プロローグ 最後の記録
「まだ間に合うと思う?」
女は階段を上りながら尋ねた。
「間に合わなかったら、ここへ来た意味がない」
男はそう答え、踊り場の窓から外を確かめた。
その建物は、都の中心にある大広場に面していた。正面には何十本もの石柱が並び、左右に伸びる建物の端は、広場からでは見通せない。向かいには議事堂と裁判所があり、そこから放射状に延びる大通りには、夜更けにもかかわらず車の明かりが流れていた。
窓の下では、広場を横切る人々が足早に歩いていた。普段なら夜遅くまで賑わう場所だったが、今夜は商店のほとんどが戸を閉めている。建物の正面には兵士が集まり、通りへ入ろうとする車を一台ずつ止めていた。
「正面はもう塞がれたな」
「裏は?」
「時間の問題だろう」
男は腰から黒い拳銃を抜き、弾倉を確かめた。
「七発」
「それだけ?」
「さっきまで十発あった」
「増やせないの?」
「お前、これを何だと思ってる」
女は答えず、階段を上り続けた。
二人は四階の廊下へ出た。
そこには、見渡す限り書架が並んでいた。
天井は二階分ほどの高さがあり、書架の上部には移動式の梯子が取り付けられている。廊下の両側には大きな閲覧室がいくつも続き、机には読みかけの本や書きかけの書類が残されていた。
図書館のような施設だった。ただ、図書館にしてはあまりにも巨大だった。
この建物には、国内で作られたほとんどの公文書が集められている。土地の売買、裁判の記録、町の成り立ち、橋や道路の建設、商人たちの取引。書架に収まりきらない記録は地下へ運ばれ、そこからさらに古いものは、何層にも重なる保管庫の奥へ送られる。
女はその一つひとつを、よく知っていた。
「西棟の奥に昇降機がある」と女が言った。
「まだ動いてるのか?」
「動いてなきゃ困るわ」
二人は廊下を走った。
女の肩には大きな鞄がかかっていた。中には帳面が七冊と、何枚もの図面が詰め込まれている。腰の革製の筒には、細長い筆記具が収められていた。
透明な灰色をした、ガラスペンによく似た道具だった。金属の芯も継ぎ目もなく、先端まで一つの素材から削り出されている。女はそれを使うとき、インクを必要としなかった。
廊下の時計は、十一時四十二分を指していた。
「十八分」
女が言った。
「わかってる」
「最深部まで、昇降機で七分。そこから歩いて三分」
「十分あれば足りるな」
「何もなければね」
男は返事をしなかった。
西棟へ続く渡り廊下に差しかかったとき、前方の扉が開いた。
灰色の外套を着た兵士が三人、廊下へ出てきた。
先頭の男は片手に薄い金属板を持っていた。表面には細かな文字が刻まれ、端から淡い光が漏れている。
「止まれ!」
男は女を柱の陰へ押し込み、拳銃を構えた。
二発。
銃声が廊下に響いた。
一発目は兵士の胸へ向かったが、その手前で空気が水面のように揺れ、弾丸が床へ落ちた。二発目は兵士の肩をかすめ、背後の壁にめり込んだ。
「防がれた!」
「見ればわかる!」
先頭の兵士が金属板を掲げた。
廊下の床に刻まれていた細い線が光り、二人の前に石の仕切りがせり上がった。普段は書架の移動に使われる設備だった。
男は女の腕を引き、閲覧室へ飛び込んだ。
背後で石の仕切りが壁にぶつかり、何冊もの本が床へ落ちた。
「この建物、こんな仕掛けがあるのか!」
「書架を動かすためのものよ!」
「ずいぶん乱暴な使い方だな!」
二人は閲覧室を横切った。
反対側の扉には鍵がかかっていた。女は腰の筆記具を抜き、扉の脇に刻まれた文字を見た。
「下がって」
女は文字の一部に、ほんの数画を書き加えた。
ペン先が触れた場所から淡い光が走り、扉の奥で金具が外れる音がした。
女は扉を押し開けた。
「行って!」
男は先に廊下へ出た。
「今のは?」
「非常時の解錠条件を使っただけ」
「そんなことができるなら、最初から全部開けてくれ」
「全部の扉の記録を持ってるわけじゃないの」
女は走りながらペンを腰へ戻した。
西棟の昇降機は、二人が到着したとき、すでに下の階へ向かっていた。
鉄格子の向こうで、太い鎖が音を立てて動いている。
「誰か乗ってるの?」
「いや、下から呼ばれたんだろう」
男は昇降機の脇にある操作盤を叩いた。
針は地下三層を指していた。
地下四層。
地下五層。
「遅いな」
「止められない?」
「やってる!」
女は操作盤の脇に刻まれた文字を確かめた。
だが、すぐに首を振った。
「駄目。ここの操作記録は持ってない」
「じゃあ待つしかないか」
廊下の向こうから足音が聞こえた。
