4.本物の聖女
……いつまでもこうしていられない。どうせまた要らないと言われるなら、自分から出ていく方がましだ。
俺は涙を拭って起き上がり、もらった服のうちもっとも質素な一着を選んで身につけた。せめて、もらいすぎた贅沢を全部置いていこう。しかし扉に手をかけたところで、ノックの音がした。
「ルイス、入るぞ?」
「…………」
俺は扉の前に立ったまま魔王を出迎えた。光を失った目で魔王を見上げると、慌てたように駆け寄ってくる。
だが俺に触れようとした手は結界に弾かれた。ルビーの目が見開かれる。
「どうしたんだ!? ポルトから様子がおかしいと……」
「……てくれ」
「え?」
「殺してくれ。俺は、あんたの嫌いな聖女だ。俺が人間だから、内心嘲ってるんだろ? もう嫌だ。好きな奴に、そんな風に思われてるなら……死んだほうがましだ!」
喋りだすと止まらなくなって、最後は慟哭のような響きを伴った。敬語が取れてしまったが今さらだろう。
ここから出ていこうと考えていたが、魔王に会ってしまったら、これからひとりで生きていく方が耐えられないと感じた。
涙はもう出てこない。投げやりになった人間の悲壮な表情を魔王は見つめている。
しかし彼の纏うオーラは明らかに不穏なものへと変わっていく。パキ、パキッ、とどこかから音が聞こえてきたかと思うと、魔王の角は手のひらほどの長さにまで伸び、犬歯も他の歯を圧倒して長くなった。爪は真っ黒に染まって伸び、人外じみた見た目になった。
「……それはお前の本心か?」
「ああっ、そうだよ! どうせ俺の結界なんて、お前なら破れるんだろ? ――ぅわ!?」
煽るように告げた直後、ビリッ、バキッと不穏な音がして俺の体は魔王に持ち上げられた。直接触れているわけではなく、結界越しだ。俺の結界と魔王の力が拮抗して、落ちる直前の雷みたいに耳障りな音が鳴っている。
寝台に投げ出され、重厚なクッションは難なく俺を受け止める。魔王は怒りに満ちた表情で俺に覆いかぶさってきた。
俺の結界に触れて、魔王の艶やかな髪が焦げた匂いを発する。バキバキと音をさせ、結界を破ろうとしている手が血まみれになっていく。
やっぱり魔王の力のほうが強い。放っておけば間もなく結界は破られ、俺はこの男に殺されるだろう。けれど……
「……っ!?」
「……はは、ごめん。手が、傷ついちゃったな……」
俺はそうなる前に結界を消した。魔王の髪や手を、これ以上傷つけたくないと、そう思ってしまった。血まみれになった手を取り、労わるように撫でる。
すると、みるみるうちに傷は治っていった。俺はなにもしていないから、魔王が自身で治したのだろう。いつの間にか自分で治癒できるようになっていて、大怪我でもしない限り主治医の仕事はない、といつだったかヴェントが言っていた。
「ルイス、私は怒っている」
「うん。迷惑ばかりかけてごめんな? あと……聖女なのも黙ってて」
「そうじゃない。そんなことどうでもいいしとっくに知ってた!」
「……へ? ――んぅっ」
……どうでもいい? ……知ってた?
盛大に疑問符を浮かべて聞き返そうとした俺の口は、魔王によって塞がれた。
耳に響く水音に、俺はすっかり頭の中まで蕩けていた。口づけに先があるなんて知らなかった。魔王は俺の舌を絡め取り、上顎をくすぐって、得たことのない快感を引き出してくる。
こく、と喉を動かして溢れそうになった唾液を飲み込むと、魔王は褒めるように目を細めて俺の頬を撫でた。
「結界の壁際で、足を罠に挟まれた狼を助けてくれたことがあったな」
「ん、あ……あの、人懐っこい魔物……?」
「あれは私だ。まだ未熟で、自分の傷も治せなかった頃の話だ。森を探検してたら、うっかり罠に引っかかってな……情けない話だが」
「えっ……あれが、エスクーロ様!?」
俺は最近見た過去の夢のことを思い出し、目を見開いた。魔族は獣化して闘うこともできると聞いたけど、魔王とあのときの狼は……いや、雰囲気が似ているかもしれない。
「お前はなにも知らず、魔物相手に怖がりもせず手当てしてくれた。私は魔王候補としてすでに傅かれていたからな。あんなに優しく触れられたのは初めてだった。あの日から、ずっとお前のことばかり考えていた」
「…………」
「ルイスが森で死にかけて運ばれてきたとき、漏れ出す光属性の魔力で聖女だと気づいた。こんな形でまた会えるとは思わなかったから、少々浮かれていたな」
魔王は柔らかな表情を浮かべ、再び俺に唇を重ねてくる。
どうしてこんなことになっているのかさっぱり分からない。俺のことを前から知っていて、聖女とも分かっていて、それで……?
