ep.31[Side T/異世界]Link: 人狼-05(後編)
扉が閉まってから、家の中の音が更に減った。
減った分だけ、自分の呼吸が大きく聴こえる。
私は身体を起こさずに、枕元の『堕ちた林檎』を手に取った。
指先が紙を撫でる。
紙は乾いている。
乾いているのに、今は冷たい。
ページを開く。
窓から漏れる月明かりと星々が神話を照らす。
でも、文字は並んでいるだけで意味が頭に入って来ない。
読めない訳じゃない。
読めるのに、読んだ先が自分の中に落ちて来ない。
暫く眺めて、私は本を閉じた。
閉じた瞬間、涙がまた落ちそうになる。
大和のベッドを汚さない様に指で拭った。
毛布を引き寄せて、頭まで被る。
暗いと落ち着く。
落ち着くのに、眠れない。
外の虫の声が続く。
時間が進んでいる感じがしない。
どれくらい経ったのか分からないまま、遠くで板が軋む音がした。
家の中じゃない。
外の足音だ。
私は毛布の中で息を止めた。
止めた息が苦しくなって、遅れて吐いた。
扉が静かに開く。
大和は中に入って来なかった。
入口の所で立ったまま低い声で言う。
「……起きてるか」
私は返事をしなかった。
返事をすると声が震える気がした。
大和は一拍だけ黙って、何かを床に置いた。
「水と……飯、持って来た。置いとく」
置き方が乱暴じゃない。
大和は小さく言う。
「さっきは、悪かった」
言い切った後、言葉を足さない。
扉が閉まる。
私は毛布の中で目を閉じた。
閉じた瞼の裏に浮かぶ。
白い蛍光灯。
黄色い背表紙。
黒いチェルシーブーツの足音。
美術展の栞を取った指。
胸じゃない場所に落ちてきた視線。
──あの人の目。
それが来るだけで胸が痛い。
触れたい訳じゃない。
触れたいけど届かない。
私は毛布を外して、身体を起こした。
袋から水を出して、ひと口飲む。
冷たい。
冷たさだけが現実を戻す。
包み紙を開く。
焼いた肉の匂いがした。
食べられる。
食べられるのに、口が動かない。
私は小さく噛んで、飲み込んだ。
飲み込んだ瞬間、胃の辺りが熱くなる。
食べ終わっても、涙は止まらなかった。
止まらないまま、顔だけは拭ける。
私はベッドに戻り、横になって泣いた。
外の明るさに目が醒める。
大和の気配があった。
「……行くぞ」
それだけ言う。
それだけで、私が起きている前提で進める。
「うん……」
私は靴を履いた。
チェルシーブーツ。
踵を一度だけ床に当てて音を確かめる。
外に出ると空気が薄い。
だけれど匂いは濃い。
土と木と、火の匂い。
大和は私の横を歩く。
昨日より、ほんの半歩だけ遠い。
村の道に出る。
視線が点在しているのが分かる。
見られている。
品定め。
敵かどうか。怖がるかどうか。泣くかどうか。
私は顔を上げない。
上げないまま歩く。
広場に来る。
銅像が立っていた。
獣人の子供と人間の子供。
手の間に、小さな林檎。
差し出すでも、受け取るでもない。
どちらでも出来る形だった。
私は足を止めた。
止めた瞬間、大和も止まる。
「……それ、気になるか?」
私は頷くだけ頷いた。
大和は像を見上げて、短く息を吐く。
「怒ってるか?」
「ううん」
「俺の事、怖いか?」
「ううん」
「俺の事……嫌いか?」
「ううん」
「もう、帰りたいか?」
「ううん」
「……未だ、居てくれるか?」
「うん」
その返事の後、言葉が続かない。
続かないのに胸の中は五月蝿い。
背後から足音が近付いて来る。
重い足音じゃない。
静かなのに近付いて来る足音。
振り返る前に分かった。
村長だ。
「おはようございます」
村長の声は低い。
低いのに角が立っていない。
「おはようございます」
村長は私を一瞬で測って、大和を見る。
目が細い。
笑っていないのに、怒ってもいない。
「昨夜は休めましたか?」
私は答えなかった。
答えないまま、頷くことも出来無かった。
村長はそれ以上訊かない。
訊かない代わりに視線を銅像へ移した。
「その像は村の約束です」
「約束?」
「えぇ。人間と共に在るという約束」
村長は淡く笑う。
「そして、今は未だ……準備が足りませんな」
準備、という言葉だけが綺麗に刺さる。
村長は大和に顔を向ける。
「森の見回りに行きなさい。境目の音がまた乱れている」
大和の眉が僅かに動く。
嫌そうじゃない。
迷っている顔だ。
「永遠名さんも興味があるなら──」
村長は私を見る。
「見ておくと良い。知らないままより、知っている方が恐怖は薄くなる」
言い方が柔らかい。
柔らかいのに断れない形をしている。
大和が短く言う。
