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34:魔人





 武装をしてこなかったため、今月奈の手元にある得物は無貌の仮面から奪い取ったナイフ一本だけである。いつもの愛刀が手元にないことが奇妙に心細く思えた。それでも月奈は負ける気はしなかった。


「そこまでして、あの仮面野郎を守る意味がある訳?」


 月奈は胸を貫かれ、ぐったりとして横たわり、絶命している桜乃の姿を一瞥した。この哀れな女。すこしの同情はあった――彼女と過ごした楽しいひとときを忘れた訳ではなかったからだ。彼女の気質は善だったように思えるし、あの快活な態度は素のものであり、そこに嘘は感じられなかった。だが彼女は結局敵だったのだ。同情は会っても悲しみはなかった。ただ桜乃には怒りもなかった。


 怒りを向けている相手はあの無貌の仮面、そして目の前にいる鬼塚である。もはや月命党に慈悲はない。苺を怖い目に遭わせた男たちを許す気はなかった。


「彼は次代の精神的指導者になり得る器だ。新しい世界には絶対に必要なのだよ」

「私には全然そんな感じには思えないけどね」

「ひとを見る目がないのだな」

「それは否定しないけど、素顔を出せない男はダメ男ってことくらいは分かるわ」


 言葉を交わしながら月奈は慎重に間合いを取っていた。得物のリーチがないからどうしても仕留めるためには懐に飛び込む必要がある。だが鬼塚には隙は見当たらなかった。月奈は彼が相当の戦闘経験を積んでいることを確信した。なんというか、雰囲気がある。この状況でも平然と涼しい顔をしていられるのは、先天的な個性もあるのだろうが、恐らくは経験に裏打ちされた自信である。


「きみに理解されようとは思わないが、この世界は変革しなければならない」


 そのお互いが飛び込めない間合いのまま、鬼塚は静かに語り始めた。月奈は手でナイフをくるくる回しながらそれを聴いていた。真面目に耳に入れる気はなかったが、彼の重く厳かな語り口調に絆される者もいるだろうことは想像できた。


「ルナティック症候群は発生してしまったのだ。そして我々が生まれてしまった。覆水盆に返らず、だよ。それをなかったことにはできない。だからこそ、それを前提とした新しい社会が創設されなければならないのだ」

「あっそう」

「周防月奈。きみはそれでいいのか? ルナティカンが無軌道に社会を破壊する世界を容認するのか?」

「もしかして、口説いてる訳? だったら無駄よ」


 月奈は唾を吐いてから続けた。


「確かに今の社会は不安定かもしれない。でも、ルナティカンが新人類だとか、新たな指導者になるべきだなんて私は到底賛成できないわね。治安が問題なのなら、ひとりひとりが気付いて少しずつ変えていけばいいのよ。あんたらのやりかたは強引にすぎる」


 月奈が言い切ると、鬼塚はふぅとため息を吐いて首を振った。


「残念だ。きみに志があればわれわれの事業もよく進んだだろうに」

「そりゃご愁傷様」

「だからきみは――ここで排除されなければならない!」


 そう言うなり、鬼塚は手元にあったパイプ椅子を持ち上げ、強く月奈の方へ投げつけた。月奈はこの間合いを外すのはまずいと思い、回避するのではなく正拳で椅子を破壊する。次の鬼塚の動きは分かっている――今のは牽制に過ぎない。一気に距離を詰めてくるはずだ。月奈は石片を――破壊された壁の一部だ――を鬼塚の目に投擲する。


 こちらも牽制である。まだ接近戦には持ち込まれたくない。ルナティカン同士――ことに手練れ同士の戦いは一瞬で決まる。お互いに一撃で致命傷を与えるよりほかはないと分かっているからだ。だからこそ、月奈は珍しく慎重だった。それは鬼塚を強敵として認めている証拠にほかならなかった。


 超常的な筋力を持つ2人にとって、戦いの場である苺の拉致されていた部屋は窮屈だった。そしてお互いの武器はナイフ一本――いずれ決着はつけなければならない。だが接近戦はお互いにリスクのある行為である。だからこそ月奈も鬼塚も注意深く相手の隙を窺っていた。


 月奈の戦闘狂としての血がふつふつと沸き上がっていた。強敵との対峙は怯懦ではなく興奮を生む。だがその興奮に任せて戦ってもいけない。こういうときこそ、超人的な精神制御が必要なのだった。そして月奈はそれができた。


「やはり、簡単には読ませてくれんようだな」


 鬼塚は静かに言った。沈着な意志を感じさせる声だった。月奈は改めて短剣を強く握る。手が読めないのはこちらも同じだった。これほどの敵と相対するのは初めてだった。肉体的強度にしても、戦術にしても、そしてなにより精神にしても。


