公爵と女王の企み
カラブレット王宮の奥まった一室。
分厚い扉は厳重に閉ざされ、窓には重たい緋色のカーテンが引かれて外の陽光を遮っている。
壁を飾る金の額縁や繊細な彫刻は、この場の静寂に飲み込まれ、重々しい空気だけが部屋を満たしていた。
数分前、扉の外にいた護衛たちは、イブロスティ女王の短い一言で退けられた。
「一切、聞き耳を立てるな」――その声の余韻が、いまも扉の向こうに残っているかのようだ。
重い沈黙を破り、グオリオラ・テノーラ公爵が低く声を落とした。
「やはり、ユリアスは特別だ。あれほど急成長する者など、これまで見たことも聞いたこともないぞ」
声は抑えた調子ながらも、その響きには苛立ちが滲んでいる。
「そうね。エリナは隠しているけれど、あの子は特殊なスキル持ちに違いないわ」
「だろうな。なんとか聞き出せないものか?」
「私には無理よ。テノーラ、あなたならできるんじゃない?」
「いや、無理だ。イブの命令ってことで聞き出せないのか?」
「無理無理無理無理!」
二人はカラブレット王都高級教育学院の同期生である。それゆえ、この張り詰めた空気の下でも、どこか打ち解けた親しさが漂う。
学院は幾つかの専門科に分かれており、エリナはテイマー科と剣術科で首席を取っていた。暇さえあれば士官科の講義にも顔を出していたが、そこでも群を抜く成績で、正式に試験を受けていれば首席は間違いなかったと言われている。
テノーラもイブロスティも士官科だったが、模擬試験でエリナにプライドを叩き折られたのだ。その後、三人は公私ともに行動を共にし、親密になっていった。ちなみに現在、パドレオン男爵領で守兵団長を務めるイードも、学院の剣術科の同級生である。
天井の高い部屋に、女王のため息が細く響く。
「まあ、私たちはエリナには頭が上がらないわね」
「ああ。あの事件を未然に防いだのだからな」
二人は一瞬視線を交わしながら過去に思いを馳せるが――その話はまた別の機会にしよう。
テノーラが軽く頭を振り、話を戻した。
「いかんいかん。とにかく、ユリアスをこの国に繋ぎ止めるために『子爵』へ昇爵させることでいいのよな?」
ユリアスは、世界を破滅に導きかねない「ツチグサレ」というキノコを消滅させるために出兵中だ。恐らくやり遂げるだろう。
さらにアイーダ草原に現れたオークやヴォーグなどの魔物討伐も果たし、シムオールのみならず王国南部全体を魔物の脅威から守っている。昇爵するだけの功績は十分にある。
「もちろんよ。それにエリナにも爵位を与えるわ。理由をつけて。縛れるとは思わないけど」
「ああ。縛れるとは思わない方がいい。……爵位の理由か」
二人とも、声を潜めて黙考する。やがてテノーラが息を吐き、わずかに口元を歪めた。
「ユリアスを子爵にするだろう? あの子のことだ、きっとあちこちに遠征すると思わないか?」
「そうね」
「すると、領主の代理を務めるのは主席執政官のエリナになる」
「あっ、わかった。他の貴族領でも、当主が不在なら爵位の上の者が代理を務めるのが慣例だものね。それで説得するつもり?」
「察しがいいな。その通りだ。ほとんどの領で身内の貴族か準貴族を代理に据える。その慣例を盾にできるはずだ」
「じゃあ、テノーラ、頼んだわよ」
「えっ!? 俺!? 嫌だよ! 虎の首に鈴をつけるような真似はしたくない!」
「私だって同じよ! 言い出しっぺのあなたの役目よ!」
しばらく言い合いになったが、結局テノーラが説得役を引き受けることになった。
エリナに与える爵位は「女男爵」と決まった。久方ぶりの女性への賜爵である。
