104.瓜二つの真相【Side:Y.M.】(上)
「たべちゃった……?」
口をぱくぱくと動かしながら侑里先輩の言葉を繰り返す香坂さん。まだ言葉の意味が呑み込めていないのだろう、『頭が真っ白で何も考えられません』とその顔にははっきりと描かれてあった。
「そんなに驚くことかなあ。戦時中もあたしの蜘蛛がおたくの兵士襲って食べてるとこくらい見たことあるでしょー?」
そんな彼に侑里先輩は首をこてんと傾ける。この凍り付いた空気にはあまりにも不釣り合いで呑気な口調だ。
けれどもそれただ精一杯に取り繕っているだけなのだと知っている。私じゃなくても少しでも彼女を知る人ならこれが虚勢だなんて簡単に分かるだろう。
「名前……アナベルだったっけ? まさか王妃だったとはねー。みすぼらしいカッコしてんのに妙に気品があるなとは思ってたんだー」
「テ、メェ……! よくも……」
我に返った香坂さんがぎろりと先輩を睨みつける。
そのまま掴みかかろうとする相手に向かって、先輩は目をすぅと細めて言い放った。
「なんであんたの方がそんな怒ってんの? 恩人に託された息子を喜んで敵に差し出したくせにさあ」
「ッ――!」
痛い所を突かれて動きを止めた相手にアハハと笑う。それは意地悪く相手を煽るものにしてはあまりにもいびつだった。
そしてすぐに今度は侑里先輩の方が香坂さんの胸倉を掴んで、ぐいと顔を近づける。
「ま、あんたが前世でやったことなんかあたしにとっては正直どうでもいいんだ。サーシス王のことだしきっと前世のあんたへの復讐は済んでるんでしょ」
侑里先輩も平均的な女子よりも大分身長が高い部類に入るのだけれど、なにしろ香坂さんの身長が高すぎてやや下から見上げる形になってしまっている。
けれどもそんな体格差を感じさせないほど、今の二人から出る覇気は対照的だった。
「アナベルの仇を取りたいんならすればいい。自分で言うのもなんだけど掘ればいくらでも厄ネタ出てくるからね、その気になればあたしを破滅させるくらい簡単だよ」
「っ!? 何を言ってるんだ……!」
蓮水先輩が慌てて声を上げるけれど、それを無視して侑里先輩は続ける。
「でも、一つだけ言っとく。敢えてこういう言い方をするけど――またあたしの身内の人生まで滅茶苦茶にしようとするのなら絶対に許さない」
この身がどうなっても必ずあたしが地獄に落としてあげる。
目に強い光を灯し、どこか妖艶さと儚さが入り混じった笑みを浮かべてそう言い放つ。
それを見た香坂さんの鮮やかな朱色の瞳が大きく揺れた。
「あ――」
先輩を凝視したまま、声にならない声を出し、まるで時が止まったかのように動かなくなる。
彼が見ている侑里先輩がするものともアイリーンがするものとも違うその表情。私は一度だけ見たことがあった。
――ねえ、もう辛い場所はない?
