第一話 鐘は三日に一度鳴る
男は、そのことを帳面に書こうかどうか迷っていた。
鐘が鳴ったのである。
カナフの鐘は、三日に一度鳴る。
そう決まっているわけではない。少なくとも、町役場に残された取り決めには、そんなことは書かれていない。ただ、三日に一度くらいは鳴るのである。二日続けて鳴ることもあれば、一週間鳴らないこともある。ひどいときには、夜中に鳴る。
鐘楼の番人が死んだのは、百年ほど前のことだった。
以来、誰が鐘を鳴らすのか、町の人々は決めないまま暮らしてきた。鳴らしたい者が鳴らす。鳴らしたくない者は鳴らさない。鐘楼の階段はひどく傷んでいたから、鳴らしたくても鳴らせない者もいた。
それで特に困ったことは起きていない。
男が気にしているのは、鐘が鳴ったことではなかった。
今朝の鐘は、二度鳴ったのである。
いつもなら一度だ。
もちろん、二度鳴らしてはいけないという決まりもない。
男はしばらく考え、帳面にこう書いた。
「朝、鐘二度」
書き終えてから、やはり余計なことだったような気がして、上から細い線を一本引いた。
この、くたびれた黒い帽子をかぶり、顎に無精髭を生やした男は、ムルケナシトラムという。
長い名前なので、町の人々はムルと呼んだ。
二十四歳。ヨッカムの町カナフに赴任して四年目になる綴り手である。
綴り手の仕事は、町で起こった出来事を記録することだった。
土地の売買、出生と死亡、商人同士の約束、役場の決定、橋や道路の修繕。そうした事柄を調べ、帳面に書き、必要があれば古い記録と照らし合わせる。
ムルはこの仕事が好きだった。ただし、好きな部分と、給金をもらうためにやらなければならない部分は、あまり一致していなかった。
古い記録を調べることや、町の人から話を聞くことは好きだった。誰も気に留めないような物の由来を調べ、思いがけない話に行き当たると、食事を忘れるほど夢中になった。一方、月末に帳面を整理することは嫌いだった。
今日も机には、整理の終わっていない書類が積まれている。しかし、向かいのパン屋から昼の焼き上がりの匂いが漂ってくると、ムルは仕事を切り上げることにした。
書類は逃げないが、焼きたてのパンは待ってくれない。
ムルはガラスに似た材質の細いペンを革の筒に収めた。インクをつけずに文字を書ける、綴り手には馴染みの筆記具である。それから私用の帳面を鞄に入れた。
ところが、戸口まで来たところで扉が叩かれた。
「ムル。いるか」
石工のバルドだった。
「今から昼飯なんですけど」
「じゃあ、ちょうどいい。ちょっと付き合え」
「昼飯にですか?」
「仕事だよ」
バルドは返事を待たずに入ってきて、布に包んだものを机へ置いた。ごとり、と重い音がする。
五十を少し過ぎた男で、肩幅が広く、腕が太い。灰色になり始めた髪には、いつも石の粉がついている。カナフでは腕のいい石工として知られていたが、本人が自分の腕について話すときは町の誰よりもよくしゃべるので、その評判を確かめるには別の人間に聞いたほうがよかった。
「石ですか」
「石だ。お前に見てもらいたくてな」
「石工が僕に石を見せるんですか」
「石の良し悪しを聞きに来たんじゃない」
バルドが布を開くと、中から平たい石板が現れた。厚みは指二本ほど。片隅が欠け、表面には細かな傷がついている。
「銘板ですか」
「石橋のだ」
「東の?」
「そう。欄干を直してたら、古い石積みの内側から出てきた」
東の石橋は、ラウ川を渡る町でいちばん古い橋だった。川向こうの畑や石切り場へ行くには便利だが、荷車がすれ違うには少し狭い。橋の手前で馬車が行き合い、どちらが先に渡るかで口論になるのも珍しくなかった。
ムルも何度となく渡っていたが、橋がいつ造られたのかは知らなかった。
というより、知らないことに今気づいた。
石板には、古い書体で橋の名前と建設年が刻まれていた。その下には、文字を収めるために設けられたような四角い余白がある。
「ここを見てくれ。名前がないんだ」
バルドは余白を指した。
「俺の祖父もこの橋を造った一人でな。子供の頃、銘板に名前が刻まれていると何度も聞かされた。ところが、いざ出てきたらこのとおりだ」
「バルドさん自身は、その名前を見たことがあります?」
「いや。だが、祖父が嘘をつく理由もないだろう。自分が関わった橋のことを、そりゃあ嬉しそうに話してたんだから」
バルドは少し不機嫌そうだった。ムルはそれ以上尋ねず、石板を窓際へ運んだ。
名前を削り取ったのなら、石の肌に違いがあるはずだった。しかし余白は周囲と同じように古びており、削った跡も見当たらない。刻まれた文字の溝には黒ずんだ汚れが残っているのに、余白には文字の痕跡らしいものがない。