命まで委ねた相手なのだから好きにさせてやろうと思っているのだが、痛めつけられるどころか快感を引き出されているのだ。
俺を傷つけそうになった瞬間、魔王の伸びた爪や牙は即座に元の状態に戻った。出し入れ可能なのかとぼんやり見ていたが、倍ほどの長さに伸びた角だけは「かっこいいからそのままでいいんじゃないか?」と口出ししてしまった。
ふっと笑った魔王の顔に見惚れていたら、また顔が近づいてくる。
口づけに翻弄され、理解が追いつかないうちに身体も追い立てられ、俺は一人で絶頂を迎えてしまった。
息を切らし、脱力感にぐったりと寝台に沈み込む。わずかに冷静な思考が戻ってきて、血の気の引いた顔で魔王を見上げた。
「ご、ごめ……」
「私が好きでやっていることだ」
「好きで……?」
魔王の言っていることが理解できない。これが、好きでやってること……?
(どういうことだ? 俺が聖女だと分かったら、殺したくなるんじゃないのか……?)
混乱を極めている俺の脚をもう一度抱え直し、魔王は艶やかに笑った。
うっ……顔が良い。壮絶な色気に当てられて、かーっと顔が熱くなる。
「両想いなんだ。私を受け入れてくれるか?」
「りょう……、えっ?」
蕩けていた場所に、熱いものが触れる。位置的にそれがなんなのか、知識のない俺にも推測できてしまう。
戸惑いを隠せない俺に、魔王は確認するように小さく首を傾げてから、顔を近づけてきた。
「私のことが好きなんだろう?」
好きって……言ったっけ? ――……言ったな!?!?
「う、うん……」
「私も好きだ。ルイス」
「っ……あ、~~~っ!」
魔王が……俺を好き? ってことは両想いで……これは、辱めじゃなくて……!
理解した瞬間に唇が重ねられ、魔王と繋がった。
***
行為を終えてから、俺の胸にぐっと込み上げるものがあった。目の奥が熱い。
「えっ。ど、ど、どうして泣く!? 痛いところあるか!?」
「おれ、生きててよかった……」
俺の言葉に魔王は目を丸くしてから、蕩けるように優しく微笑む。それを見て、俺はこの男になら甘えていいのだと、素直に思った。
「死なせてたまるか。出会ったあの日から、私はずっとルイスを想っている」
「……うん」
自分に愛する人ができるなんて、少し前までは思いもしなかった。しかもその相手は魔王で、俺に愛を返してくれる。追放される前の自分に教えたって、信じやしないだろう。
――幸せだ。これ以上ないくらい。
◇
「あいたっ」
「ルイス! 大丈夫でちゅか!?」
足をテーブルの脚にぶつけてしまい、俺は情けない声を上げた。すかさず魔王が俺を抱き上げて膝に載せたままソファに座り、モコモコの靴下をそっと脱がせる。
小指は少し赤くなっているだけで無事だ。今度は大きな声を出してしまったことが恥ずかしくなる。
どうやら俺は運動能力がかなり低いらしい。森で転びまくっていたときに気づくべきだったが、これまで指摘してくれる人がいなかったのだ。
「大丈夫だよ。ていうか、赤ちゃん言葉はやめろって!」
「だって……ルイスが日に日に可愛くなるから……」
眉を下げて困った顔をしてくるから、ウッと言葉に詰まる。別に可愛くなっているつもりはない。ないけれど、自分の甘え方がどんどんエスカレートしていっている自覚はあった。
両想いだと知ってから、俺は遠慮するのをやめた。魔王とは可能な限り一緒にいたいから、同じ部屋で寝起きして、常にくっついている。
座っていれば膝の上に乗るし、隙さえあれば口づけをねだる。歩くときは手を繋いで、抱き上げられるのにも慣れた。
甘えたがりな自分を全肯定してくれる存在がいるからこそ、俺は「これでいいのか」なんて疑問は持たない。そもそも「普通」の距離感をよく分かっていないため、周囲に言われるまま好きなように振る舞っている。