――……おかげさまで、後は安静にしてるだけでいいらしいよ。
――そっかあ。
四日前、蓮水邸で紫藤薫子が去った直後の樫山さんとのやり取り。
当時私はその会話と二人の表情を見て完全に勘違いしてしまったけれど、今ならその理由が分かる。
侑里先輩は掴んでいた胸倉をゆったりとした動きで突き放す。突き放された相手は少しだけよろめいて、その場に崩れ落ちてしまった。
「アナベル、様……」
呆然と、その名を呼ぶ。
ああ、原理までは分からなくてもこの人は気づいてしまったんだなと、漠然と思った。
微妙な間を置いて、ガタリと激しく椅子が動く音が響く。
「おい侑里、どういうことだ!? 人間を食べることは姉上に禁じられていたはずだろ!?」
見ると、一足先に我に返った蓮水先輩が侑里先輩に詰め寄っていた。
アイリーンがルミベルナに従うことになった時に、ルミベルナと交わした約束。人間から余計な注目を集めさせないようにするためのものだったけれど、戦争が始まってからはその意味もなくなって無かったことになった。
「そうだよ。でも一回だけ言いつけを破っちゃたんだ」
アイリーンはルミベルナに忠実だった。
ルミベルナの意見に反対することは基本なく、最期魔晶族全員で自爆することを伝えた時も多少の驚きは見せど何の反論もせず大人しく従ったほどだ。
「どうして、よりにもよってお前が姉上に背くようなことを……!?」
それをかつて間近でずっと見ている蓮水先輩は、困惑を隠し切れないようだった。
この異様な空気に兄さんと陽菜さんはおろおろとしている。今回の件、二人には何の関係もない。本当なら今後のことについて話し合う有意義な時間を過ごすはずだったのに、巻き込んでしまって申し訳ない。
そして、いつの間にか縛られていた糸を全て解いていた樫山さんは――
「……」
元々あまり血色のよくない頬をさらに白くして、ごっそりと感情の抜け落ちた能面のような顔で先輩を見ていた。
当然だろう。
正直、このことはずっと秘密に出来るものなら秘密にしておきたかった。特に樫山さんには。この事実は――樫山さんにとってはあまりにも、あまりにも残酷なものだから。でも――
これまでの二人の態度。本当に気がつくか気がつかないかのほんの小さな違和感。
きっと、勘の鋭い彼は分かっていた。
詳細までは分からずとも、侑里先輩がこの件について何か隠していることを。それが後ろめたいものであることを。
実際に王太后の顔を知る人物が現れたのは想定外だったけれど、このままでいるのも時間の問題だっただろう。
蓮水先輩から顔を逸らした侑里先輩は、そのまま目を伏せた。
「食べた理由は簡単、彼女の姿になりたかったからだよ」
◆
「前世のあたしが、人型に化ける方法を探してたのは覚えてる?」
あの日の夜、先輩は私にそう聞いた。
その問いに、先輩が家に帰る道の途中での会話の続きをしようとしているのだとすぐに気づく。赤いソファにほとんど動かせない身体を預け、少し緊張気味に「はい」と頷いた。
昼間もいた先輩の家。電気は付いておらず月の光だけが差し込む部屋で、先輩の姿が青白くぼんやりと浮かんでいる。
「言語を使える魔晶族ってほとんどいなかったじゃん? その中でルミベルナ様もルカ坊も人間に近い見た目しててさー、自分だけ蜘蛛の姿ってのもやっぱちょっと疎外感っていうの? 寂しかったんだよねー」
「そんな……」
そんな理由だったなんて。
アイリーンは大型車と同じくらいのサイズをした巨大な蜘蛛だ、それはもうとてつもなく目立つ。少しでも人間の目の届く場所にいればあっという間に噂になってしまうことが簡単に想像出来るくらいには。
