第1話 会社、辞めようと思ってる
「会社、辞めようと思ってる」
山田山 一二三は言った。
目の前の男は何も答えない。
聞こえなかったのかと思い、一二三はもう一度言った。
「会社、辞めようと思ってる」
「聞こえてる」
二階堂 丞は、アイスコーヒーのストローを指でいじりながら答えた。
「じゃあなんか言えよ」
「何を」
「いや、普通あるだろ。そういう時」
「そういう時って?」
「友達が会社辞めようと思ってるって言った時」
丞は少し考えた。
こういう時、この男は本当に考える。適当に相槌を打って先へ進めるということをしない。
そして、出した答えがこれだった。
「辞めれば」
「軽いな」
「辞めたいんだろ」
「辞めたい」
「じゃあ辞めれば」
「そういうことじゃないんだよ」
「じゃあ何なんだよ」
一二三は黙った。
日曜の午後、町田駅近くの喫茶店はそこそこ混んでいた。
隣の席では大学生らしき男女がスマホを見せ合って笑っている。少し離れた席では、父親が幼い娘のためにパンケーキを小さく切り分けていた。
それぞれ何をしにここへ来て、このあとどこへ行くのか。もちろん一二三には分からない。
それでも、誰も彼も自分よりはやることが決まっているように見えた。
一二三はアイスコーヒーを飲んだ。
もう、ぬるかった。
「なんかさ」
「うん」
「このままでいいのかなって思うんだよ」
「何が」
「人生」
「でかいな」
「30だぞ、もう」
「俺31」
「お前の話はしてない」
「お前が年齢の話したんだろ」
「そうじゃなくて」
一二三は椅子の背に体を預けた。
「ずっとこのまま会社行ってさ。仕事して、帰って、飯食って、寝て。また会社行って。それ繰り返して気づいたら40とか50になるんだぞ」
「まあ」
「それってどうなんだ?」
「普通じゃない?」
「普通だからだよ」
「何が」
「いや、だから……」
言葉に詰まる。
丞は何も言わずに待っていた。
こういう時、丞は助け舟を出さない。昔からそうだった。
中学の頃、一二三が先生に怒られて言い訳に詰まった時も横にいた。高校の頃、好きだった女子に告白しようとして何も言えなくなった時もそうだ。大学でサークルを辞めるか悩んでいた時も、こいつは横で黙っていた。
たぶん丞なりの優しさなのだろう。
一二三には、あまりありがたくない優しさだった。
「もっと何かあると思うんだよ」
「何かって?」
「それを探したいんだよ」
「今の仕事しながら?」
「いや、だから会社辞めて」
「何を探すの?」
「だから何か」
「どこで?」
「それは……」
「辞めた後どうするの?」
答えられない。
「金は?」
「貯金はある」
「どのくらい?」
「それは言わない」
「じゃあ足りるの?」
「たぶん」
「何ヶ月?」
「お前さ」
一二三はテーブルに身を乗り出した。
「友達が人生変えようとしてるんだから、もうちょっとこう、夢のある話できないの?」
「できるよ」
「じゃあしてみろよ」
「宝くじ当たったらいいな」
「帰るぞ」
立ち上がろうとすると、丞が一二三のアイスコーヒーを指した。
「まだ残ってる」
「誰のせいだよ」
「知らない」
仕方なく座り直す。
本当に腹が立つ。
だが丞と話すと、なぜか最後にはいつもこうなる。
丞は背が高く、顔もいい。頭もよければ、勤務先も誰でも名前を知っているような会社で、給料だって一二三よりずっといい。
学生時代から女性にはよく声をかけられていたし、社会人になった今でも、知らない女性から連絡先を聞かれることがあるらしい。
いわゆる、条件だけ見ればかなり恵まれた男だった。
なのに、彼女ができたことは一度もない。
理由は簡単だ。
本人がほぼ喋れない。
今こうして普通に会話しているのは、相手が一二三だからだ。小学校からの付き合いで、今さら気を遣う必要もない。
それ以外の人間を相手にすると、丞は途端に言葉数が減る。女性ならなおさらだった。
その結果、周囲からは「クール」「女性に興味がない」「理想が高い」と勝手に解釈されている。
実際は違う。
ただの人見知りだ。
しかも、かなり重症の。
「お前はいいよな」
一二三は言った。
「何が」
「仕事も金もあるし」
「お前も仕事あるだろ」
「そういう話じゃない」
「どういう話?」
「お前は今の会社辞めようと思わないだろ」
「思わない」
即答だった。
「ほら」
「何がほらなの」
「満足してるってことじゃん」
丞は首を傾げた。
「別に満足はしてないけど」
「え?」
「仕事なんてそんなもんじゃない?」
「いやいやいや」
思わず笑ってしまった。
「満足してないのに辞めないの?」
