↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
欠頁の国  作者: 朔々寿司
プロローグ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/2

プロローグ 最後の記録

「まだ間に合うと思う?」


女は階段を上りながら尋ねた。


「間に合わなかったら、ここへ来た意味がない」


男はそう答え、踊り場の窓から外を確かめた。


その建物は、都の中心にある大広場に面していた。正面には何十本もの石柱が並び、左右に伸びる建物の端は、広場からでは見通せない。向かいには議事堂と裁判所があり、そこから放射状に延びる大通りには、夜更けにもかかわらず車の明かりが流れていた。


窓の下では、広場を横切る人々が足早に歩いていた。普段なら夜遅くまで賑わう場所だったが、今夜は商店のほとんどが戸を閉めている。建物の正面には兵士が集まり、通りへ入ろうとする車を一台ずつ止めていた。


「正面はもう塞がれたな」


「裏は?」


「時間の問題だろう」


男は腰から黒い拳銃を抜き、弾倉を確かめた。


「七発」


「それだけ?」


「さっきまで十発あった」


「増やせないの?」


「お前、これを何だと思ってる」


女は答えず、階段を上り続けた。


二人は四階の廊下へ出た。


そこには、見渡す限り書架が並んでいた。


天井は二階分ほどの高さがあり、書架の上部には移動式の梯子が取り付けられている。廊下の両側には大きな閲覧室がいくつも続き、机には読みかけの本や書きかけの書類が残されていた。


図書館のような施設だった。ただ、図書館にしてはあまりにも巨大だった。


この建物には、国内で作られたほとんどの公文書が集められている。土地の売買、裁判の記録、町の成り立ち、橋や道路の建設、商人たちの取引。書架に収まりきらない記録は地下へ運ばれ、そこからさらに古いものは、何層にも重なる保管庫の奥へ送られる。


