうになる。
「《シャンプーの実》だよ。あの辺りに自生してたの」
「あぁ、無患子みたいなのか。こっちの世界にもあるんだな」
別名ソープナッツ。果肉に含まれる界面活性剤を石鹸やシャンプーとして代用できる木の実だ。地球にいた頃、修行で見ず知らずの山に放り込まれるたび世話になったものだ。
カルデラ湖の畔で採れたシャンプーの実からは、ほのかに甘く、それでいてすんなり鼻に抜ける爽やかな香りがした。随分上等な泡だ。持ち帰って瓶に詰めて売れば儲かるんじゃないだろうか。
カンナたちが背を向けたのを確認してからパンツ一丁になった俺は、シャンプーの実片手にザブザブ湖の深いところまで走っていくと、一度頭まで潜って全身を濡らしてから、早速果汁を泡立て始めた。
一つ手のひらの上を滑らせるだけで、ふんわりと極上の泡が立つ。まず体を洗い、頭を洗った。毛穴に詰まった皮脂や汚れが、泡と一緒に指の腹で軽く揉むだけで、じゅわじゅわと蒸発でもするみたいに消えていく感覚。天にも昇る心地だった。
再び湖に潜り、泳ぎながら泡を落とす。上がったときには本当に清々しい気分になっていた。髪が記憶にないほど指通り滑らかになっている。
そんなスッキリした俺の方を、何やらテトが引いた目で見つめているのに気づいた。
「おーい、テト、お前も使えよ。すげぇぞこれ」
ところがテトは、警戒する猫のように目を釣り上げて俺から距離をとった。湖面を漂う泡が近づいてくるだけで、もう蜂でも出たみたいに怯えて逃げる始末だ。
「なんだそれ!? キモい! なんかヌルヌルしてるし!」
「なにってシャンプーだよ。まさかお前、泡で体洗ったことないのか? フケツだぞ。洗ってやるよ」
「ギャー!!」
ハルの背中をよく洗ってやっていた癖で近づいたのだが、全力でバシャバシャ逃げるテトがなんだか面白くなったので、俺も全力のクロールで追いかけた。どうやら水中では俺の方が速いらしい。十秒足らずで追いついて、両足でロックし、左手の実を握力で絞って大量の粘液をにゅるにゅるにゅるっと直接テトの頭へ。
「ひぎゃーーーーーーっ!!!」
「大人しくしてろ」
抵抗するテトの頭を両手でわしゃわしゃわしゃっと泡立ててやると、大量に膨れた泡を怖がってテトはかえってピクリとも身動きしなくなった。目に入らないよう、これでもかとぎゅうっと目をつむって力んでいるテトの全身を洗っていると、嫌がる犬か猫を風呂に入れている気分になってくる。
「もっ、もういい! もう十分キレーになった!」
「まだだっつの。電撃は使うなよ、泡に引火して大爆発起こすからな」
大嘘だが、鵜呑みにしたテトはいよいよ全身を固くしてただ耐えるのみとなってしまった。数分後、ピカピカに洗われたテトは露骨に不機嫌な顔を水面から出し、遠いところから俺を睨んでいた。
「サッパリして気持ちいーだろ?」
「自分の匂いが消えて落ち着かねー……」
「野生動物かよ」
結局、ルミエールに戻ったらまた綿あめを奢ってやる、という条件でどうにか許してもらえた。




