36:Archange
風は不気味なほどに吹かず、しかし空気は冷たく澄んでいて、ちょうど満月になった赤い月がはっきりと見える。世界が変わったと同時に顕われた赤い夜――月奈は心が冷たくなっていくのを感じていた。
無貌の仮面が指定してきたのはこの満月の夜、そして二度目に会った場所であるポルトラントのショッピングモール、その屋上だった。つまり、広い場所での戦闘を望んでいるということだ。それは月奈にとっても好都合だった。すべてを終わらせるのには十分な舞台設定である。
仮面は時刻も指定して、それは零時ちょうどだった。スマホで時刻を確認すると、それまで10分前だった。月奈がここに着いたのはそのさらに10分前である。宮本武蔵のごとく時刻を遅らせて登場してやろうかとも思ったが、遅刻というのはあまり好きではないことだった。待っている相手がどれほど気に食わない奴だとしても。
「寒いわね……」
そろそろ春の兆しも感じられ、昼間はそれなりに温かったのだが、夜になって急速に冷え込んできた。それは月奈の心情にシンクロしているようにも思えた。
苺はすでにぐっすりと寝ているはずである。彼女にはこの果たし状のこと、そして今夜なにが起こるのかは伝えていない。余計な心配をさせたくなかったのだ。
月奈は苦戦を予想していた。もしかしたら死ぬかもしれない、という覚悟で戦場に向かったのはこれが初めてかもしれない。無貌の仮面が自分より強いという意味ではない。だが、彼が果たし状などという時代錯誤なものを送り付けてまで決闘を望むということは、生半可な覚悟ではないだろうことは予想できたのである。
ともあれ、これが最後の戦いになることは間違いあるまい。
月奈は黒革のボディースーツを着ていた。そしてベルトには愛刀「桔梗」を差してある。
無貌の仮面よりも早く来た理由はほかにもある。精神集中するためだ。最高のパフォーマンスは肉体と精神の高次な統合が必須であることを彼女は分かっていたのである。彼女は瞑想するように目を閉じて深呼吸を続けていた。無の境地に至るほどまでには、月奈の精神は完成されていないが、心が透き通っていくのを感じ、そしてその中央、その奥底にある確かな戦意を研ぎ澄ませ続けた。
精神が安定したところで目を開ける。そして赤月を見上げる。戦いの気持ちになっていく――彼女はどうして仮面の挑戦を受けたのかと思った。少しだけ、こんなふざけた果たし状など無視していいと思ったのは否定できない。だが、彼の覚悟に敬意を表すべきなのかもと感じた。そして、月命党の破壊の最後、リーダーたる無貌の仮面に引導を渡すのは私以外に有り得ないと思ったのである。
午前零時。
まるで計ったかのように無貌の仮面は現れた。格好を付けているつもりなのかという白いマントも月に照らされ、血に染まったように赤く見える。そして相変わらずにくらし表情のない仮面。
「よく来てくれたね」
無貌の仮面は月奈を確認するなりそう言った。月奈は肩を竦めた。
「あなたも、すべてを終わらせたいと思ったのでしょう?」
「ああ、そうだ」
「じゃあ、もう言葉はいらないわね。さっさと始めましょう」
腰を落とし、刀を抜こうとする月奈を、無貌の仮面は手を上げて制した。
「いや、ぼくにはきみに話しておきたいことがある」
「なぁに? 退屈なことだったら蹴り殺すわよ」
無貌の仮面はそれは答えず、静かに仮面に手を回してそれを外した。その素顔――霧島耀司の顔を月奈に見せたのだった。
「ふうん……仮面の正体はあんただったのね」
「予想していなかった訳じゃないんだろう?」
耀司はこれから死合おうとする男とは思えないほどに優男風のはにかみ顔を見せた。ひょっとしたら恥ずかしいのかもしれない、と月奈は思った。
「まぁ……なんとなく雰囲気は似てるな、とは思ってたけど、はっきりと予想していた訳じゃなかったわ」
「それにしては吃驚してくれないんだね」
「ああ、言われてみればそうね、って感じだから」
月奈は吐き捨てるように言った。無貌の仮面には――耀司には愛も憎しみもない。ただ決着をつけなければならないという使命感だけがあった。
「なんとなく、あんたとはこういう時がくると思っていたのよ」
「女のカンってやつ?」
「いいえ、周防月奈のカンだわ」
耀司は「参ったな」と言い、頭を掻いた。それから続けた。
「ぼくはすべてを失った。鬼塚さんも、鍵屋さんも、桜乃も死んだ――きみが殺した。だからぼくにはきみを打ち倒す意味がある。そして組織を復活させる」
「言いたいことはそれだけ? じゃあさっさと始めましょう」
「相変わらずせっかちだね。そういうところはきみの悪いところだ」
「ほっときなさい」
「いいかい。ぼくにはもうひとつ月奈に伝えたいことがあるんだ」
決然とした表情で幼児が見据えるものだから月奈は警戒したが、その次に出てきた言葉はまったく意外なものだった。
「ぼくは月奈のことが好きだったんだ……もう、孤児院にいた時から」
「……ああ、そう。ありがとうと言っておくべきなのかしら?」
月奈が言い返すと、耀司は苦笑した。
「ちぇっ……これで少しは動揺を誘えると思ったんだけどね」
「ちょっとは驚いたわよ」
月奈は「言いたいことはそれで全部?」と言った。耀司ははにかんだ顔を再び引き締め、マントの裏から投げナイフを取り出して構えた。
「そうだ。これでぼくに思い残すことはなにもない――ぼくは月命党の首領として、周防月奈、きみを討ち取らせてもらう」