男は拳銃を構えた。
「あと五発だ」
女は鞄を開けかけ、すぐに手を止めた。
「……こっち」
「何だ?」
「西棟の古い搬送路。昇降機の整備に使っていた通路が、この壁の裏にあるはず」
女は壁の刻印を指した。
追っ手が角を曲がった。
男は二発撃った。
一人が倒れ、もう一人は金属板を掲げて身を伏せた。
女は腰のペンを抜き、刻印へ数文字を書き加えた。
重い音とともに、壁の一部が奥へ引っ込んだ。
そこには、人が一人通れるほどの細い階段が続いていた。
「こっち!」
二人は階段へ飛び込んだ。
男が後ろ手に扉を閉めると、女はその脇にもう一度ペンを走らせた。扉の内側から金具が噛み合い、追っ手の足音が遠ざかった。
「便利だな、それ」
「便利に使うために、三日も調べたのよ」
「三日?」
「この建物の図面が古すぎて、どの通路が残ってるかわからなかったの」
男は階段の下を見た。
「……それで、何階まで続いてるんだ」
「地下六層まで」
「最深部は?」
「地下十二層」
「まだ半分かよ」
二人は階段を下り始めた。
地下へ進むにつれ、建物の様子は変わっていった。
上階の書架は木製だったが、地下三層からは石造りの保管棚が増えた。地下五層では、扉のほとんどが金属製になり、廊下には小さな窓さえなくなった。
地下六層に着くと、二人は搬送路を抜け、広い保管室へ出た。
部屋の中央には、巨大な昇降機があった。
天井から太い鎖が何本も垂れ、床には荷物を載せるための鉄の台が据えられている。
「これなら下まで行ける」
男が言った。
女は操作盤へ近づいた。
そこには、すでに淡い光が走っていた。
「……待って」
「何だ」
「誰かが、下から操作してる」
昇降機の台が動き始めた。
だが、上へは来なかった。
鎖が音を立てて巻き上がり、台はゆっくりと下へ沈んでいった。
「止められる?」
女は操作盤の文字を見た。
「……おかしい」
「何が」
「この昇降機、私が調べた記録では、地上からでも操作できるはずなの」
女は鞄から別の帳面を取り出した。
そこには、地下搬送設備の設計記録が写されていた。彼女は操作盤の文字と見比べ、ペンを走らせた。
何も起こらなかった。
もう一度。
やはり、何も起こらない。
「どうした」
女は帳面をめくった。
「記録が違う」
「間違えて覚えたのか?」
「違う。昨日まで、これで動いたはずなの」
女は操作盤の隅に刻まれた小さな番号を見つけた。
そこには、見覚えのない文字があった。
「……参照先が変えられてる」
「どういう意味だ」
「この昇降機が従う記録が、別のものに差し替えられてるの」
男は鎖の動きを見た。
昇降機の台は、もう地下七層へ沈んでいた。
「戻せないのか」
「元の記録がどこに移されたのかわからない」
「探せばいい」
「時間がない」
男は女を見た。
女は時計を確かめた。
十一時五十四分。
「……六分」
男は何も言わなかった。
そのとき、保管室の奥で扉が開いた。
灰色の外套を着た兵士が、一人入ってきた。
ほかの兵士たちとは違い、男は武器を持っていなかった。ただ、両手に薄い金属板を一枚ずつ持っている。
「そこまでだ」
兵士は静かに言った。
「下へ行く必要はない。もう間もなく終わる」
女は顔を上げた。
「あなたが記録を差し替えたの?」
「そうだ」
「いつ?」
「お前たちがこの建物へ入る前だ」
女は唇を噛んだ。
男が拳銃を構えた。
「なら、あんたを倒せば元に戻るのか」
兵士は首を横に振った。
「戻らん。お前たちが持っている記録では、もう何もできない」
男は引き金を引いた。
銃声が響いた。
弾丸は兵士の手前で止まり、床へ落ちた。
兵士が金属板を掲げると、床から石の柱がせり上がり、男の足元を突き上げた。
男は転がり、拳銃を落とした。
「あと二発!」
女が叫んだ。
「数えるな!」
男は拳銃を拾い、柱の陰へ身を隠した。
女は保管室の壁際にある古い鉄扉に目を留めた。扉の上には、排水設備の管理番号が刻まれている。
「……あれだ」
「何だ!」
「古い排水路。地下九層へつながってる!」
「通れるのか!」
「狭いけど、人が通れる幅はある!」
女は男の腕を掴んだ。
「走って!」
二人は壁際へ駆けた。
兵士が金属板を掲げると、床から何本もの石柱が突き出した。
男は女を庇いながら走った。
一つが肩をかすめ、もう一つが背後の棚を砕いた。
女は鉄扉の前へ滑り込んだ。
扉には、古い排水設備の管理番号が刻まれていた。
女はペンを抜き、数文字を書き加えた。
扉が開いた。
中には、狭い石造りの通路が続いていた。