「……危ねーぞ」
私は大和を見た。
目を見た瞬間、別の目が浮かび掛けて直ぐ消えた。
「大和が守ってくれるんでしょ?」
「あぁ」
私は頷いた。
頷いた自分が何を選んだのか分からないまま。
村長はそれを見て、小さく頭を下げた。
「では、お気を付けて」
大和が歩き出す。
私は半歩遅れて付いて行く。
広場を抜けると、村の匂いが少しずつ薄くなる。
森の匂いが濃くなる。
足音が土から枯葉へ変わった。
変わっただけで、胸がざわつく。
「なぁ」
大和が言う。
言ったまま次の言葉を探している。
私は何も言わない。
言わないまま歩く。
森の手前で大和が立ち止まった。
木々の影が濃い。
「ここから先は……音が変になる」
大和は森を見たまま言う。
──変になる。
言葉が届かない。
届いても、違う意味で刺さる。
私はポケットの中のiPhoneを確かめた。
画面は点けない。
大和が振り返って、私の目を見る。
「怖いなら、戻る」
私は答えなかった。
答えないまま、一歩だけ前へ出た。
足元の枯葉が鳴った。
鳴ったはずなのに、鳴り方が遅れて届く。
遅れた音は私の心臓の拍と噛み合わない。
森の中は昼なのに薄暗い。
木漏れ日はあるのに、光が届ききっていない感じがした。
空気だけが軽い。
大和が一歩先を歩く。
昨日より半歩遠いまま──でも離れ過ぎない距離で私の前に影を置く。
その影があるだけで怖さの形が少しだけ変わった。
「言っただろ。ここ、音が変になる」
大和は振り返らずに言った。
声の輪郭が木々の間で少し歪んで聴こえる。
「変になるって、どういう……」
私が言いかけた瞬間、言葉が自分の口から落ちる前に、森が先に答えた。
遠くで枝が折れる音がして、それが近い場所みたいに響いた。
踏み込むほど、世界が会話を嫌がっている感じがする。
耳に入ってくる音が意味じゃなくて質感だけになっていく。
誰かの笑い声みたいなものが風の擦れる音みたいに混ざる。
小さな水の音がした。
川じゃない。
流れというより呼吸みたいな水音。
大和の足が止まる。
「……居る」
その一言が森の中で妙に真っ直ぐだった。
私は大和の横から、音のする方を見る。
木の根が露出した窪みに、水が溜まっている。
溜まっているだけのはずなのに、そこだけ冷たい明るさが揺れていた。
水面に影が映る。
私の影じゃない。
大和の影でもない。
小さ過ぎる影。
次の瞬間、影が水面から立ち上がった。
立ち上がったのに足音が無い。
そこに居るのに、重さが無い。
子供の輪郭だった。
輪郭だけが子供で中身は水みたいに透けている。
顔は見えるのに表情が掴めない。
泣いていないのに、泣き声の直前みたいな気配だけがある。
私は息を吸って、吐いた。
吐いた息が白くならない。
喉元が冷える。
「あれは何……?」
声が小さくなった。
小さくなるのは、怖いからじゃなくて、森に合わせてしまうからだ。
大和が私の前に半歩だけ出た。
半歩で視界の端の逃げ道が増える。
私は動けなかった。
「子供の精霊だ」
大和が言った。
言い切った瞬間だけ、言葉が歪まずに届いた。
「若い、って意味じゃない」
続ける声は少しだけ硬い。
「『子供』の精霊」
「子供の精霊?」
「生まれることが出来ずに、流れちまった。女を襲う」
私は笑ってしまった。
笑い方が乾いてるのが自分でも分かる。
「何で女を襲うのよ」
「女には『門』があるだろ?」
大和の目が私の下腹部に落ちた。
落ち方が一瞬で躊躇いが無い。
私はやっと言葉の形を掴む。
「あぁ、そういうこと。じゃあ、あれは水子ね」
「ミズコ?」
大和が眉を僅かに動かす。
「知ってるのか?」
「私の世界では、そう呼ぶ」
言った瞬間、ふと気付いた。
──私は『呼び方』の話をしているのに、ここでは『存在の扱い』の話をしている。
「え、待って」
私は水面の子供の輪郭をもう一度見る。
「『精霊』?……名前は?」
「名前?」
大和が聞き返す。
聞き返し方が、分かっていないというより『そんな発想が無い』顔だった。
「……火の精霊は?」
「サラマンダ」
「水の精霊」
「ウンディーネ」
「風」
「シルフ」
「光」
「ウィル=オ=ウィスプ」
言いながら、私は自分の言葉の並びを確かめる。
名前があるものは居場所がある。
名前があるだけで世界に席が用意される。
「子供」
私は訊いた。
「ねぇ、子供の精霊は?」
大和は答えなかった。
答えられないんじゃない。
答える必要が無いものとして、そこに置いている顔だった。
「……何よ、それ」
声が勝手に低くなる。
私の子宮が怒る。
怒りは声にならない。
