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「如風伝」それは、風のように  作者: 稲瀬
第十六章 帰還
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第八十一話 暗闇

 視界は黒一色で埋め尽くされている。自分の四肢も見えないが、特に不安を感じるわけでもない。暗闇の中をただ浮かんでいるような感覚に浸っていると、どれだけの時間が経ったのかもわからなかった。

 ここがどこだとか、そういった現実的な疑問は不思議と持たなかった。何かに例えるのなら、生まれる前に母親の腹の中で似たような感覚を味わったような気がしている。

 その、安堵すら覚える空間に辿り着くまでの経緯はかろうじて覚えていた。正論という名の暴力で文輝ぶんきは大人たちを煽ったのだ。その結果、退くに退けなくなった大仙たいぜんが凶行に及ぼうとしたのを何とか防いだ。大仙が標的とした戦務長せんむちょうの身こそ無事だったが、力の足りない文輝には全てを守ることは叶わなかった。大仙の短剣が胸に突き立ったときの衝撃をぼんやりと思い出した。

 思い出して、やっと、文輝はこの暗闇の正体に心当たりがついた。


「死んだのか、俺」


 光は射し込まない。文輝の両目はもう二度と開くことがないからだ。

 人の身体には精神を司るこんと肉体を司るはくが宿っている。文輝の意識がここにあるということは魂はもう身体を抜け出たのだろう。魂と魄が別離した以上、四肢が目に映らないのも当然だ。文輝の魂はもう魄とは別の場所にある。肉体は早晩朽ちゆくだろう。

 魂は巡るという。このまま無限にも近い暗闇を彷徨って、そのあとどこに辿り着けば、終わりになるのかは知らない。死んだ人間が再び起き上がったという話は聞いたことがなかったし、多分、文輝はその一人目になれないだろう。神は――白帝はくていは如何なる場合においても自らを投げ出すものを祝福しない。戦務長を庇う為とはいえ、文輝は大仙と刃を交えることなく、自らの身体を「鞘」にした。武官としては勿論、武官見習いとしても最低の選択だ。

 奇跡が自らの身に起きる可能性は皆無だったし、怪異の類には興味がなかったから、経典でしか死後の世界について知っていることはない。

 それでも、何とはなしにここが終焉の在処なのだと察する。

 西白国さいはくこくでは生まれた年を無事に過ごし、新しい年を迎えられたことを祝って年齢とする習慣があった。夏の初めに生まれた文輝はあとひと月半、無事に生きていたら十八になれた。それが叶わないことを茫洋と知って、自分の十七年を振り返る。それが長かったのか短かったのかすら文輝にはわからない。

 過ぎ去ったものは戻らない。形あるものはいつか失われる。

 そのあとで悔いるのは、虚しいだけだ。

 わかっている。それでも、虚しさを抱えてでも守りたいものがあった。その為に命を賭したことまで否定するのだけは嫌だった。

 そんなことを一人で考えていた。どのぐらいそうしていたのかはわからない。

 眠っているのか起きているのかも判然としない闇の中から、不意に文輝を呼ぶ声が聞こえた。


小戴しょうたい


 どこか聞き覚えのある声だった。呆れているような、感心しているような何とでも言えるような声音に、文輝は四方を見る。自分の身体すら見えないのに、相手の姿が見つかる筈もない。わかっているが、それでも探してしまった。

 聞きたかった声だ。この声の持ち主に、尋ねたいことがある。そう直感するのに記憶は回答を示さない。もどかしさを抱えながら、文輝はもう一度四方を見渡した。

 そうこするうちに、一度目よりも近くで声が聞こえる。


「小戴、俺を探しているのか」


 目で探そうとするな。と声の持ち主が言う。言葉の意味がわからなくて困惑した。それでも、答えを知りたくて声の忠告をどうにか噛み砕く。文輝の目に映るのは黒一色だ。どうせ何も見えないのだから、と瞼を閉じる。肉体から離れた魂に瞼という概念があるのかはわからなかったが、今までそうしてきたように、そっと目を伏せた。暗闇の世界は変わらない。

 三度目の声が聞こえる。


「小戴、俺はお前の目の前にいる」


 もう見える筈だ。声に導かれるように記憶が鮮明になる。この声は、この温かみは、この憂いはとう華軍かぐんのものに相違ない。

 何もかも一人で背負って、何の説明もせずに壮大な遺書を残して、一方的に消えてしまった。華軍が何を思って手の込んだ自殺をするに至ったのか。遺書はそれを弁明したが、文輝は今も納得が出来たわけではない。

 数えきれないほどの不条理と憤りを残していった。

 それらの全てを解決することが不可能でも、文輝はまだ華軍に問いたいことが残っている。

 閉じていた瞼をゆっくりと開く。声が告げた通り、生前の姿をした華軍が暗闇の中で立っていた。


「華軍殿」


 ぽつり呟くように声が漏れる。警邏隊けいらたい戦務班せんむはんで過ごしていたときと何ら変わりない華軍の姿に、どうしてだかはわからないがひどく安堵した。胸につかえていたものがすっと消えるような感覚を味わう。憤りがなくなったわけではないが、それよりも安堵の方が大きかった。

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