「見つけたときから、この状態でした?」
「ああ。泥だらけだったから水で洗ったが、それだけだ。弟子のネルも一緒にいたから、聞いてみてもいい」
「ありがとうございます。あとで聞いてみます」
ムルは引き出しから紙を取り出し、銘板の寸法と文字の配置を写し始めた。古い書体には見慣れない略字が二つあったが、推測で直すことはせず、そのまま書き留めた。
「ずいぶん細かく写すんだな」
「あとで台帳と比べたいので。古い記録だと、同じ文字でも書き方が違ったりしますから」
「町役場に橋の記録があるのか?」
「たしか架橋台帳がありました。ただ、この橋より新しい時代のものだったと思います」
バルドは銘板を覗き込んだ。
「そういや、いつ造った橋なんだ?」
「協暦二百八十一年。百五十五年前ですね」
「祖父が若い頃だな。年も合ってる」
「そうですね」
ムルは銘板の写しを終え、最後に余白の輪郭を描き込んだ。
「バルドさん。お祖父さんは、名前が刻まれているとおっしゃっていたんですよね」
「ああ」
「ほかの職人の名前については?」
「そこまでは聞いてないな。祖父の話は、石の切り方だの、足場の組み方だの、そんなことばっかりだった。橋脚の据え方には相当苦労したらしい。川底が思ったより柔らかくてな」
そこでバルドは、橋脚を支える石の組み方について話し始めた。ムルには半分も理解できなかったが、途中で何度か質問をすると、バルドは机の紙を借りて断面図まで描いてみせた。
その図がなかなか面白かったので、ムルは自分の帳面にも写しておいた。
「それで、名前の話なんですけど」
「お前が聞いたんだろうが」
「そうでした」
バルドは呆れた顔をしたが、ムルは石板の余白が気になっていた。
「最初から何も刻まれていなかった可能性もありますね」
「祖父が間違ってたって言いたいのか?」
「いえ。名前が刻まれていたという話と、今ここに名前がないということは、どちらも確かめる必要があると思うんです」
「そりゃあ、そうだろうが」
バルドは銘板をしばらく見つめた。
「……まあ、俺だって祖父の名前を見たわけじゃない。だが、あれだけ自慢していたものが、最初からなかったってのも妙な話だろう」
「ええ。だから調べてみたいです」
「頼めるか」
「もちろん。ただ、今日は昼飯を食べてからにしましょう」
「お前、まだ食ってなかったのか」
「食べようとしたらバルドさんが来たんです」
「そうだったな。じゃあ、酒場で何か食ってから役場へ行くか」
ムルは少し考えた。
「役場が先のほうがいいかもしれません」
「どうしてだ」
「台帳が気になってきたので」
「お前が飯より仕事を優先するとはな」
「珍しいこともあります」
「雨でも降るんじゃないか」
バルドは銘板を布に包み直した。
「じゃあ行くか。昼飯はそのあとでいいな」
「おごってくれます?」
「お前はいつもそれだな」
「いつもおごってもらっているわけじゃありません」
「いつも聞くじゃないか」
これは事実だったので、ムルは反論しなかった。
二人が通りへ出ると、向かいのパン屋の主人が声をかけてきた。
「ムル! 昼のパン、取っとくか?」
「お願いします。豆の入ったやつ、二つ!」
「今日は三つじゃないのか?」
「あとで酒場にも行くので!」
「おい、俺がおごるとは言ってないぞ」
バルドが口を挟むと、パン屋の主人は笑った。
「じゃあ、バルドの分も取っとくか?」
「いらん。こいつの食う分だけで十分だ」
「そうかい。じゃあ三つ取っとくよ」
「二つです!」
ムルが言い返すと、パン屋の主人は手を振って店の奥へ戻っていった。
バルドは銘板を抱え直した。
「お前の鞄に入らんのか、これ」
「入らないですね」
「何をそんなに詰め込んでるんだ」
「帳面です」
「何冊ある」
「七冊」
「一冊にまとめろよ」
「用途が違うんですよ」
「俺には同じに見えるがな」
バルドはそれ以上聞かなかった。ムルの帳面が増え続けていることは、町ではよく知られていた。
ムルは隣を歩く石工の腕に、石の粉がまだ残っているのを見た。バルドは朝から橋を直していたのだろう。今日もこれから、仕事場へ戻るつもりなのかもしれない。
その祖父も、百五十五年前に同じ橋へ通っていたという。
橋を造った人間がいたことは確かだった。誰かが石を切り、運び、積み上げなければ、橋はできない。
だが、その人間の名前となると、話は別である。
ムルは、名前のない余白をもう一度見たくなった。
「バルドさん、ちょっと石板を見せてもらってもいいですか」
「今か?」
「はい」
「役場に着いてからにしろ。重いんだ、これ」
「そうですね」
ムルは素直に引き下がった。
それから、腹が減ったと思った。
役場までは、まだ少しあった。