声にしたら、この森に捻じ曲げられる気がした。
大和は一瞬だけ目を伏せて、次に水面へ視線を戻した。
戻し方は雑じゃない。優しくもない。
「……この森じゃ、名前は要らねーんだ」
大和の声は木々の隙間で少し削れて届く。
「要らないって誰が決めるの」
水溜まりの上の輪郭が、ふっと揺れた。
揺れは波じゃない。
呼吸みたいな間隔だった。
「近付くな」
大和が低く言う。
私は一歩も動いていない。
私に言ったのか、水子に言ったのか分からない。
子供の輪郭が少しだけ首を傾げた。
首を傾げる仕草だけが妙に人間だった。
「……水子」
私はもう一度、そう呼んだ。
呼んだ瞬間、輪郭が少しだけ濃くなった気がした。
「その呼び方、効くのか?」
大和が眉を動かす。
動かし方が苛立ちに寄っている。
「効くとかじゃない」
私は息を吸って、吐く。
吐いた息は戻らない。
「私の世界では、そういう存在をそう呼ぶ」
水子がほんの一歩だけ水面から離れた。
足音は無い。
重さも無い。
距離だけが詰まる。
大和の腕が私の前に出た。
触れない距離で遮る形だけは作る。
「女を襲うって言っただろ」
「分かってる」
分かっている。
それでも、目が逸れない。
逸らしたら、水子を『居なかった』ことにしてしまいそうだったから。
揺れる。
揺れて、揺れたまま止まる。
水子が私の腰の辺りを見る。
見る、というより──視線が落ちる。
大和の目と同じ落ち方で。
──門。
さっき言われた言葉が今になって形になる。
私は一歩だけ後ろへ下がりかけて、止めた。
止めた瞬間、枯葉の音が遅れて鳴る。
「ちゃんと弔ったの?」
私は大和を見ずに言った。
「……身体が無いのに、どう弔うんだよ。永遠名、近付くな」
大和の声が少しだけ硬くなる。
「お腹の中に居たんでしょ?」
私は水面を見たまま大和に言う。
そして一歩、大和の前に出る。
「身体が出来てなくても、『一人』でしょ?」
もう一歩、また一歩。
森の空気が少しだけ冷たくなる。
冷たさが広がるより先に、輪郭が私へ一歩、近付いた。
大和が舌打ちを飲み込むみたいに息を吐く。
その息の音だけが嫌に真っ直ぐだった。
「永遠名……」
大和が私の名前を呼ぶ。
呼び方が昨夜より少しだけ慎重だった。
私は答えない。
答えないまま水子に近付く。
水子が私の下腹部に手を伸ばす。
水子が初めてこちらを見る顔をした。
表情は掴めない。
それでも確かに見ている。
水面が静かに波打つ。
波じゃない。
笑う準備みたいな揺れだった。
「永遠名っ!」
──次の瞬間。
お腹の奥が熱い。
水子の伸ばした腕が赤くなる。
手の中に。
あれは何?
「永遠名ぁ!!」
熱い。
膝に力が入らない。
がくんと身体が落ちる。
咄嗟に下を見る。
地面を確かめる様に。
気付いた。
下腹部から血が溢れている。
そして理解した。
──あれは私の子宮だ。
「永遠名!!【ブロック】しろ!!」
何故?
「村まで間に合わない!」
大和が叫んでいる。
私はiPhoneを取り出し、言われるがまま、GatePair: Linkを開く。
「【ブロック】して、お前の世界で直ぐに治療しろ!」
大和のプロフィールを開く。
私は【ブロック】を押した。
[ブロックしますか?]
[この操作は取り消せません]
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私は、もう一度──違う。
このまま二度と会えないなら、大和は私が生きているのか死んでいるのか分からないまま──ずっと生き続けることになる。
私が大和の中で呪いに変わる。
名前が無いまま忘れられる存在。
名前がある私は『呪い』になり得る。
「永遠名!畜生っ!!」
言わなきゃ。
意識が飛びそう。
力の入らない指が【ブロック】に触れる。
でも、言わなきゃ。
伝えなきゃ。
絶対に言わなきゃ。
──命を振り絞れ、永遠名。
「私を忘れて!!」
視界が一瞬、黒くなった。
目を閉じた訳じゃない。
直ぐに見慣れた丸善のバックヤードが飛び込む。
ドアの向こうの店内は未だ明るい。
山本さんが居なくて良かった。
こんな姿、見せたらトラウマになってしまう。
iPhoneで緊急ダイヤルに掛ける。
直ぐに繋がる。
電話口で何かを言っている。
五月蝿い。
テーブルの上に『摩天楼の怪人』が置いてある。
私が買った。
五月蝿い。
今、彼の目が私を見てくれてるところなの。
ほんとだよ。
栞を抜いて、私の続きを読んでくれてるの。
最期まで私を見てて。
だから、もし、また会えたら。
私の名前を呼──




