第八十五話 新たなる国主
その段になって、自分がしたことの大きさを知った。華軍の言葉が不意に耳に蘇る。お前がしたことを一生悔いながら、現実と向き合え。聞いた時には意味が分からなかった。その意味が少しずつ身に染みる。
文輝の身勝手な正しさが、文輝が思っている以上に多くのものを巻き込んでいた。国を守る為の武官が、命を投げ出して命を守ることを否定されるとは思わなかったが、文輝の肩口で嗚咽する次兄の姿もまた現実なのだろう。多分、この国の武官の家族は誰しもこの思いと背中合わせなのだ。失われていい命などどこにもない。
その人として当たり前の感情の機微を、脆弱と切り捨てるのは武官である以前に人として大切なものを欠いている。それを欠いた武官に、何かを守る資格はない。自らの背に乗ったものを守ってはじめて、誰かを守れる。
「戦務長はどうなったのですか」
文輝が命を懸けて守った相手は救われたのだろうか。文輝が助かったと聞けば安堵してくれるのだろうか。
そんな期待を込めて次兄に問う。
抱え込んでいた両腕が解かれ、寝台に横たえられる。距離を取った次兄が目元を袂で拭って答えた。
「劉子賢か。ひと月半以上に亘って不正の証言をし終え、七日前に自刃することが許された」
それは戦務長がもうこの世界のどこにも存在しないということだ。死罪――それも斬首の罪を科せられる筈だったが、不正を詳らかにすることで減刑が認められたのだろう。自刃が認められたのなら、戦務長は自らの尊厳を保ち、人として死ぬことが許されたということだ。斬首されれば墓を作ることも許されない。野晒しにされ、朽ちていくのを待つだけだ。だが、自刃ならばいずれ墓が作られるだろう。今すぐでなくともいい。いつか、その墓前に参りたいと思った。
そんなことを考えていると、怒りの表情を消した次兄が苦笑する。
「目が覚めて、真っ先に聞くのが上官の安否か」
ここがどこか、とか、母上がどうされている、とかそういうことは聞かなくていいのか。暗に問われた内容に、ではお聞かせください、と返す。
「城下の大火で戴家の屋敷は半焼した。お前の部屋も荷物も焼失した。妻が至らず、すまなかった」
「小義姉上の所為ではございますまい」
「東部から兄上が戻ってこられ、今は屋敷をはじめとした城下全体を復興している途中だ。中城も荒れ、右官府の医務班はどこも満床でな。ある方のご厚意で王府の一室をお借りしている」
見覚えのない天井の正体はそこで知れた。王府に立ち入ることが出来るのは国主や宰相などを除けば、国主の私兵である銀師だけだ。晶矢の母が銀師の将軍を務めている。彼女の口添えなのだろう。でなければ、文輝の縁故でない晶矢がこの部屋にいられる理由がない。
聞き間違えでなければ、文輝はふた月の間眠り続けていた、と次兄は言った。
そのことをぼんやりと理解して、綿入れが掛けられていることにようやく気付く。
窓向こうに寒梅がぽつぽつと花を咲かせていた。
「母上はご無事ですか?」
「ご無事でなければ、俺はここにいない」
「なるほど、その通りですね」
次兄の妻の気配りもあり、軽度の火傷一つ負っていない、と告げられて文輝は胸を撫で下ろす。戴の屋敷には思い入れのあるものが数え切れないほどあった。それらが失われたのは残念だが、命あっての物種だ。家族が無事であれば、物品はいつかまた別の思い入れが出来る。
今は誰一人命を失わなかったことを喜ぶべきだ。
そう思い、気持ちを切り替える。
「大仙殿はどうしておられますか」
「朱氏殿が主位を奉還された。それに伴い、新たな主上が即位された、と言えばお前にもわかるだろう」
「間諜の職を辞された、のですか」
「主上は引き続き仕えてほしい、と仰られたが、激情に流されたとはいえ、王弟に刃を向けた罰は負わねばならない、と頑なだったぞ」
自らの使命に忠実で、盲目的に朱氏景祥を崇拝していた。大仙らしい幕引きだ、と思うが同時にどこか勿体ないという印象を受ける。誰が新しい国主になったのかはわからないが、国主として未熟であれば、熟練の配下を望むだろう。大仙がそれを理解していないとは思わない。思わないがゆえに、文輝は大仙の言外の望みを知った。彼は、この国が一から出直すことを望んでいる。旧態の一部である大仙が居残ったのでは、意味がない、と思ったのだろう。
「今はもう、西白国を出て、東へ向かったと聞いている」
「そうですか」
「他にも聞きたいことはあるだろうが、お前が目覚めたら即時知らせよ、というのが主上の命だ。阿程が今、知らせに行った。もうじき参られるゆえ、無礼のないようにな」
言って、次兄は踵を返した。診療道具を手早く片付けた玉英が立ち上がり、その背を追う。二人が部屋を出ていくのと、ちょうど入れ違いで剛とした声が聞こえた。
「主上のおなりである」
その声に条件反射で上半身を起こし、拱手する。小さな足音と衣擦れの音が響く。
そして。
「小戴殿、ご無事でようございました」
凛とした、聞き覚えのある声に驚いて顔を上げる。
半年間、親しんだこの少女の声を間違える筈がない。
「――伶世」
拱手が解け、ぽつりと字を呼ぶ。付き人から「主上の御名を呼び捨てにするとは何ごとか」と叱責が飛んだ。伶世がそれを手のひらで制する。付き人は不承不承という体で口を噤んだ。
伶世が寝台の横までやってくる。
よく見ると、伶世は戦務班にいた頃には見たこともないような美しい衣を纏っている。そのことが、文輝の知っている伶世をどこか遠くへ押しやってしまったかのような感覚を生み、僅かながら距離感を覚える。
よく見ると、伶世は戦務班にいた頃には見たこともないような美しい衣を纏っている。そのことが、文輝の知っている伶世をどこか遠くへ押しやってしまったかのような感覚を生み、僅かながら距離感を覚える。




