↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
最低ランク《鎮静》の俺、その正体は催眠能力者 ――勇者のヒロインを静かに奪う  作者: 催眠スキ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

22/23

閑話 そこにあるもの

 恋人になってから。


 数日が過ぎた。


 変わったことは、それほど多くない。


 教室では今までと同じように話す。


 一緒に昼食を食べて。


 放課後になれば、並んで帰る。


 二人きりのときだけ。


 九条は俺を透と呼ぶ。


 俺は九条を澪と呼ぶ。


 それだけで。


 十分に変わったような気もしていた。


 ◇


 放課後。


 図書館二階の学習室。


 四人用の部屋を、俺の名前で予約してある。


 扉は閉まっていて、使用時間が終わるまで他の生徒は入ってこない。


 机の上には、教科書とノートが二冊ずつ。


 九条は来週の小テストに向けて、俺に数学を教えていた。


「ここ」


 九条が俺のノートを指さす。


「どうして急に、この式になるの?」


「途中を書いてないから」


「書きなさいよ」


「頭の中では分かってる」


「それを答案に書かなかったら、先生には伝わらないでしょう」


「察してくれない?」


「試験で何を期待してるのよ」


 九条が呆れたように息を吐く。


 俺のノートへ、抜けていた途中式を書き足した。


「こう」


「長い」


「三行でしょう」


「三行も」


「それくらい書きなさい!」


 いつもと同じやり取り。


 九条は真面目で。


 俺は面倒がる。


「透」


「ん?」


「次は自分で解いて」


「分からなかったら?」


「そのときは教えるわ」


「最初から教えて」


「駄目」


 九条が自分のノートへ戻る。


 問題を読み、鉛筆を動かし始めた。


 数字を書く。


 式を一つ進める。


 そのまま鉛筆が余白へ滑った。


 『透の隣は落ち着く。』


 九条は止まらない。


 書いた文字を見たまま、次の式へ戻る。


 少し考えて。


 また余白へ鉛筆を走らせた。


 『名前で呼ばれると嬉しい。』


 表情は変わらない。


 計算の途中式を書いたときと同じ表情だった。


「澪」


「何?」


「今、何書いてる?」


「問題の答えでしょう」


「余白は?」


「途中式よ」


 九条は自分の文字を見ている。


 それでも。


 そこに何が書かれているのか分かっていない。


 予定どおりだった。


 ◇


 今日、この部屋で新しく暗示を入れたわけではない。


 恋人になった翌日から今日まで。


 二人きりになるたびに、短い言葉を一つずつ沈めておいた。


 俺と二人きりで鉛筆を持ち、問題を解き始めたら、考えていることが余白へ漏れる。


 自分が書いた言葉は、全部ただの途中式に見える。


 ノートを閉じるまで、その食い違いには気づかない。


 一度に入れた命令ではない。


 小さく分けて。


 同じところへ重ねた。


 九条は俺を信じている。


 その信頼を通れば、以前よりも言葉が深くまで届いた。


 九条の鉛筆が動く。


 『今日も一緒に帰りたい。』


 『もう少し一緒にいたい。』


 『透が好き。』


 最後の一行だけ。


 少し大きな字だった。


「澪」


「何?」


「俺のこと好き?」


「……急に何?」


 九条が少しだけ顔を赤くする。


「好きだけど」


「そっか」


「何度も言わせないで」


「聞きたかったから」


「昨日も聞いたでしょう」


 九条はそう言って、また問題へ戻る。


 余白には。


 『透が好き。』


 同じ言葉が、もう一度増えていた。


 俺がこれまで置いた言葉の影響は、今も九条の中に残っている。


 でも。


 『透が好き』と、新しく書き込んだわけではない。


 九条が自分で認めた気持ちを。


 隠せない形で紙へ出しただけだった。


 ◇


 九条が次の問題へ移る。


 俺は鞄から、金属の小さなスプーンを一本だけ取り出した。


 机の端へ置く。


 九条は一度スプーンを見たけど、何も聞かなかった。


 その隣には何もない。


「澪」


「何?」


「プリン、食べる?」


 九条の鉛筆が止まった。


 顔を上げる。


 視線が、スプーンの隣へ移った。


 何もない机の上で止まる。


「……勉強中なのに?」


「休憩」


「まだ始めて三十分でしょう」


「食べない?」


「食べるわよ」


 少し呆れた声。


 でも。


 九条の左手は、もう空の机へ伸びていた。


 指が途中で止まる。


 何もない空間を包むように、緩く曲がった。


 手首がわずかに沈む。


 そこにある容器の重さを支えるように。


 親指と人差し指が、存在しない蓋の端をつまむ。


 すぐには動かない。


 九条は指先へ少し力を込めた。


 貼りついた蓋の抵抗に逆らうように、ゆっくり腕を引く。


 途中で手首が軽く跳ねた。


 蓋が剥がれたらしい。


 九条は何も持っていない指を横へ動かし、机の端へ置いた。


「いただきます」


 右手で実在するスプーンを取る。


 先端を、何もない空間へ下ろした。


 金属の先は机に触れる前で止まった。


 九条の手首が、柔らかいものへ押し込むように傾く。


 少し横へ動かして。


 ひと口分を切り取る。


 俺から見れば。


 スプーンは空中を通っただけだった。


 九条は、すくったものを落とさないようにスプーンを水平に保つ。


 ゆっくり口元へ運んだ。


 唇が、わずかに開く。


 柔らかな唇の内側が、金属の縁に触れた。