だから当時アイリーンが人型になる方法を探していたのは、ルミベルナ達と一緒に行動するにあたって目立たないようにするためなのだと思っていた。
「もちろん二体がちゃんと仲間として受け入れてくれてたことは分かってたよ? ただの自分の気持ちの問題」
かつての自分は、アイリーンが人知れずそんな孤独を抱えていたことに気づいてあげられなかった。……違う、一番守りたかった弟の想いにすら目を背けていた自分が、アイリーンの心の奥底の感情に気づくわけがなかったのだ。
本当に、前世の自分は酷いことをしてしまったのだと思い知らされる。
「ごめんなさい……私」
「そんな顔しないでよー、遠い昔の話なんだからさ。それにアイリーンはルミベルナ様と一緒にいられるだけで幸せだったんだよ」
思わず口に出た謝罪に、先輩は首をふるふると横に振り「そんなワケで」と続けた。
「自分も同じ人型になれれば解消出来るのかなーって、なんならルミベルナ様に褒めてもらえるかなーってさ。
最初は書物に描かれてる人間の絵を参考にしてたんだけど全然上手くいかなくって。やっぱ本物の人間を見ないとって思って、小型の蜘蛛を人里に派遣して人間観察を始めたんだ。その時に、見つけたんだよ」
私の隣に座った先輩は、当時を懐かしむように目を細める。
「それが……今の先輩ですか?」
「そうだよ。集落から外れた場所でまだ小さい息子と二人で暮らしてた、とても、うつくしい人。見目だけじゃない、その佇まいも何もかもが今までに見てきたどの人間よりも際立っていて……一目惚れだった。自分がなりたいのはこの姿だって思ったんだよ。
それで、頑張ってその人を模倣しようとしたんだけどさ、やっぱり上手くいかなかった。姿かたちは同じになれるんだけど、作り物めいてるっていうか……人形が動いてるみたいで違和感がすごかったんだよね。結局満足いく姿になれなくて行き詰まっちゃった」
整った眉を下げてしゅんとしているけれど、今こうしてその人の姿になれている時点で、アイリーンはその人を模倣出来たということになる。
ならどうやって成功させたのか――
「それが、さっき言ってた罪に繋がってくるんですね」
アイリーンがたった一つだけルミベルナに隠したという、罪。
樫山さんと今世で姉弟になったことに関わっているらしいけれど、一体どういうことなのだろう。
「途方に暮れてた時、たまたま見返してた書物にさ、ある呪術を見つけたんだ」
「呪術、ですか?」
「うん、簡単に言えば『対象を食らうことでその対象の魂の一部を自分の中に取り込む』術だよ」
「え……!?」
対象を食らうことで魂の一部を自分の中に取り込む……!?
「でもルミベルナ様に人間に危害を加えることは禁じられていたから、そんなこと出来るわけなくて……その時はそこで終わったんだ」
目を見開いた私に、先輩はすぐにそう続けるけれど。
でも『その時は』ということは。
何となくだけれど、話の結末が見えたような気がする。
「手詰まりになっても結局観察を続けるのは止められなくて、しばらく経った時だった。いつものようにその人の観察に行ったらさ、その人の家がたくさんの兵士に包囲されてたの。兵士たちの狙いはその人の息子みたいだった」
「息子……」
「きっとただの庶民じゃなかったんだろーね。貧しい暮らしだったし、周辺の人たちからは疎まれてたみたいだけど……しょっちゅうそこら辺の村人とは思えない人たちが出入りしてたから。当時は没落した元貴族なのかなって思ってた。
で、さ。もう分かってると思うけど、似たような話、どっかで聞いたことあるでしょ?」
確信を持って投げかけられた問いに、ごくりと唾を呑み込む。
似たような話を聞いたことがあるか?