「辞めるほど嫌じゃないから」
「それでいいの?」
「何が?」
「人生」
「またでかくなったな」
丞はアイスコーヒーを飲んだ。
「ヒフミ」
「なんだよ」
「お前、仕事嫌いなの?」
一二三は答えようとして、やめた。
嫌いなのだろうか。
朝は眠いし、満員電車は嫌だ。上司はめんどくさいし、後輩は手がかかる。会議は長い。取引先は無茶を言う。残業だってある。
できることなら働きたくない。
ただ、会社へ行くことが死ぬほど嫌かと言われれば、そこまでではなかった。
「まあ……好きじゃない」
「嫌い?」
「だから好きじゃない」
「辞めたいほど?」
「だから辞めようと思ってるんだろ」
「何で?」
「何でって……」
また詰まった。
丞はしばらく一二三を見てから言った。
「それ、会社辞めたいんじゃなくて」
「うん」
「何か変えたいだけじゃない?」
一二三は黙った。
「何かって?」
「知らない」
「お前が言ったんだろ」
「俺はお前じゃないから」
「使えねえな」
時計を見ると、午後三時を少し過ぎていた。
その時、テーブルに置いていたスマホが震えた。
画面には友梨亜の名前。
『今日何してるの?』
一二三は読んだだけでスマホを伏せた。
「彼女?」
「そう」
「返さないの」
「後で」
「なんで?」
「今返すと長くなるから」
「何が?」
一二三は丞を見た。
「お前は彼女いたことないから分からない」
「そういう言い方よくないと思う」
「何でそこだけ傷つくんだよ」
またスマホが震えた。
『タスク君といる?』
ため息をつきながら、『そう』と返す。
数秒もしないうちに次が来た。
『何時まで?』
一二三は画面を見たまま止まった。
丞がわずかに体を傾ける。
「見るな」
「見てない」
「見ようとしただろ」
「してない」
「じゃあなんで体傾けたんだよ」
「腰痛い」
「31で?」
「年齢関係ないだろ」
一二三は『まだわかんない』と返信した。
すぐに既読がつく。
『夜ご飯は?』
眉間を押さえた。
「こういうの」
「何?」
「こういうのがめんどくさいんだよ」
「うん」
「別に今日会う約束してるわけじゃないんだぞ」
「うん」
「昨日も会った」
「うん」
「それで今日何してるの、何時まで、夜飯どうするのって」
「うん」
「俺の時間ないじゃん」
「あるだろ」
「どこが」
「今俺といるじゃん」
「そういうことじゃないんだよ」
「またそれ言った」
一二三はスマホをテーブルに置いた。
「友梨亜さ、最近ちょっと重いんだよ」
「重い?」
「なんか、ずっと俺の予定気にしてくるし」
「心配なんじゃない?」
「何を」
「知らない」
「だろ」
「彼女に聞けば」
「聞いたら面倒になる」
「じゃあ聞かなくていいんじゃない」
「お前、話にならんな」
丞は少し考えてから言った。
「別れれば?」
一二三は顔を上げた。
「なんでそうなる」
「めんどくさいんだろ」
「めんどくさいけど、別に嫌いじゃない」
「じゃあ付き合えば」
「付き合ってるよ」
「じゃあいいじゃん」
「よくないから話してんだよ!」
近くの席の大学生がこちらを見た。
一二三は少し身を縮め、声を落とした。
「極端なんだよ、お前は」
「お前が曖昧なんだよ」
言い返そうとして、やめた。
ムカつく。
非常にムカつく。
しかし、否定できない。
広畑 友梨亜とは、もうすぐ付き合って一年になる。
32歳。一二三より二つ上で、出会ったのはマッチングアプリだった。
初めて会った時、一二三は普通に綺麗な人だと思った。話もできる。仕事もしっかりしている。食べ方も綺麗で、店員にも横柄ではない。
プロフィール写真と実物に大きな差もなかった。
今思えば、それだけでかなり当たりだったのかもしれない。
三度目のデートで付き合った。
それから一年。
嫌いではない。
むしろ、好きだと思う。
ただ、時々すごくめんどくさい。
「じゃあ帰る」
丞が立ち上がった。
「急だな」
「お前が人生について悩んでる間に買い物したい」
「人の悩みを何だと思ってんだ」
「長い」
「お前が質問するからだろ」
二人で店を出た。
日曜の町田駅前は人が多い。家族連れやカップル、学生、買い物袋を持った老人が、それぞれの方向へ歩いていく。
一二三は駅へ向かう人の流れを眺めた。
みんな何かしら目的地がある。
少なくとも、今は。
自分にだってある。
明日は会社だ。
朝、町田から電車に乗って新橋へ行く。九時までに出社して、月曜だから朝礼。十時から定例会議があって、午後は取引先との打ち合わせ。
明日やることなら、ほとんど決まっている。
だからこそ、なんとなく嫌だった。
「なあ」
「何」