この妙に清々しい気持ちはなんなのだろう、と思いながら月奈も刀を抜いて構えた。気持ちのいい戦いができそうだった――その相手があの耀司だとは。
「行くぞッ!」
澄んだ掛け声とともに耀司はナイフを投擲する。月奈は躱さずにそれを刀で受け止め、弾く。それから一気に距離を詰めようとする。前回の戦いからして、懐に入ればこちらが圧倒的有利のはずだった。だが、それは耀司のほうも分かっているのだろう。彼は慎重に距離を取り続ける。
「さあ! 鬼塚さんや鍵屋さんを屠ったその力をぼくにも見せてごらん!」
耀司は決して月奈の距離には近づかないままナイフを投げる。月奈は今度は躱しつつ詰めようとするのだが、耀司も簡単には入らせてくれない。スピードは互角。月奈は一瞬踏み込んで刀を一閃するのだが、耀司はひらりと飛び上がって下がり、そのまま貯水塔の上にまで立った。その様は華麗ですらあった。
「逃げてばかりじゃあ、私を取ることは出来ないわよ!」
月奈も跳躍して彼を追いかける。そこを狙ってナイフが投擲される。月奈はそれを空中で器用につかみ、投げ返した。耀司はもう一方のナイフでそれを弾く。だが距離は一気に縮まる。
「ここがひとをつかむ距離」
月奈は耀司に足払いを掛ける。転びかけた耀司の肩をつかみ、そのまま組み伏せようとするが、彼は倒れる直前膝を立て、月奈の鳩尾に打撃を喰らわせた。月奈は軽い嘔吐感を覚え、握力が下がって耀司の身体をつかみそこねた。耀司は再び飛んで離れる。月奈はうずくまりながら彼のほうを見た。
「あんたはこの距離から逃げているから、なにも手に入れることはできないのよ!」
「そうかもしれない」
月奈も飛び降りて、再び真正面で対峙する。投げナイフはもうそこまで残っていないはずだ――そして、前のように彼にはもう助けに入る仲間はいない。それでも耀司は涼しい顔をしていた。なにかを悟ったようなその表情は、今まで月奈の荷物持ちをさせられていた時となんらかわることはない。ここで月奈は彼を見誤っていたことを悟った。彼は強靭な胆力の持ち主だ。どのような状況でも飄々としている。死を賭すことも厭わない姿勢――そういったところが、あの鬼塚をして次代の指導者の姿を見たのかもしれない。
「どうしてこんなことになったんでしょうね」
月奈は孤児院時代、微かな記憶の中に自分を追いかけ続けた玉のように可愛い男の子を思い出していた。それが耀司だった。彼はその時から私を好きだったと言ったのだ――この私を。かわらずにずっと、昔からその思いを抱いていたのだ。恋愛感情はなかったが、月奈も彼のことは嫌いではなかった。それが剣を交える関係になるとは。
「大人になるってのはそういうことさ。子供の時とは違う。思想も感情も変わる。好き嫌いを抜きにして対峙しなければならないことがある。そういうことさ」
「それがあんたの場合は、世界の革命だったというの?」
「最初、ぼくには憎しみしかなかった――きみをぼくから奪った世界に対してね。でも経験を積んで、ひとから学んで、自分のやるべきことを知った。ルナティカンは解放されるべきなんだ」
「そういうこと」
「だが夢は破れた――そしてきみはぼくの敵として立ち塞がる。でもそれは、すべて仕方のないことなんだよ」
それから、意外なことに――今度は耀司のほうから月奈に飛び込んできた。虚を突かれた月奈はしかし、一直線に心臓を狙う耀司のナイフを身体を捻って躱す。
「きみの言う通りにしてみよう――ひとをつかめる距離で、きみを貰い受ける!」
「――ッ、その意気やよし!」
そこから接近戦が始まった。月奈は鋭く剣戟を与えるが、耀司はナイフを巧みに使って弾き続けた。耀司はもっと深く中に飛び込むことを望んでいるようだった。それだけ接近すれば、ナイフと刀のリーチの差は、むしろ彼に有利に働く。
月奈は決戦を求めた。ただ一瞬の決戦を。
彼女は身体から力を抜いた。そして精神を肉体から解放する――耀司がチャンスとばかりに迫ってくる。月奈の目にはすべてがゆっくりと見えた、時間の流れすら、目に見えるようだった。
「――ここ!」
それは宇宙の外から水滴を蟻の背中にたらすようなほどの、誰にも感知できない――月奈自身にすら――間隙だった。月奈はその一瞬刀を捨て、懐に忍ばせておいた短剣で、交差した一瞬に耀司の喉元を突き刺していたのだった。
耀司は転げ落ちた、そして仰向けになった彼に、改めて刀を突き付ける。
「は、はは、ははは……やっぱりこうなるんだよな。いつだって、ぼくは月奈には敵わなかった……」
「……あなたは、死ぬつもりだったのでしょう」
「そうだね。みんな死んでしまった。ぼくだけ生き残るのは恥だった。でも、運動の再興を諦めていた訳ではなかったんだよ。でもこれですべて終わり……じつにいい気分だ」
その言葉通り、耀司の顔はとても清々しかった。
「さ、終わりにしてくれ。きみに殺されるなら、きみに看取られるのならぼくは本望だ」
「耀司……」
「憐れみはいらない。これがぼくの生き様だったのさ。そしてそれはきみにも刻まれたはずだ。ぼくはそれで十分だ……」
耀司の声は次第に弱々しくなっていき、そして聴き取れない声になり、そのまま息を引き取った。だが――最後彼が「好きだ」と言ったのは、分かった。
「……さようなら……あなたのことは、決して忘れないわ」
月奈は虚空に溶かすように言った。