彼らがユリアスを国に繋ぎ止めたいのは、その力が未知数であり、かつ圧倒的だからだ。パドレオン男爵家の兵数は王国軍に比べれば少ないものの、戦力は侮れないほどであり、さらにその力が今後も増していくのは想像に難くない。
テノーラが、声を落として囁く。
「ねえ。爵位くらいじゃ繋ぎ止められないよな」
イブも視線を落とし、力なく笑う。
「何度、同じことを言ったかしらね」
「領軍の指揮官たちの話をしたろう?」
「ええ。アントラーだったわよね」
「総指揮官のマーベラ女史はヒューマンだ。元はワイルドキャッスル族らしいがな。だが俺が言ってるのは彼女じゃない。その下で指揮を取っていたルドフランという男だが、あいつもヒューマンになったらしい」
「はい? 夫人たちもそうだったんじゃなかったかしら? それに総指揮官や指揮官まで!?」
「そうなんだよ。原因はどう考えてもユリアスだろうな」
ユリアスの周囲にいる魔物たちだけがヒューマン化しているのだ。この二人には誤魔化せない。
「ルドフランはなかなか優秀だ。ついでにもう一人、指揮官のラトレルという男もヒューマンになった。こいつも優秀だ」
「ふう。驚くことばかりねえ」
イブがテーブルに両肘をつき、顔を覆うように指を組む。
その様子を眺めていたテノーラは、ふと懐から金の懐中時計を取り出した。
開いて時刻を確かめる仕草をしながら、口元にわずかに笑みを浮かべる。
その笑みは、どこか悪戯を企む子どものようでもあり、危険な策を楽しむ策士のものでもあった。
「まったくだ。……ところでな」
パチン、と時計の蓋を閉じる音が密やかに響く。
「グラポップにイスカンダリィ公爵って爺さんがいるだろ?」
「ああ。息子夫妻を亡くして跡継ぎがいないっていう、あの公爵ね?」
「そうそう。……そこでだ、どうだろうな」
イブがテノーラをじっと見つめる。
「まさか、政略結婚でもさせようっていうの!?」
「もちろん俺たちが無理やり押し付けるわけじゃない。ただ引き合わせるだけさ。二人がくっつくようには導くがね」
「あんた……今、ものすごく悪い顔してるわよ」
「そ、そうか?」
だが決して悪い策ではない。ユリアスは“ファミリー”と呼ぶ近しい者たちを何より大事にしている。その者たちが国内で縁を強めれば、ユリアスも邪険にはできないだろう。
しばらく沈黙が落ちた。二人とも視線を泳がせ、またふと視線を合わせる。
「まあ……」
イブが一度目を伏せ、ゆっくり息を吐く。
「ユリアス君の昇爵、エリナへの爵位授与も含めて――」
再び顔を上げた瞳は、どこか鋭さを帯びていた。
「じっくり根回しを進めるとしましょうか。イスカンダリィ公爵の件もね」
テノーラは肘掛けに置いた指を軽く叩き、低く笑った。
「ああ……。来年を目処に動いてみるさ。下手に急いでも、ユリアスには見透かされかねないからな」
短い沈黙が落ちる。
どちらともなく視線を交わし、また視線を逸らす。
「やっかいね……」
「めんどうだな……」
二人は吐き捨てるように呟きながらも、口元にはどこか楽しげな笑みを浮かべていた。
陰謀や謀略、利権絡みで頭を悩ませるより、ユリアスという存在を巡る策を練ることの方が、ずっと胸を踊らせるのだ。
やがてテノーラが小さく首を傾げる。
「なあ、イブ。そろそろ……」
「ええ。お茶にしましょうか?」
「頼む。話してたら喉が渇いた」
イブは笑みを深めると、卓上の銀鈴をそっと鳴らした。
すると扉の外に控えていた侍女がすぐに現れ、二人分の香り高い茶が運ばれてくる。
テノーラは湯気の立つ杯を一口すする。
「……うまいな。俺はこういう陰謀話の後の茶が、一番好きだ」
「まったく、物騒なことを言うわね」
イブがくすりと笑い、二人は杯を合わせた。
その音が、密やかに部屋の静寂に溶けていった。