第十五話 レン・フローレス-1
「こんな広い空間丸ごと凍らせて……私は、正直あなたが怖いです。どうして国民の方々があなたのことは恐がらないのか、理解できません」
堂々としているように見えて、レンの体は震えていた。強気に白皇を睨み上げているように見える目は、実は今にも泣き出しそうなほど潤んでいる。なんの力もない少女が、勇気を振り絞って、今、唯一白皇と対等に話している。
「……なら君は、このナツメ君が恐くないというのか」
「恐かったら殺すんですか?」
ぴしゃりと、頬を張るような言葉だった。
「恐いですよ……シオンさんのこと大好きだから、そんな風になって、すっごく恐い。元のシオンさんに戻ってほしい。……あなたはシオンさんのこと、好きだって言ったけど、そんなの嘘です。好きなら元に戻ってほしいって思わないんですか? 恐いから、危険だからって、簡単に殺せるような相手のこと、二度と好きだなんて言わないで!!」
とうとう大粒の涙を流しながら、レンは声の限り叫んだ。その叫びで、白皇の不動の体が、よろめいたように見えた。
「私は……この世界にいきなり飛ばされて、恐くて、泣くことしかできなくて……助けてくれたシオンさんのこと、単純なの分かってますけど、好きになってしまって……それで初めて、生きる気力が湧いたんです。まだ時間は浅いけど、大好きで、毎日、シオンさんのことばかり考えてて……本当についさっき、週に一回会える口実作れて……! あなたに、なんの権利があって私の大好きな人を殺せるんですか!? なんの権利があって、そんなに高くて遠いところから、無責任に殺せ殺せって喚けるんですか!? 文句があるなら、ここに! 降りてきてくださいよ!!」
後半は客席に矛先を向け、レンは涙ながらに絶叫した。
「な……なんだよ、偉そうに」
レッドテイルの一団から、ポツリと呟きが漏れた。そこから、徐々に反駁が病的に伝染していく。
「そんなバケモノを好きだとか、バカじゃねえの!?」
「好きな人が無事なら、私たちの命はどうでもいいってこと!?」
「自分勝手なのはどっちだよ!」
「そんなに好きなら、一緒に死ねよ!」
荒くなった息を整えながら、唇を噛み、涙をこらえて客席を睨み付けるレンに、心ない罵声の嵐が降り注ぐ。
「待て、彼女は……」
何か言いかけた白皇の手が、僅かに緩んだ、その瞬間。
身の毛もよだつ低音で吼え、剣に貫かれた体を強引に引きちぎって、シオンの体が焼き栗のように勢いよく弾けた。
「はっ――」
白皇が咄嗟に放った槍が背から脇腹を貫通するも、よろめきながら咆哮し、シオンは一心不乱にレンに突進する。飢えた獣のように涎を垂らし、血走った深紅の眼光をギラつかせ、獲物目がけて一直線に。
悲鳴の雨の中で、身も凍る思いでハルクは駆け出した。ロイドもカンナもマリアも、白皇も。だが虚を突かれて出遅れたぶん、どう足掻いてもシオンの方が先にレンに到達する。
レンは、固まって動けなかった。地面を蹴り砕いてシオンが彼女に躍りかかる。そして――
シオンは、レンに背を向け、両手を広げた。
時が止まったかのようだった。眼球丸ごと紅に染まり、明らかに我を忘れた様子のシオンが、主を守る犬のように、獰猛に唸りながら、レンを背に庇い、守っているように見えた。
「……シオン、さん」
大きく見開いたレンの目が揺れ、決壊し、大粒の涙が次から次へ溢れだす。シオンがレンを守っているのは、白皇からではない。彼の恨みがましい目は、客席に突き刺さっていた。
主な罵声の出所だったレッドテイルの一団は、シオンに一睨みされるなり怯えた鼠のように小さくなった。喧騒はピタリと止んだ。
一番信じられないものを見た顔でいたのは、白皇だった。
「……初めてナツメが暴走したとき。一番近くにいたのは俺だったが」
苦しげな声の方に視線が集まる。見れば、白皇に気絶させられていたユーシスが、駆けつけたらしきコトハに支えられ、よろめきながら白皇に近づいていく。
「ナツメは俺や瀕死のアルフォードには目もくれず、グレントロールだけを攻撃した。今回も、これだけの人数が下に降りて、攻撃を受けたのは白皇、お前だけだ。単純に、最も強い者から狙う習性という可能性も残っていたが……これでハッキリした」
ユーシスは口元を緩ませて勝ち誇ったように笑った。
「ナツメは貴様が言うような、無差別に人を襲うバケモノではない」
ユーシスの言葉が分かったのか定かでないが、隣でコトハが強くうなずく。
「……白兄ちゃん」
カンナが、そっと背後から白皇に声をかけた。
「言ったでしょ。シオン君は、優しい人だって」