 鬼塚が部屋の真ん中にある大きなパイプの机をつかむ、それは簡単に片手で持ち上げられ、すぐさま月奈の方へ投げられた。今度は破壊することはできない大きさだ。その質量が迫ってくる。月奈は右に転がり、それを回避する。大きな破壊音が頭の後ろで響いた。


「こんなことでッ!」


 月奈はすぐに立ち上がる。しかしそこには鬼塚の突進が迫っていた。月奈は背筋が凍った――それは間違いなくこれまでの彼女が経験したことのない感覚だった。死の感覚。鬼塚は死神の如く月奈に接近し、ナイフを突き立てる。それは一瞬の回避で急所は避けられたが、脇腹を貫いた。


 その鋭い斬撃の苦痛が、逆に月奈の感覚を明敏にさせた。次撃を見舞おうとする鬼塚の顎に頭突きを加える。鬼塚は一瞬だけ怯んだが、月奈が決定的な一撃を加えるほどの隙は与えない。衝撃に逆らわず、そのまま距離を取る。月奈は腰を落とす。そして転がったパイプを蹴り上げて鬼塚にぶつけようとする。そのまま突撃。彼女は左手に力を込め、鬼塚に密着して腹に添えるように当てる。寸勁――それを狙っていた。


 だが。


 月奈がそうすると同時、鬼塚も同じく拳を月奈に当てていた。


 双方に強大な打撃、衝撃が加えられ、同じように崩れ落ちた。


「がはッ――!」


 2人とも寸勁の交錯にすぐには復帰できなかった。月奈は膝を突いた。敵を前にしてそんな格好を見せるのは初めてだった。だが、それでもナイフは手放さなかった。そして意識を集中して自分の再起動に賭ける。


 だが、苦痛から復帰したのは鬼塚が先だった。彼は柳のような細い長身をゆらりと持ち上げ、月奈の髪をつかむ。そしてそのまま乱暴に彼女を投げ打った。


 その先のことは、月奈はあまり覚えていない――自分の中にある、恐らくは危機に瀕した時に呼び覚まされるような感覚、自分が自動的に動くような感覚が彼女を支配した。


 月奈は仰向けになって倒れていた。皮肉なことに、あるいは不思議なことに、あとではっきりと覚えていたのはその真っ白い天井だった。


 彼女は身体を起こそうとはしなかった。月奈の戦闘神経というべきものがそう命じていた。異様なほど心も身体も軽かった。蝕む苦痛が、むしろ心地よかった。彼女から()()というものが消えていく。ただ研ぎ澄まされていたのは、純然たる殺意だった。


「貰い受けるッ!」


 鬼塚は自分が呼び覚ましたものに気付いていなかった。これを好機と捉え、月奈に組み伏せるように飛び掛かる――しかし、そこには彼の気付いていない、そして月奈の意識も気付いていない、月奈の無意識だけが捉えられた間隙があった。


 月奈の足はいよいよ組み伏せようとした鬼塚の足元を絡め取り、そして一瞬の内に体勢を逆転させ、立ち上がり、鬼塚の身体を壁に押し付け、そしてナイフで彼の胸を穿っていた。そのすべての動きは一瞬で行われた。鬼塚も月奈も、なにが起こっているのか分からなかった――月奈は自分の挙動を、まるで背後霊になったように見ていた。


「なんだ――これはっ……」


 急所を貫かれた鬼塚は両膝を突いて崩れ落ちた。そこで初めて月奈は自意識を取り戻した。自分が制御していないのに、なにをしたかは分かっている――不思議な感覚だった。


「そうか、これが……最強の力か」


 敗北を悟った鬼塚は口から血を吐きながら、ひとり納得していた。彼はまだ絶命していなかったが、すぐにそうなることは明らかだった。


 月奈は勝った。しかし。


「最後にいいものを見せてもらった。私に悔いはないよ」


 月奈はボンヤリした意識を急にはっきりとさせて言い返した。


「それでいいの? あんたの野望も、策謀も、理想もここで私に砕かれるというのに」

「思想は決して死なぬ。私たちはここで斃れても構わんのだ」


 鬼塚はすべてを悟ったような顔をしていた。月奈はそれが気に食わなかった。彼はまるで勝者のような顔をしていたからだ。


「世界は変わり始める。それは止められない。我らが斃れようとも、それを継ぐ者は必ず現れる。忘れるな、私は間違いなくこの世界に種を蒔いたのだ……」


 鬼塚はそれだけが言いたかったというように、言葉を紡ぎ終えるとそのまま前のめりに倒れ込み、事切れた。


「……それで満足なの、あなたは……」


 それは月奈にとってまるっきり理解できない心だった。理想に殉じるという心――理解はできなかったが、鬼塚学という男にはなにか敬意のようなものを持った。共感したわけではない。だがその死に様は漢のものだった。


「それに賛同できないのは……私が女だからかしらね」


 ともあれ、月命党の中枢にいたひとりの男は墜ちた――あとは無貌の仮面だけである。




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