もちろん魔王の仕事は邪魔をしないし、俺もここでの仕事を見つけた。
「んー……これくらい、か? どうポルト、通れる?」
「あ~~ビリビリ来ます! いい感じです! さすが人間様!」
「……嬉しそうだな」
俺は魔王城の敷地内の一角に、結界で囲まれた大きな箱型のエリアを作った。中心は魔素が極端に薄い人間の国と同じような環境で、その少し外側には若干魔素を通す結界がある。結界で何重にも囲み、外側へ進むほど魔素が濃くなる作りになっている。
これは人間の体を魔素に慣らすための段階的結界だ。魔族も抵抗感はあるようだがある程度の結界は抜けられる。
俺はこのために結界の強さを調整する訓練をした。
――いま、この結界の中では数人の人間が暮らしている。エスメラルダ王国から逃げ、森の中で死にかけていた人たちを魔族が気まぐれに拾ってくるのだ。
エスメラルダ王国の結界は、俺が国を出てから使い物にならなくなったらしい。
そこでもうひとりの聖女パトリツィアに白羽の矢が立ったものの、彼女はすぐに消えてしまう弱い結界しか作れなかった。能力は低くないはずだが単純に修練が足らなかったのだろう。
俺が最初に結界を作ったときのように、国境警備隊が魔物と戦いながら結界を作る日々が続いた。しかし国境警備隊も約六、七年のブランクがあった。結界で守られている期間に組織は腐敗してしまっていたのだ。
魔物の脅威と戦っている数年間、辺境に住む国民は多くの被害を受けた。中央にある王宮からの生活支援はほとんどなく、貧困に喘ぐばかり。魔物に追いかけられて森に迷い込んでしまった人や、生を諦めて森に入った人もいたそうだ。
ある日俺と魔王の親密な関係を羨ましがったポルトが、人間を拾ってきてしまった。しかし濃い魔素は人間にとって毒でしかない。そこで急遽俺が結界で聖域を作り、人間を保護できる空間を作った。
今はそれもひとつの村くらいの大きさがある。俺の作った段階的な結界によって徐々に体を魔素に慣らすことができ、魔族との共存が実現している。
数年が経ちエスメラルダも少しは落ち着いてきたようだが、帰りたいと言い出す人間はまだひとりもいない。相変わらず愛玩動物扱いは否めないけれど、魔族は人間を甘やかすのが本当に好きなのだ。
俺と魔王のように恋人関係になった人もいるし、いい友人になっている人もいるようだ。
俺も一時、魔王が他の人間に靡いてしまうんじゃないかと不安になったのだけれど……
「ルイス! ここにいたのか!」
「うわっ、急に持ち上げるなよ~」
結界の出来を確かめていた俺は、俺の影から現れた魔王に突然抱き上げられる。バランスをとるために首元に腕を回すと、人前であることにも構わず唇にキスをされた。
「エスクーロ、もう仕事終わったのか? 偉いな」
「ルイスに早く会いたかったんだから、当然だ」
俺は魔王の立派な角を撫で、黒繻子のような髪をわしわしと撫でる。
魔王が甘やかしてくれるのは俺だけで、魔王を甘やかせるのも俺だけだ。だからここに人間が何人いたって、何の心配もいらない。
「そういえば、密偵から面白い報告が来ていたな」
「ん?」
「エスメラルダの第一王子が、お前を追放したことを後悔して荒れているらしい。王太子妃は奥に籠もって出てこない。本物の聖女がいなくなって結界の維持もままならず、貴族たちから責められているそうだ」
「……そうなのか」
別に同情はしない。ただあの謁見の間で俺を見下していた目を思い出すと、少しだけ――胸のすく思いがした。
本物の聖女と言われても、ひとりの人間だ。俺を大切にしてくれる人を、これからも大切にしていきたい。
俺は茜色に染まった夕焼けの中で、唯一無二の恋人に向けて柔らかく微笑んだ。