「お前、やりたいことある?」
丞は歩きながら考えた。
「寝たい」
「そういうのじゃなくて」
「ゲーム」
「趣味じゃなくて」
「じゃあない」
「不安にならない?」
「何が?」
「このままで」
丞が足を止めた。
一二三もつられて止まる。
「ヒフミ」
「うん」
「お前さ」
「うん」
「やりたいことがないのが嫌なの?」
一二三は黙った。
「それとも、やりたいことがある人になりたいの?」
しばらく丞の顔を見る。
「……お前、たまに嫌なこと言うよな」
「ごめん」
「謝るなら言うなよ」
「もう言ったから」
「帰れ」
「帰る」
丞は本当に帰った。
駅前に一人残され、一二三はスマホを取り出した。
友梨亜からまたメッセージが来ている。
『今日会わない?』
少し考えて、『いいよ』と返した。
すぐに既読がつく。
『ほんと?』
『うん』
『じゃあ19時くらいに町田行こうかな』
一二三は画面を見た。
今いるんだけど。
そう思ったが、わざわざ書くほどのことでもない。
『了解』
送信した。
友梨亜は別に悪くない。
会いたいと言われて嫌なわけでもないし、会えば普通に楽しい。
じゃあ、何が不満なんだろう。
会社だって同じだ。
死ぬほど嫌なことがあるわけではない。給料はものすごく高くないが、生活には困らない。人間関係も最悪ではないし、最近では会社から多少評価もされている。
彼女もいる。
友達もいる。
住む家もあるし、飯も食える。
それでも、何かが違う。
そう思ってしまう。
何が違うのかは、自分でも分からなかった。
一二三は改札へ向かった。
明日の会社のことを考えると、少しだけ気が重くなった。
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月曜日、午前八時四十二分。
新橋に着いた一二三は、会社のエレベーターに揺られていた。
眠い。
そして、会社を辞めたい。
昨日より少しだけ、その気持ちは強くなっていた。
理由は特にない。
エレベーターの扉が開いた。
「おはようございます!」
朝からやけに元気な声が飛んでくる。
今井 駿、23歳。今年入った新人で、自称、期待のホープ。
他称は知らない。
「山田山さん! 聞きました?」
「何を」
「今日なんか発表あるみたいですよ」
「へえ」
「組織変更とかじゃないですか?」
「知らない」
「僕、異動とかですかね?」
「入社して何ヶ月だよ」
「でも僕、結構期待されてると思うんですよ」
「誰に?」
「会社に」
一二三は自席に座り、パソコンを起動した。
月曜の朝から元気な人間を見ると疲れる。
今井は悪い奴ではない。素直だし、前向きだ。分からないことがあれば何でも聞いてくる。
問題は、本当に何でも聞いてくることだった。
「山田山さん」
「何」
「この前の資料なんですけど」
「朝礼の後」
「まだ何も言ってないですよ」
「どうせ質問だろ」
「まあそうです」
「後」
「分かりました!」
今井は爽やかに自席へ戻っていった。
本当にいい奴なのだ。
いい奴なのだが、一二三は一日に三回くらい、こいつをどこか遠くへ異動させたいと思う。
午前九時。
朝礼が始まり、金田 敏弘課長が前に立った。
45歳。理屈の人間で、合理性の塊みたいな男だ。
「では始めます」
社員たちが何となく姿勢を正す。
金田は資料を見ながら淡々と話していった。今週の予定、先月の数字、注意事項、連絡。
いつも通りだ。
一二三は半分ほど聞き流していた。
「最後に一点」
金田が言った。
一二三はあくびを噛み殺す。
「来月より開始する新規プロジェクトについてですが」
ぼんやり前を見た。
「プロジェクトリーダーを山田山君にお願いすることになりました」
そのまま、ぼんやり前を見ていた。
数秒かかった。
「……はい?」
社員たちが一斉に一二三を見る。
なぜか今井が嬉しそうな顔をしていた。
なぜお前が。
「山田山君」
「はい」
「聞いていましたか」
「聞いてました」
「ではお願いします」
「あの」
「何でしょう」
「初耳なんですけど」
「今言いましたから」
「そういう意味じゃなくて」
社内の何人かが笑いを堪えている。
金田だけは真顔だった。
「事前に伝える必要がありましたか?」
「普通はあると思います」
「断る予定でしたか?」
「いや」
「なら問題ありません」
「ありますよ」
「何がですか」
一二三は止まった。
何が。
何だろう。
「……心の準備とか」
「不要です」
「不要なんですか」
「能力的に可能と判断しています」
「でも」
「山田山君」
「はい」
「やりたくないのですか?」
社員たちの視線が集まる。