 空のスプーンを、丁寧に口へ入れる。


 舌の先が、スプーンの裏側をなぞるように動く。


 何もないはずの甘いものを、ゆっくりと舌で確かめる。


 抜いたあと。


 唇が、名残惜しそうにスプーンから離れた。


 少しだけ目を細めた。


 すぐには飲み込まず。


 口の中で、ゆっくりと舌を動かしている。


 味を確かめるように、一度だけ小さく頷く。


 幸せそうな、わずかな笑みが浮かんだ。


「美味しい?」


「ええ」


「どんな味?」


「卵の味が濃い。甘さは控えめね」


 もう一度スプーンが下りる。


 今度は少し外側へ。


 容器の縁に沿ってすくうように、手首が丸く動く。


 何もない場所から、二口目を運ぶ。


 唇が再び開き、スプーンを受け入れる。


 舌が、すくったものを丁寧に絡め取る。


 口に入れた瞬間。


 九条の眉がわずかに動いた。


 でも、すぐに目元が緩んだ。


「苦い?」


「カラメルが少しだけ。でも、これくらいがいいわ」


 左手が、存在しない容器の向きを変える。


 指の間には何もない。


 それでも。


 残ったプリンを集めるために、容器を傾けたつもりでいる。


 スプーンを底へ滑らせる。


 机の天板から少し上で、金属の先が止まる。


 底に当たった感触があるらしい。


 九条は角度を変え、見えない底を二度すくった。


 少しずつ。


 本当に中身が減っているように、手を入れる位置が深くなる。


「透は食べないの?」


「澪の分だから」


「一口くらいならあげるけど」


「いい」


「そう?」


 九条は、また空のスプーンを口へ運ぶ。


 唇が、優しくスプーンを包み込む。


 舌が、ゆっくりと内側を撫でるように動いた。


 引き抜くとき、唇がわずかに糸を引くように離れた。


 満足そうに息をついた。


 目を細め、口元に柔らかい笑みを浮かべている。


 九条の中では。


 容器の冷たさも。


 手に乗る重さも。


 蓋を剥がした抵抗も。


 スプーンですくう感触も。


 匂いも。


 味も。


 全部。


 そこにある。


 俺の目の前には。


 スプーンしかない。


 ◇


 「プリン、食べる?」


 それが二つ目の合図だった。


 俺と二人きりのとき、俺の声でこの言葉を聞いたら、目の前にプリンがある。


 容器の形も、冷たさも、重さも分かる。


 蓋には抵抗があって、スプーンを入れれば柔らかく沈む。


 口へ運べば、甘い匂いと味を感じる。


 食べ終わるまで、それが存在しないとは思わない。


 その暗示も。


 一度に入れたものではなかった。


 見る。


 触れる。


 重さを感じる。


 匂いを感じる。


 味わう。


 数日かけて、一つずつ重ねた。


 今は。


 短い一言だけで。


 全部が同時に起きている。


 九条が最後のひと口をすくう。


 空のスプーンを口へ入れ、ゆっくりと唇を閉じる。


 舌が、丁寧に味わうように動いた。


 喉が小さく上下し、飲み込んだ。


 それから、見えない容器の内側を確かめるように覗き込む。


 底へスプーンを当てる。


 一度。


 もう一度。


 残っていないことを確かめてから、スプーンを置いた。


「ごちそうさま」


「美味しかった?」


「美味しかったわ」


 九条は満足そうに答える。


 口元に、まだ甘さを残したような緩い笑みが浮かんでいた。


 空の容器を置くつもりで、左手を机へ下ろした。


「片付ける」


「お願い」


 俺は手を伸ばす。


 何も掴まず。


 机の横へ動かした。


 九条はそれを見ている。


 俺が容器を片付けたと思っている。


「休憩は終わり」


「分かってるわよ」


 九条はまた鉛筆を持ち、問題の続きへ戻った。


 ◇


 その後も。


 『透の隣は落ち着く。』


 『もう少し一緒にいたい。』


 『透が好き。』


 数式の間に、本心が増えていった。


 九条は一度も気づかなかった。


 使用時間が終わる少し前。


「今日はここまで」


 俺が言うと、九条がノートを閉じた。


 それが最初の暗示を終わらせる合図だった。


 九条が鞄の中を整理している間に、俺は九条のノートを引き寄せ、もう一度開いた。


 余白の文字を消しゴムで消した。


 『透の隣は落ち着く。』


 『名前で呼ばれると嬉しい。』


 『今日も一緒に帰りたい。』


 『もう少し一緒にいたい。』


 『透が好き。』


 白い消し屑と一緒に。


 一つずつ消えていく。


 最後には、少し薄くなった余白だけが残った。


 消し屑を払い、ノートを閉じて九条の鞄の横へ戻した。


 机の端には、使い終わったスプーンが一本。


 汚れていない。


 プリンの匂いもしない。


 俺がこれまで置いた言葉の影響は、余白にも残っている。


 それでも。


 『透が好き』という恋心を、俺が今日、新しく作ったわけではない。


 文字は消えた。


 気持ちは消えない。


 プリンだけが。


 最初からどこにもなかった。


「透」


「ん?」


「帰りましょう」


「うん」


 九条が鞄を持つ。


 俺の隣へ来る。


 何も知らないまま。


 俺を信じて。


 いつもと同じように。


 恋人になっても。


 やめる理由はなかった。


 今日。


 存在しないプリンを見せるために、俺が九条へ言ったのは。


 たった一言だけだった。


 「プリン、食べる?」


 それだけで。


 九条にとっては。


 確かに。


 そこに存在した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。