そんなの、あるに決まっている。しかも今日の昼間に当事者から聞いたばかりだ。
「樫山さん……」
「そう。あたしが模倣しようとずっと観察してた人は、王都を追放されたサーシス王のお母さんだったんだよ」
サーシス王が国への復讐を決意した、きっかけ。
まさかサーシス王の過去にアイリーンが関わってくるなんて。樫山さんから話を聞いている時には思いもしなかった。
「それで、どうなったんですか」
「その人は息子――サーシス王を先に逃がして、一人残って兵士の足止めをしてた。魔法の腕は中々のものだったよ、たった一人で複数人相手に互角にやりあえてたんだから。アイリーンも観察しているうちにいくらか情が湧いてたのかもね、気がついたら自分の図体も気にせず飛び出しちゃってた。でもやっぱり数には敵わなかったのか……到着した時には既に致命傷を負ってたんだ。
血塗れで横たわったその人を囲んで盛り上がってる兵士たちを見て、すぐにそいつらを全員殺したよ。こんなにうつくしいひとを殺して喜ぶのが……我慢出来なかったんだ」
当時を思い出しているのか、先輩の顔は怒りと悲しみが入り混じったように歪んでいた。
それだけ許せなかったのだろう。『人間に危害は加えるな』というルミベルナの言いつけを破るほどに。
「兵士たちを殺して血の海にした後ふとその人を見たら、まだわずかに意識はあったみたいでさ、蜘蛛のあたしにちっとも怯えずにじっと見つめてたんだ。見つめ返したら、一瞬だけ目が光って、でもすぐに濁って……ピクリとも動かなくなった。ああ、死んじゃったんだなって。憧れて同じ姿になろうと観察してた人だったからさ、やっぱり悲しかった。……その時に例の呪術が頭に浮かんだんだよ」
ここであの呪術が出てくるんだ、と緊張が走る。
「思ったんだ。もう死んでるんだから食べちゃってもいいじゃんって。死んでるから魂を取り込めるかは分からないけど、死んだばっかりだしやってみる価値はあるって。そう思ったら抑え切れなくて……食べちゃった」
その呪術についてはさっぱり分からないけれど、魂を取り込むわけだから、先輩の言う通り相手が生きていないとうまくいかさなさそうな気はする。
でもこうして今この姿でいるということは――
「期待半分だったけど、上手くいった。それからはその人に上手く化けられるようになったんだよ」
これがアイリーンが人型を取れるようになった経緯。そして、ルミベルナに隠し続けた罪なのか。
でも、幼い頃のサーシス王を見たことがあったのなら、戦争の時に分からなかったのだろうか。
「分かるわけないじゃん、当時と人相が違い過ぎるよ。まずあたしの興味はその人にしかなかったから、息子のことなんてすっかり忘れてたし……それにあんな貧しい生活してたコが、あの後王様になるなんて思わないよ」
それを訊ねるとそう即答された。
確かにサーシス王と樫山さんは別人レベルに顔つきが違うし、アイリーンが対象以外に興味を持つことも考えずらい。先輩の言い分は分かるけれど……もし、前世でそれに気がついていたらどうなっていたんだろう?
「ホント、変だよね。息子のことなんて全く覚えてなかったはずなのに。昼間の八千代との話でサーシス王のことを思い出そうとした瞬間、鮮明に浮かび上がってきたんだ」
「……っ!」
じゃああの時、様子がおかしかったのは。
思い出すのは青白い顔でわなわなと震える先輩の姿。
――嘘だ、あのコがそんなわけ。
あれは弟がサーシス王の生まれ変わりだと気がついたからだと思っていたけれど、それだけじゃなくて、サーシス王がかつて自分が魂を取り込んだ人間の息子だと気がついた、から?
「きっと」
今にも消えそうな声に、はっとする。先輩は俯いていて、長い金髪がカーテンのように下りているから顔は見えない。でも、その身体は、あの時と同じくらいに震えていた。
「きっと、あたしがお母さんを食べちゃったから、魔晶族が人間の魂なんて取り込んじゃったから、サーシス王と繋がりが出来て、こんな生まれ変わり方をしちゃったんだ。
……これってさ、やっぱり罰なのかな。ルミベルナ様との約束を破ったのに、最期まで隠し通しちゃったから」
「そんなこと、」
ない、とは言えなかった。
犯した罪と同じだけ罰はある。それはこうして生まれ変わって、前世の記憶が戻ってから、嫌というほど思い知らされたことだった。
先輩は顔を上げて私を見る。きっと強張った顔をしているだろう私に、今にも泣き出しそうに、笑った。
「あたしが罰を受けるのは、いいんだ。でも、」
この罰に、りっくんを巻き込んじゃったことが、苦しい。
限界だったのだろう。
震える手で両手で顔を覆い、嗚咽を漏らし始める。
それは、どういう意味での、巻き込んじゃった、なのだろう。
いくつか思い浮かんで、でも、とても訊ねることは出来なかった。