女はその一つひとつを、よく知っていた。


「西棟の奥に昇降機がある」と女が言った。


「まだ動いてるのか?」


「動いてなきゃ困るわ」


二人は廊下を走った。


女の肩には大きな鞄がかかっていた。中には帳面が七冊と、何枚もの図面が詰め込まれている。腰の革製の筒には、細長い筆記具が収められていた。


透明な灰色をした、ガラスペンによく似た道具だった。金属の芯も継ぎ目もなく、先端まで一つの素材から削り出されている。女はそれを使うとき、インクを必要としなかった。


廊下の時計は、十一時四十二分を指していた。


「十八分」


女が言った。


「わかってる」


「最深部まで、昇降機で七分。そこから歩いて三分」


「十分あれば足りるな」


「何もなければね」


男は返事をしなかった。


西棟へ続く渡り廊下に差しかかったとき、前方の扉が開いた。


灰色の外套を着た兵士が三人、廊下へ出てきた。


先頭の男は片手に薄い金属板を持っていた。表面には細かな文字が刻まれ、端から淡い光が漏れている。


「止まれ!」


男は女を柱の陰へ押し込み、拳銃を構えた。


二発。


銃声が廊下に響いた。


一発目は兵士の胸へ向かったが、その手前で空気が水面のように揺れ、弾丸が床へ落ちた。二発目は兵士の肩をかすめ、背後の壁にめり込んだ。


「防がれた!」


「見ればわかる!」


先頭の兵士が金属板を掲げた。


廊下の床に刻まれていた細い線が光り、二人の前に石の仕切りがせり上がった。普段は書架の移動に使われる設備だった。


男は女の腕を引き、閲覧室へ飛び込んだ。


背後で石の仕切りが壁にぶつかり、何冊もの本が床へ落ちた。


「この建物、こんな仕掛けがあるのか!」


「書架を動かすためのものよ!」


「ずいぶん乱暴な使い方だな!」


二人は閲覧室を横切った。


反対側の扉には鍵がかかっていた。女は腰の筆記具を抜き、扉の脇に刻まれた文字を見た。


「下がって」


女は文字の一部に、ほんの数画を書き加えた。


ペン先が触れた場所から淡い光が走り、扉の奥で金具が外れる音がした。


女は扉を押し開けた。


「行って!」


男は先に廊下へ出た。


「今のは?」


「非常時の解錠条件を使っただけ」


「そんなことができるなら、最初から全部開けてくれ」


「全部の扉の記録を持ってるわけじゃないの」


女は走りながらペンを腰へ戻した。


西棟の昇降機は、二人が到着したとき、すでに下の階へ向かっていた。


鉄格子の向こうで、太い鎖が音を立てて動いている。


「誰か乗ってるの?」


「いや、下から呼ばれたんだろう」


男は昇降機の脇にある操作盤を叩いた。


針は地下三層を指していた。


地下四層。


地下五層。


「遅いな」


「止められない?」


「やってる!」


女は操作盤の脇に刻まれた文字を確かめた。


だが、すぐに首を振った。


「駄目。ここの操作記録は持ってない」


「じゃあ待つしかないか」


廊下の向こうから足音が聞こえた。


男は拳銃を構えた。


「あと五発だ」


女は鞄を開けかけ、すぐに手を止めた。


「……こっち」


「何だ?」


「西棟の古い搬送路。昇降機の整備に使っていた通路が、この壁の裏にあるはず」


女は壁の刻印を指した。


追っ手が角を曲がった。


男は二発撃った。


一人が倒れ、もう一人は金属板を掲げて身を伏せた。


女は腰のペンを抜き、刻印へ数文字を書き加えた。


重い音とともに、壁の一部が奥へ引っ込んだ。


そこには、人が一人通れるほどの細い階段が続いていた。


「こっち!」


二人は階段へ飛び込んだ。


男が後ろ手に扉を閉めると、女はその脇にもう一度ペンを走らせた。扉の内側から金具が噛み合い、追っ手の足音が遠ざかった。


「便利だな、それ」


「便利に使うために、三日も調べたのよ」


「三日?」


「この建物の図面が古すぎて、どの通路が残ってるかわからなかったの」


男は階段の下を見た。


「……それで、何階まで続いてるんだ」


「地下六層まで」


「最深部は?」


「地下十二層」


「まだ半分かよ」


二人は階段を下り始めた。


地下へ進むにつれ、建物の様子は変わっていった。


上階の書架は木製だったが、地下三層からは石造りの保管棚が増えた。地下五層では、扉のほとんどが金属製になり、廊下には小さな窓さえなくなった。


地下六層に着くと、二人は搬送路を抜け、広い保管室へ出た。


部屋の中央には、巨大な昇降機があった。


天井から太い鎖が何本も垂れ、床には荷物を載せるための鉄の台が据えられている。


「これなら下まで行ける」


男が言った。


女は操作盤へ近づいた。


そこには、すでに淡い光が走っていた。


「……待って」


「何だ」


「誰かが、下から操作してる」


昇降機の台が動き始めた。


だが、上へは来なかった。


鎖が音を立てて巻き上がり、台はゆっくりと下へ沈んでいった。


「止められる?」


女は操作盤の文字を見た。


「……おかしい」


「何が」


「この昇降機、私が調べた記録では、地上からでも操作できるはずなの」


女は鞄から別の帳面を取り出した。


そこには、地下搬送設備の設計記録が写されていた。彼女は操作盤の文字と見比べ、ペンを走らせた。


何も起こらなかった。


もう一度。


やはり、何も起こらない。


「どうした」


女は帳面をめくった。


「記録が違う」


「間違えて覚えたのか?」


「違う。昨日まで、これで動いたはずなの」


女は操作盤の隅に刻まれた小さな番号を見つけた。


そこには、見覚えのない文字があった。


「……参照先が変えられてる」


「どういう意味だ」


「この昇降機が従う記録が、別のものに差し替えられてるの」


男は鎖の動きを見た。


昇降機の台は、もう地下七層へ沈んでいた。


「戻せないのか」


「元の記録がどこに移されたのかわからない」


「探せばいい」


「時間がない」


男は女を見た。


女は時計を確かめた。


十一時五十四分。


「……六分」


男は何も言わなかった。


そのとき、保管室の奥で扉が開いた。


灰色の外套を着た兵士が、一人入ってきた。


ほかの兵士たちとは違い、男は武器を持っていなかった。ただ、両手に薄い金属板を一枚ずつ持っている。


「そこまでだ」