ここで「やりたくありません」と言えるほど、一二三は強くない。
「いえ」
「ではお願いします」
「……はい」
朝礼が終わると、今井がすぐに飛んできた。
「すごいじゃないですか!」
「何が」
「プロジェクトリーダーですよ!」
「聞いてたよ」
「山田山さん出世コースじゃないですか!」
「そんな大したもんじゃない」
「僕も入れてください!」
「何でだよ」
「勉強になります!」
「まず今の仕事覚えろ」
「それも勉強します!」
「二個同時にできないだろ、お前」
「できますよ!」
「この前Excel開きながら電卓叩いてたじゃねえか」
「確実性を重視してます!」
一二三は頭を抱えた。
そこへ金田がやって来る。
「山田山君」
「はい」
「今日の夕方、少し時間ありますか」
嫌な予感しかしない。
「仕事の話ですよね?」
「もちろんです」
「よかった」
「なぜですか」
「いえ」
「プロジェクトについて家で話しましょう」
「家?」
「私の家です」
「会社じゃダメですか」
「今日は妻が餃子を作るので」
「それ俺、行く必要あります?」
「子どもたちも会いたがっています」
「なんで?」
「山田山のお兄ちゃんは来ないの、と昨日聞かれました」
一二三は天井を見た。
金田は会社では怖い。
理詰めで人を追い詰めるし、曖昧な報告を許さない。締切にも厳しい。部下からの評判は、おそらくあまり良くない。
ところが家では別人だ。
二人の子どもを溺愛し、休日には公園へ連れていき、弁当も作る。運動会では場所取りのため朝五時から並ぶ。
そして一二三は、なぜかその家庭に何度か呼ばれていた。
理由は知らない。
「今日はちょっと」
「予定ありますか?」
「いや」
「では決まりですね」
「予定ないって言っただけですよね」
「18時半に出ましょう」
金田はそれだけ言って去っていった。
今井が目を丸くしている。
「課長の家行くんですか?」
「たまに」
「すごいですね」
「代わる?」
「いや、それはちょっと」
「だよな」
椅子に座り直し、パソコンの画面を見る。
プロジェクトリーダー。
昨日、自分は会社を辞めたいと言った。
今日、会社から新しい仕事を任された。
タイミングが悪い。
いや、良いのかもしれない。
それすら分からない。
その時、スマホが震えた。
友梨亜からだった。
『おはよう』
『おはよう』
そう返すと、数秒後にまたメッセージが届いた。
『昨日言おうと思ってたことあるんだけど』
嫌な予感がした。
昨日は19時に会って、一緒に飯を食べた。友梨亜はいつもより少し機嫌が良かったし、帰り際も普通だった。
何だ。
『何?』
既読がつく。
少し間が空いた。
『一二三って、結婚とか考えてる?』
一二三は無言でスマホを伏せた。
「山田山さん」
今井が来た。
「何」
「顔死んでますけど大丈夫ですか?」
「大丈夫」
「プロジェクトのプレッシャーですか?」
「違う」
「僕、支えますから!」
「それが一番怖い」
今井は笑った。
冗談だと思ったらしい。
一二三はもう一度スマホを見る。
会社を辞めたい。
人生を変えたい。
何かしたい。
何者かになりたい。
昨日までは、そんなことを考えていた。
ところが会社ではプロジェクトリーダーにされ、彼女からは結婚について聞かれている。
人生を変えたいと思った途端、なぜか周囲が全力で自分を今の場所に固定し始めた。
「……なんなんだよ」
「はい?」
「何でもない」
今井は不思議そうな顔をして、自分の席へ戻っていった。
一二三はスマホを持ち、返信欄を開いた。
『考えてるよ』
そこまで打って消す。
『まだ分からない』
それも消した。
『急にどうしたの?』
また消す。
結局、何も送れなかった。
パソコンの右下を見ると、まだ9時17分だった。
月曜日は始まったばかりだ。
会社を辞めたい。
友梨亜とは別れたいわけじゃない。
プロジェクトだって、やれと言われれば多分やれる。
結婚も、絶対にしたくないわけではない。
ただ、全部まだ今じゃない気がする。
じゃあ、いつなのか。
それは分からなかった。
スマホがまた震えた。
友梨亜からだった。
『別に今すぐって意味じゃないからね』
一二三は画面を見つめた。
もちろん、書いてある意味は分かる。
今すぐじゃなくていい。
ただ、それだけだ。
なのに一二三には、その一文がどうしても、
「今すぐ答えろ」
に見えた。
くすぶってることの多くは中々自分では決められない。理想と現実。
分かってもらえることも、分ってもらえないこともあると思います。
私はそれでいいとも思ってます。きっといつでもMinorityなのだから