「行け!」
男は女を先に押し込んだ。
背後から兵士が追ってくる。
男は最後の二発を撃った。
一発目は防がれた。
二発目は兵士の持つ金属板に当たり、端を砕いた。
兵士がよろめいた隙に、男は通路へ飛び込んだ。
女は扉の内側へペンを走らせた。
重い鉄扉が閉まり、外側から激しい音が響いた。
二人は暗い通路を走った。
排水路は、人が屈んでようやく通れるほどの高さしかなかった。足元には浅い水が流れ、壁には古い配管が何本も走っている。
「どこへ出る!」
「地下九層!」
「そこからは!」
「古い保管庫を抜ければ、原簿室へ続く階段がある!」
「本当に?」
「記録では!」
男は笑った。
「お前の記録を信じるしかないな!」
女も笑おうとした。
だが、笑えなかった。
通路の先に、淡い光が見えた。
二人はそこへ向かって走った。
地下九層の保管庫を抜け、さらに階段を下りた。
地下十層。
地下十一層。
最深部へ続く石の扉が見えたとき、時計は十一時五十九分を指していた。
「あと一分!」
女は扉の文字を確かめ、ペンを走らせた。
だが、反応がない。
もう一度書き加える。
淡い光が走ったものの、扉は動かなかった。
「……ここも」
「どうした!」
「参照先が変えられてる!」
女は扉に刻まれた文字を読み直した。彼女が調べた解錠条件は、すべて無効になっていた。
それでも、扉の隅に残る古い避難用の記述を見つけた。
女は数画を書き加えた。
扉が軋み、人一人通れるほどの隙間が開いた。
そのとき、鐘が鳴った。
女は手を止めた。
「……間に合わなかった」
二人は扉を抜けた。
円形の広間には、壁に沿って何層もの書架が並んでいた。高い天井には無数の蛍光灯が取り付けられ、その白い光が、中央の石台に開かれた巨大な帳簿を照らしていた。
帳簿の文字が、ひとりでに動いていた。
女は駆け寄った。
よく知る町の名前が、目の前で消えた。そこに暮らす人々の名前も、彼らが築いてきたものも、次々と別の記録に置き換わっていく。
「待って……!」
女はペンを構えた。しかし、書き加えるべき行はすでになく、次のページでも、その次のページでも、知っている名前が消えていった。
そのとき、背後で小さな金属音がした。
咄嗟に振り返ると、男が腰から抜いた拳銃を不思議そうに眺めていた。
「……これ、何だ?」
「何を言ってるの?」
「いや、何に使うものだったかなって」
男は銃口を覗き込んだ。
女は慌ててその手をはたき落とした。
「何してるの! 死にたいの!?」
「痛っ! 何だよ、急に!」
「だって、あなた……!」
「お前、誰だよ」
女は言葉を失った。
男は本当に困惑していた。つい先ほどまで彼女を守りながら走っていた男が、今は見知らぬ人を見る目をしている。
女は彼の名前を呼ぼうとした。
出てこなかった。
鞄から帳面を取り出す。彼の故郷も、家族も、仕事も、そこで暮らす人々のことも、すべて書いたはずだった。
けれど、ページのあちこちが白紙になっていた。
女は必死にめくった。誰かが毎朝焼いていたパンのこと。祭りの夜に聞いた歌のこと。男が何度も話してくれた、故郷のこと。
覚えているはずの出来事が、読み返す間にも輪郭を失っていった。
女は帳面を握りしめた。
何を守ろうとしていたのか。なぜ、これほど多くの人々のことを書き残そうとしたのか。
その理由さえ、もう思い出せなかった。
「……ごめんなさい」
誰に謝っているのかも、わからなかった。
男は何も言わなかった。ただ、女の顔を見ていた。何か言おうとして口を開き、結局、何も言えずに閉じた。
女の頬を涙が伝った。
男も泣いていた。
背後の扉が開き、兵士たちが入ってきた。
「何者だ。ここで何をしている」
兵士たちも、二人を追っていた理由を忘れていた。ただ、最深部への侵入者を見逃すつもりはなかった。
先頭の兵士が金属板を掲げた。
女はその光を見た。何が起ころうとしているのか、理解できなかった。
男が彼女を見た。
女も男を見た。
互いの名前も、ここへ来た理由も、もうわからなかった。それでも、二人は目を逸らさなかった。
床に刻まれた文字が光った。
次の瞬間、鋭い石柱が二人の身体を貫いた。
女の手から帳面が落ちた。開いたページに血が広がり、残っていた文字を覆っていく。
二人はその場に崩れ落ちた。
男は最後まで女の方を向いていた。女もまた、男を見ていた。
やがて二人の目から光が失われた。
天井に並ぶ白く光る筒は、二人が死んだあとも、何事もなかったように広間を照らし続けていた。




