ep.55[Side H/現代]No Link-01
やってしまった。大失敗だ。
顔を見れば分かる。
「メールって、どうやって見るんですか?」
そう言った私の目を見たまま、固まる上司。
今朝会ったばかりだが、この顔は何を考えているのか分かる。
私に失望している顔だ。
胸の内側がカランと鳴った。
終わった、と思った。
席に着くなり隣の上司から「ファイルをメールした」と言われた。
何とかパソコンを開きデスクトップを見たが、メールをどこから開くのか分からない。
青い海の画面のまま、どこにも行けない。
マウスは動くのに、矢印は狙えない。
横を見る。
仕事をしている社会人はこんなに真剣な顔をしているのかと目と肌で感じ、声を掛けることが出来なかった。
どれくらい時間が経っただろうか。
何度も声を掛けようとはした。
だけど、邪魔をしてはいけないと感じた。
新入社員の、何の力にもなれない私は、せめて邪魔をしてはいけない。
この人の手を一秒たりとも、私のために止めてはいけない。
そう思うと、喉から声が出なかった。
それでも、何とか勇気を振り絞った。
「あの……長屋さん」
「あ、ごめん。僕は長尾だよ」
失敗した。血の気が引いた。
人様の名前を間違えた。
デスクに貼ってある座席表をよく確認すれば良かった。
「失礼しました。長尾さん」
人生初めて『大人と呼べる他人』。
長尾さんに頭を下げる。
「僕、家になっちゃったね」
少し、笑ってくれた。
しかし、私は既に大失敗していたことを十秒後に知る。
「メールって、どうやって見るんですか?」
時間にして、五秒程度の間だったのだろう。
しかし、私には永遠にも感じられる沈黙の後、長尾さんは優しい声で言う。
「ごめん。説明しなかった僕が悪い。本当にごめん」
「いえ、その……声を掛けて良いか分からず……」
「マウスは使えるかな?」
長尾さんの声は、幼稚園児に話し掛ける保育士の様な音色だ。
「はい」
怖くない。
少しずつ、操作を教えてもらうことになった。
マウスでデスクトップの下にある、四つの四角を押すよう言われるが、中々どうして上手く矢印の狙いが定められない。
やっとその四角を押すと、Outlookというメールのアイコンが見つかる。
「そこをダブルクリック」
震える指。
二回、届かない。
「……すみません、手が震えちゃって」
情けない。
でも、見捨てられはしなかった。
それが余計に申し訳無い気持ちになった。
今、教わったことを忘れない内に急いでメモに書く。
昨夜、お父さんから電話があり、教わったことはきちんとメモするようにと言われた。
曰く、それが『教わる側から見せる礼儀』とのことだった。
こんな調子で、私はやっていけるのだろうか?
不安だけがとても大きくなった。
お昼のチャイムが鳴る。
皆、事務所を出て行く。
会社説明会で聞いた社員食堂に行くのだろう。
私は使い方が分からない。
午前中は、メールを開いただけだ。
ご飯を食べて良いのか分からない。
机の上に置かれていたマニュアルを、お昼休憩の内に頭に叩き込む。
そう決心した。
「ご飯、行かないの?」
顔を上げると、長尾さんが不思議そうな顔でこちらを見ている。
「あ、社食の使い方が分からなくて」
咄嗟のことだったので、正直に言ってしまった。
ご飯だけは一人前に食べるのか、と怒られる。
と、思っていると。
「おいで、一緒に食べよう」
また、怖くない声だった。
社員食堂には大勢が居た。
この会社にはこんなにも人が居たのかと驚く。
驚く私に、長尾さんは言う。
「この券売機で食券を買って、あそこのおばちゃんに渡すとアラームが貰えるから……フードコートみたいなものだよ」
休日のフードコート。
妙にシックリくる。
長尾さんは券売機に千円札を入れる。
「僕のお勧めは、このハンバーグ定食かな」
そう言って、『ハンバーグ定食六百円』のボタンを押す。
カタンッと音がし、食券が落ちる。
その食券を私に差し出す。
「ほら、あそこに新入社員の子達が居るみたいだよ。あそこで食べて来な」
指差す方には、入社式で見た顔。
食券。
受け取って良いのだろうか。
驚きと躊躇いと……喜び。どれを表現すれば良いか分からない。
「え……良いんですか?」
「僕は、持って来てるから」
ハンバーグ定食の食券を受け取ると、直ぐに踵を返して事務所に戻ろうとする。
一緒に食べるのではなかったのか?