カンナの目にも、涙が浮かんでいた。隣でロイドが、バスターソードを肩に担いで豪快に笑った。
「一件落着か?」
白皇は、敬意さえ帯びた眼差しでシオンをじっと見つめながら、慎重に口を開いた。
「信じられない。アカネウォーカーが、人を守るなんて」
「アカネウォーカー?」
「彼なら、あるいは……」
沸き上がる希望のようなものを滲ませた白皇の言葉を、遮るように暴風が巻き起こった。シオンに向かって、吸い込まれるように吹き下ろす赤い風。無数の赤い燐光が、シオンの体に巻きつき、流れ込んでいく。まるで、世界中の煉素がシオンに殺到しているみたいに。
「ガァァ……ゥゥゥ……ッ!!!」
レンの前で両手を広げていたシオンが、途端に苦しみ始めた。尚も茜色の波濤は衰えることなく、無制限にシオンを飲み込んでいく。悲痛な絶叫が、闘技場に響き渡る。
「まずい……このままでは体を完全に乗っ取られる」
「乗っ取るって、誰に!?」
カンナの叫びに、白皇が答えた。
「この世界にだ」
シオンに向かって流れ込む、大地を突き上げるような深紅の光芒は、確かに、世界の意志そのものに見えた。絶叫するシオンの、槍で空いた体の穴が、これまでの比でない速度で回復する。
その時。
「ガァッ!!!」
右手に握っていた刀を振り上げたかと思うと、シオンはそれを、自分の腹に突き刺した。
地獄の生物の呻き声に、一瞬、声変わり途中の少年の声が確かに混じる。底のない海に溺れるような、苦しそうな声だった。
「ゴァ……ァァァ……お……あ……ッ!」
抜いては瞬時に塞がる傷跡に、シオンは再び刀を突き刺す。必死に何かと戦っている。シオンの目から、片方だけ、赤みが引いていく。半ばほど、本来の色を取り戻す。牙が縮まり、人間らしい表情の名残のようなものが、その顔の半分に微かに蘇りかける。
国民の顔つきが、明らかに変わった。バケモノだと断じた存在が、己を傷つけ、懸命に戦っている。かつてこの闘技場で、正々堂々と、胸の熱くなる戦いを見せた少年の姿が、バケモノの中から死に物狂いで帰ってこようとしている。
「が……っ、頑張れ、シオン!」
選手から感極まって立ち上がったのは、オレンジ頭の少年だった。
「すぐに助けにいかなくて、ごめん! 迷ってて、オレ、最低だったぜ……戻ってきてくれ……そんで、オレをぶん殴ってくれ! ……頑張れ、シオン!」
バルサの叫びに呼応して、一人、二人と、声が上がった。
頑張れ。
あのおぞましい怨嗟の中で、口にできなかった言葉を抱えたままだった人々。選手席から、いの一番に合唱が始まった。次いで、客席から、一人、二人と。ハルクの目に涙が滲んだ。リーフィアたちギルド職員。ウォーカーの先輩たち。学園時代のクラスメート。行きつけの肉丼屋の店主。酒場で知り合った若者たち。いつも笑顔で挨拶してくれる、近所の老夫婦。
「頑張れ、シオン……!」
ハルクは、剣を取り落とし、両手を組んで祈った。
マリアも、ロイドも、カンナも、ユーシスも、コトハも、レンも、皆が祈るようにシオンを励ます。全身が発火したように赤色の光が爆発し、シオンのまわりを暴れ狂う茜色が、どんどん強くなっても、シオンは、血反吐を吐きながら、繰り返し腹に刀を刺し続けた。何度もバケモノと棗詩音を往復し、絶叫し、発狂し、もがきのたうち回って、それでも、戦うことを止めない。
「……信じて、いいのか」
その様子を見つめ、白皇は、呆然と立ち尽くす。悔恨、絶望、決意、動揺、畏怖、憧憬、希望――その表情に、目まぐるしく感情が明滅する。
やがて、白皇は、白銀の剣を振り上げ――その場に力強く突き刺した。
「……頑張れ、ナツメ君」
何十回目の自傷だったか。断末魔の途中から、紛うことなきシオンの声が、彼の喉から蘇った。茜色の光が爆散し、無数の星屑のように散っていった。シオンが腹に突き刺した刀は、深々と腸を貫き、背を突き破って、とうとう再生しなかった。
「ぉ……………おぉ……」
氷の大地を真っ赤に染め上げる血の水溜まりに膝をついたシオンは、微かに口元で笑い、顔から血だまりに倒れこんだ。
「シオン!」
「シオンさん!」
一斉に駆け寄ったハルクたちから一足遅れて、白皇がシオンの前に片膝をついた。大泣きでシオンに抱きついたレンは、白皇に警戒心剥き出しの目を向けた。
「僕を信用できないかもしれないが……どうか、傷の手当てをさせてください」
白皇の目を数秒見つめ、レンは小さく頷いた。全員が少し離れたところに屈みこみ、白皇は、血まみれで倒れるシオンの体に、そっと手のひらを添えた。