兵士は静かに言った。


「下へ行く必要はない。もう間もなく終わる」


女は顔を上げた。


「あなたが記録を差し替えたの?」


「そうだ」


「いつ?」


「お前たちがこの建物へ入る前だ」


女は唇を噛んだ。


男が拳銃を構えた。


「なら、あんたを倒せば元に戻るのか」


兵士は首を横に振った。


「戻らん。お前たちが持っている記録では、もう何もできない」


男は引き金を引いた。


銃声が響いた。


弾丸は兵士の手前で止まり、床へ落ちた。


兵士が金属板を掲げると、床から石の柱がせり上がり、男の足元を突き上げた。


男は転がり、拳銃を落とした。


「あと二発!」


女が叫んだ。


「数えるな!」


男は拳銃を拾い、柱の陰へ身を隠した。


女は保管室の壁際にある古い鉄扉に目を留めた。扉の上には、排水設備の管理番号が刻まれている。


「……あれだ」


「何だ!」


「古い排水路。地下九層へつながってる!」


「通れるのか!」


「狭いけど、人が通れる幅はある!」


女は男の腕を掴んだ。


「走って!」


二人は壁際へ駆けた。


兵士が金属板を掲げると、床から何本もの石柱が突き出した。


男は女を庇いながら走った。


一つが肩をかすめ、もう一つが背後の棚を砕いた。


女は鉄扉の前へ滑り込んだ。


扉には、古い排水設備の管理番号が刻まれていた。


女はペンを抜き、数文字を書き加えた。


扉が開いた。


中には、狭い石造りの通路が続いていた。


「行け!」


男は女を先に押し込んだ。


背後から兵士が追ってくる。


男は最後の二発を撃った。


一発目は防がれた。


二発目は兵士の持つ金属板に当たり、端を砕いた。


兵士がよろめいた隙に、男は通路へ飛び込んだ。


女は扉の内側へペンを走らせた。


重い鉄扉が閉まり、外側から激しい音が響いた。


二人は暗い通路を走った。


排水路は、人が屈んでようやく通れるほどの高さしかなかった。足元には浅い水が流れ、壁には古い配管が何本も走っている。


「どこへ出る!」


「地下九層!」


「そこからは!」


「古い保管庫を抜ければ、原簿室へ続く階段がある!」


「本当に?」


「記録では!」


男は笑った。


「お前の記録を信じるしかないな!」


女も笑おうとした。


だが、笑えなかった。


通路の先に、淡い光が見えた。


二人はそこへ向かって走った。


地下九層の保管庫を抜け、さらに階段を下りた。


地下十層。


地下十一層。


最深部へ続く石の扉が見えたとき、時計は十一時五十九分を指していた。


「あと一分!」


女は扉の文字を確かめ、ペンを走らせた。


だが、反応がない。


もう一度書き加える。


淡い光が走ったものの、扉は動かなかった。


「……ここも」


「どうした!」


「参照先が変えられてる!」


女は扉に刻まれた文字を読み直した。彼女が調べた解錠条件は、すべて無効になっていた。


それでも、扉の隅に残る古い避難用の記述を見つけた。


女は数画を書き加えた。


扉が軋み、人一人通れるほどの隙間が開いた。


そのとき、鐘が鳴った。


女は手を止めた。


「……間に合わなかった」


二人は扉を抜けた。


円形の広間には、壁に沿って何層もの書架が並んでいた。高い天井には無数の蛍光灯が取り付けられ、その白い光が、中央の石台に開かれた巨大な帳簿を照らしていた。


帳簿の文字が、ひとりでに動いていた。


女は駆け寄った。


よく知る町の名前が、目の前で消えた。そこに暮らす人々の名前も、彼らが築いてきたものも、次々と別の記録に置き換わっていく。


「待って……!」


女はペンを構えた。しかし、書き加えるべき行はすでになく、次のページでも、その次のページでも、知っている名前が消えていった。


そのとき、背後で小さな金属音がした。


咄嗟に振り返ると、男が腰から抜いた拳銃を不思議そうに眺めていた。


「……これ、何だ?」


「何を言ってるの?」


「いや、何に使うものだったかなって」


男は銃口を覗き込んだ。


女は慌ててその手をはたき落とした。


「何してるの! 死にたいの!?」


「痛っ! 何だよ、急に!」


「だって、あなた……!」


「お前、誰だよ」


女は言葉を失った。


男は本当に困惑していた。つい先ほどまで彼女を守りながら走っていた男が、今は見知らぬ人を見る目をしている。


女は彼の名前を呼ぼうとした。


出てこなかった。


鞄から帳面を取り出す。彼の故郷も、家族も、仕事も、そこで暮らす人々のことも、すべて書いたはずだった。


けれど、ページのあちこちが白紙になっていた。


女は必死にめくった。誰かが毎朝焼いていたパンのこと。祭りの夜に聞いた歌のこと。男が何度も話してくれた、故郷のこと。


覚えているはずの出来事が、読み返す間にも輪郭を失っていった。


女は帳面を握りしめた。


何を守ろうとしていたのか。なぜ、これほど多くの人々のことを書き残そうとしたのか。


その理由さえ、もう思い出せなかった。


「……ごめんなさい」


誰に謝っているのかも、わからなかった。


男は何も言わなかった。ただ、女の顔を見ていた。何か言おうとして口を開き、結局、何も言えずに閉じた。


女の頬を涙が伝った。


男も泣いていた。


背後の扉が開き、兵士たちが入ってきた。


「何者だ。ここで何をしている」


兵士たちも、二人を追っていた理由を忘れていた。ただ、最深部への侵入者を見逃すつもりはなかった。


先頭の兵士が金属板を掲げた。


女はその光を見た。何が起ころうとしているのか、理解できなかった。


男が彼女を見た。


女も男を見た。


互いの名前も、ここへ来た理由も、もうわからなかった。それでも、二人は目を逸らさなかった。


床に刻まれた文字が光った。


次の瞬間、鋭い石柱が二人の身体を貫いた。


女の手から帳面が落ちた。開いたページに血が広がり、残っていた文字を覆っていく。


二人はその場に崩れ落ちた。


男は最後まで女の方を向いていた。女もまた、男を見ていた。


やがて二人の目から光が失われた。


天井に並ぶ白く光る筒は、二人が死んだあとも、何事もなかったように広間を照らし続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。