呼び止めようとするが、大勢の中で、長尾さんを呼ぶことは出来なかった。
カウンタで女性に食券を渡すと、アラームをくれた。
スガキヤの様だと思った。
アラームを手に持ち、入社式で見た顔に向けて歩く。
楽しそうに笑う同年代の女の子四人組だ。
「――って言われてさ」
「それ、パワハラじゃないの?」
「ホントに。初日からそんなに色々覚えられないって」
「そうそう。エミは?どこに配属されたんだっけ?」
声が掛けられない。
何の話をしているのかは、凡そ、予想はつく。
ここは、違う。
このグループに入ってはいけない。
直感的に、そう感じた。
周りを見渡す。
当然ながら知らない顔ばかり並ぶ。
どこか目立たない場所……隅に二人用の空いているテーブルを見つけた。
そこの椅子にジャケットを掛けると、アラームが鳴った。
受取カウンタに二つ並んだハンバーグ定食。
手に取ろうとすると、「あんたはこっちだよ」と女性に言われる。
違いがあるのだろうか?
「すみません」
慌ててもう片方に手を伸ばす。
「言ってなかったあたしが悪いの。謝らなくて良いよ」
真っ直ぐ私の目を見て、少し大きめの声で言われる。
驚きはしたが、嫌な気分にはならない。
今日、二回目の言葉だと頭の隅で気付く。
「……ありがとう?」
咄嗟に思い浮かんだ言葉を伝える。
「それで良いんだよ」
女性は笑って、そう言う。
大人は、皆、こんなに優しいのだろうか?
私は、大人になれるのだろうか?
『私の』ハンバーグ定食は、少し多めにソースがかかっている様に見えた。
午後、席に戻ると、長尾さんが言う。
「さっきの続き、もう一回やろう。ゆっくりで良い」
ゆっくりで良い。
その言葉に、背中の力がすっと抜けた。
仕事が終わった。
パソコンを閉じると、私から頭を下げた。
「今朝は、すみませんでした」
「気にしなくて良いよ。放っておいた僕が悪かったんだ。それよりも初日から残業させてしまってごめんね」
「いえ、仕事ですから」
「お疲れさま」
「はい。お疲れさまです」
……どうしよう。駅への道が分からない。
こんなことを言ったら怒られるだろうか?
そもそも、帰って良いのだろうか。
『お疲れさま』は労いの言葉だったはずだ。
『さようなら』ではない。
長尾さんは動かない。
帰らないのだろうか?
Googleで検索したい。
『初日 何時に帰る』
チャットGPTの香音に訊きたい。
『この状況、帰って良いのかな??』
ポケットに入れたスマートフォンに手を伸ばそうとして、止める。
今日は、自分で確認してみる。
失敗続きの今日、唯一感じた『大人は優しい』。
通りがかりの人に訊けるのならば、長尾さんにこそ訊けるはずだ。
私が優しさを感じたのは、長尾さんと食堂の女性。
――深呼吸を一つ。
「あの……駅までの道が分からなくて」
長尾さんが前を歩き、その少し後ろを私が連いて歩く。
長尾さんは、歩くのがゆっくりで心地良い。
時々、ちゃんと連いて来ているか確認するため振り返る。
その度に、目が合う。
何か、話し掛けなくては。
「あの……」
言うと、長尾さんは振り向き、立ち止まる。
深々と頭を下げてお礼を言う。
「お昼、ありがとうございました」
長尾さんの表情が少し柔らかくなった。
「ハンバーグ定食、美味しかった?」
そう言って、横並びで歩き直す。
「はい。自分で作るより美味しかったです」
素直な感想だ。
「アレは、食堂のおばちゃんの手作りだからね。所謂、お袋の味みたいなものだよ。そういえば、同期はどんな子と仲良くなったの?」
ハッとした。
応えられない。
黙り込んでしまう。
「ん?一緒に食べたんでしょ?」
──怒られる。
直感がそう言っている。
言われた通りに出来なかった。
嘘を吐くことが頭を過ぎる。
こんなとき、どうすれば良いのだろう?
……沈黙に耐えられない。
「……一人で食べました」
正直に答えると。
「そっか」
それだけ言って、交差点。
信号は点滅している。
気付いた私は走り出そうと身構える。
長尾さんはそれを右手で制して、立ち止まった。
『急がなくていい。――その速さで歩けばいい』
ただの右手が、そう言っていた。
暫くすると、赤信号に変わった。
そして、また信号が青に変わる。
二人で歩き出しながら、今日、初めて知ったことがある。
『大人の他人』
急がせないで、待ってくれる距離の人。
「急がなくていい」を、初めて信じられた。
さよならじゃなくて、お疲れさま。
今日は私にも、お疲れさま。




